日の出の空は何故紅い

 南京錠を空けて、屋上への階段を上った。地上十七階ともなると風もうすら寒く感じる。冬が近づいているだけではない。地表から余りにも離れ過ぎているのだ、と吉宗よしむねは思った。階段の果ては赤い錆が目立つ。抗酸化塗装がそこだけ剥げているせいだった。関係者以外に立ち入る筈もないから、施工業者が塗料を惜しんだだけだろう。だが、他の多くの物と同じように金属も腐食は伝染する。実際紅い錆は南京錠で閉ざされていた扉のすぐ傍まで侵食しており、塗料を浮かせていた。ここ浦安では鉄工場てっこうばからの燻煙や、抗酸化処理を施す化学加工工場のばい煙が夥しく、それらに含まれる酸が雨水に溶け、強い酸の雨が降るという。だから中高度以上の建物に使用される鉄骨等の金属部品は、非腐食性のものかもしくは抗酸化処理を施したものであるはずだった。確か法律か何かで規制されていたはずだ、と吉宗は聞きかじりの知識で考えた。

 雑といえば、人目につかないこういった部分の管理も雑だ。部外者の吉宗が侵入できたのは、施錠している南京錠が一般的な家庭の土蔵などに使われてる大量生産された汎用のものだからで、その型番さえ知っていれば地道に金物屋で鍵をかき集めてくることで型番を合わせて空けることが出来てしまうのである。いくら鉄鋼の街であるからといって、鉄鋼自体が頑丈であっても、所詮は大量生産の南京錠だと安物は鋳鉄による型取りのものが殆どで、同じ型番のものは同じ型に嵌められて作られているのだから鍵が合うのは道理だった。彼のようなからすれば当たり前に会得していることであるが、公営住宅ですらこうした管理が日常的であるというこの光景を目の当たりにして、どうやら常識ではないらしい、と思索を巡らせた。

 作業着のポケットから煙草を取り出して、南風を浴びながら精油灯機オイルライターで火をつけた。口元から紫煙がふき出され、それは北へ向かっていった。煙の向かった方を眺めれば、眼下には積層された集積住宅群が、日差し除けのための薄い色の塗装で並んでいた。こうしてみると出来の悪い幽霊に見えなくもない。吉宗はふとそう思った。出来が悪いのはお互い様だとも同時に思った。警笛の音がして奥を見遣ると、薄い鋼鈑で流線形に形作られた高機動機関車が豪奢な造りの客車を引き連れて高速で帝都の方角へ向かっていった。振り返ると、一面に薄い碧が広がっていた。工業廃水で黒ずんだという噂もあるが、少なくとも吉宗は特に気にしていなかった。これが海の色なのだろうと思えてならないのである。遠くには巨大な貨客船が東京湾を横断しており、その反対側、東の方角には延々と続く工業地帯と、その先の丸々とした構造物が特徴の石油化学工場群コンビナートが並んで、蜃気楼のごとくゆらめいている。日はかなり西に傾き、夕方が近づいていた。

 公営住宅の住民は思った以上に貧困だったと吉宗は思った。這入れるような場所には金品が殆ど残っていなかったのだ。かといって鉄鋼団地の工場群は巨大な工場部品が多く、吉宗のようないわゆる「一匹狼」にとっては厳しい場所だったし、ここまで北栄、海楽、弁天、今川と渡り歩いて散々荒らした為にここ日の出から出るとなると浦安には稼げるような場所がなかった。京葉工業地帯の西端、帝都に最も近い鉄鋼流通基地を持ち、生産性は中核市にも準ずると呼ばれる浦安がまさかこの程度だったとは期待外れであったと言わざるを得ない。綿密な下調べをした割に、日々の暮らしで精一杯だった。短くなった煙草を地下足袋で揉み消して、吸い殻を丁寧に拾って携帯灰皿に入れた。痕跡を遺せば文字通りそこから足がついてしまう。こういう休憩こそ、最も慎重に行うべきであると、彼の「師匠」の口癖だった。

 吉宗が泥棒となったのは巡り合わせというほかない。中学を卒業する頃に父を亡くし、高校に進学出来たと思ったら母が過労で斃れた。齢十五にして吉宗は弟の吉信よしのぶ以外に親族を失ってしまったのだ。そして、彼は吉信と話し合いの末、散り散りに生きていくことに決めたのだった。しかし、それがいけなかった。元来口下手で自分の能力すらも判らない青年は雇い手が見つからず、離散後数ヶ月で橋の下で暮らすことを覚えた。

 そんな中に現れたのが「師匠」だった。

「お前、いつまで物を待っているんだ。そんなもん、足りてないんだから待ってたって来やしないよ」

 痩躯の男はそう言って彼を手招きし、しばらく通りをぶらつくと、一軒家に忍び込んで瞬く間に時計を持ってきた。

「こいつを質屋に入れな」

 はたして、質に入れれば銀貨が二枚となった。

「それ見ろ。おれたちはこうして生きていくしかない。どうせ、物なんか足りてねえんだ。家を持っている奴に遠慮はいらねえ。ちょっと戴いたところで雨に濡れねえんだから」

 そう言って「師匠」は吉宗を引き連れ空き巣を繰り返した。家を渡り歩いていくうちに、吉宗は盗みの「空気」が判るようになった。この家は這入ったところで書生にたたき出されるだろう、この家は猛犬がいて喉を引きちぎられるかもしれない、等々が這入らずとも想像できるようになり、家の中に這入ればある程度、金品を容易に手に入れる方法が掴めるようになった。

「おう、おれの見込んだとおりだな」

 「師匠」から認めてもらえるのも、嬉しかった。「師匠」は盗みの肝要を、吉宗に伝授していく。時に言葉で、時に手さばきで、時にその何も言わぬ背中で。

 そうして数年もの間、勅令市の船橋で吉宗と「師匠」は荒らし廻ることが出来た。

 「師匠」との出会いも突然だったが、別れも突然だった。

「この家、随分と金の臭いがするな」

 広大な邸宅を前に、「師匠」は身震いした。いつもの通り船橋を作業着姿でぶらついていたら、終にそれを見つけてしまったのである。長いこと船橋を歩き回ったが、はて、おれは何故この邸宅を見落としていたのだろう、いや、見落としなどしなかった筈だ。吉宗の脳裏に紅い光がちらつく。彼はいうなれば、既に盗みの信号を持ち歩いていた。それに、もう宵の口だが、灯りひとつないし、これほど大きな邸宅なのに巡回の警備ひとり居ないのは不自然だ。吉宗は「師匠」にそう進言した。

「馬鹿野郎、何言ってやがる。こいつを仕留めればおれたちは足を洗えるかもしれねえんだぞ。それにそんな不用心な家だから忍び込むんじゃねえか。臆病者め。そんならおれ独りで行くよ。お前に分け前はやらねえからな。どこへなりとも消えちまえ!」

 そう言って「師匠」はその門扉を軽業師のようにすっ、と超えていった。程無くして怒号が聞こえ、銃声も聞こえ、周りが騒がしくなり吉宗は恐ろしくなって逃げた。

 逃げてからどうしても気になって、図書館の文献と情報端末であの邸宅について調べてみた。高等学校の情報収集の技術の指南が正に役に立った。結局のところ、件の邸宅は任侠者やくざものの詰所であったこと、そういった者の邸宅はいつ何時敵対勢力の急襲があるか判らないので通りに面している窓は分厚い鉄扉で塞がれており、夜でも灯りが漏れないように造られていること、吉宗たちのようなが侵入を試みようものなら屈強な見張り番の若衆が徒党を組んで押し寄せてくることを知った。それ以来、彼は下調べに拘るようになった。船橋から行徳、市川、八幡を巡る際も、そこがどんな街で、どのような歴史があって、どの街区にどのような人間が住んでいるのかを綿密に調べる癖がついたのだ。その調査は図書館や市役所のみならず、警察署にまで及んだ。警察署に泥棒が這入るなど考えられないだろう。実は当の警察官たちもそう思っているので、日中堂々と作業服を着て工夫こうふを装えば、余程不自然な振る舞いでもしなければ警察署へ這入れてしまうのである。そうして彼は刑事課や生活安全課などの外で聞き耳を立てて警官たちの会話を聞き、そこから彼らの目がどちらに向いているのかを察して裏をかいていったのである。それが功を奏したのか吉宗が警官に見つかることはなかった。しかし、それだけ調べを綿密に行ったわりに、彼は日銭に常に困っていた。不幸にも彼は気が付いていなかったのだが、綿密に調査をした結果忍び込むことが容易で、しかも人目につかないというのは大抵の悪人であれば勘が働いてその場で盗みや詐欺を働くもので、従ってそういった家の住人というのは極端に貧乏な場合が非常に多いのである。彼がいざ家に這入って金品を物色しようにも、目ぼしいものが既にない、なんてことは枚挙に暇がないほどであったが、彼はそれが、まさか自分の綿密すぎる調査のせいであるとは考えなかったのだ。だから今回も、集積住宅は一度に多くの邸宅を攻略できると踏んで日の出の公営住宅に手を出したのだが、例えば侵入しようと硝子窓を割ろうとすれば、その音によって周囲の部屋に危険を察知されてしまったり、集積住宅ゆえに住民同士の距離が近いので顔を見られないようにするのが難しいといった、盗みに向かない理由を吉宗は向かって初めて気が付くのであった。だから、今回の「あがり」も予想には遠く及ばないほど小さなものであった。

 浦安も、潮時か。

 彼はそう呟いて、集積住宅の螺旋階段を下りて行った。

 下りた先の住宅の入り口で警官と鉢合わせした。見たことのない顔だった。心の中で戦慄したが、工夫を装って軽く挨拶して通り過ぎようとした。

「ちょっと待って」

 警官に呼び止められ、彼の背筋に脂汗が走った。

「兄さん? 吉宗兄さんだよね」

 その声に振り向くと、警官帽のつばの奥に、記憶よりずっと精悍になってはいたものの、決して多くはない、懐かしさを覚える顔を見つけた。

「吉信? 吉信なのか」

 兄の言葉に、弟の顔がほころんだ。

「兄さん、生きていたんだ」

「まさかこんなところで出会うとはな」

 その言葉通りではあったものの、吉宗は気が気でなかった。生き別れの弟が警察官になっていたとは思いもしなかった。そして、こんなところで出会うことも。

「お前、警官になったのか」

「そうなんだ。この春から、ずっとそこの日の出交番に住み込みで勤務させてもらってるんだ」

 吉宗は交番という言葉を聞いて、しまったと思った。警察署まで調べていたのだが、交番を調べたことは一度もなかった。つまり、彼が這入って捕まらなかったのは偶々であったと判ってしまったのである。

「兄さんは、一体何をしているの? この辺で工事なんかあったっけ」

 対して、吉信は無邪気だった。目の前の兄がまさか自分が捕らえるべき存在であるとは思いもよらない様子だった。しかし、どういう職にあるのかだけは興味津々といった具合だった。その態度が吉宗を猶更辛くさせた。ここで適当にはぐらかせば、一生弟の顔を見ないまま、自分は泥棒稼業で日を凌いでいけるだろう。それは弟に自分が泥棒であると知らせないまま一生を終えることになるので、できればそうしたかった。けれど一方で、このまま気の遠くなるような毎日を過ごしていて何になるのだろう、いっそのこと、吉信に総て話して捕まえてもらった方がいいのではないか、とも思った。しかしそうすれば実の兄が泥棒を働いていたことになるわけで、吉信の立場も危ないのではないか。いや、生き別れた兄が何をしようと勝手ではないのか。それなら今、ここで自首する必要だってないのではないか。泥棒の信号は紅から青、青から黄という風にちろちろと色を変えながら点滅していく。

「兄さん?」

 吉信のいぶかしむ声と、吉宗が涙ながらに両手を差し出したのが重なった。

「おれは、泥棒なんだ。頼む、逮捕してくれ」

 吉宗はそう言うのがやっとで、膝から崩れ落ちた。吉信はそんな兄の肩に手をやり、何かを悟ったようにうなずいた。

「わかった。とりあえず、交番で話を聞くよ。嘘とも思えないし、それに、兄さんの話を聞きたいからさ」

 交番に向かう警官と泥棒を、夕陽が紅く照らす。

 吉宗の頭は紅に染まっていた。けれど、その心はどこか清々しくて、先ほどの屋上と同じような南風が吹いているような心持ちがした。

 

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