日の出の空は何故紅い
南京錠を空けて、屋上への階段を上った。地上十七階ともなると風もうすら寒く感じる。冬が近づいているだけではない。地表から余りにも離れ過ぎているのだ、と
雑といえば、人目につかないこういった部分の管理も雑だ。部外者の吉宗が侵入できたのは、施錠している南京錠が一般的な家庭の土蔵などに使われてる大量生産された汎用のものだからで、その型番さえ知っていれば地道に金物屋で鍵をかき集めてくることで型番を合わせて空けることが出来てしまうのである。いくら鉄鋼の街であるからといって、鉄鋼自体が頑丈であっても、所詮は大量生産の南京錠だと安物は鋳鉄による型取りのものが殆どで、同じ型番のものは同じ型に嵌められて作られているのだから鍵が合うのは道理だった。彼のようなこそどろからすれば当たり前に会得していることであるが、公営住宅ですらこうした管理が日常的であるというこの光景を目の当たりにして、どうやら常識ではないらしい、と思索を巡らせた。
作業着のポケットから煙草を取り出して、南風を浴びながら
公営住宅の住民は思った以上に貧困だったと吉宗は思った。這入れるような場所には金品が殆ど残っていなかったのだ。かといって鉄鋼団地の工場群は巨大な工場部品が多く、吉宗のようないわゆる「一匹狼」にとっては厳しい場所だったし、ここまで北栄、海楽、弁天、今川と渡り歩いて散々荒らした為にここ日の出から出るとなると浦安には稼げるような場所がなかった。京葉工業地帯の西端、帝都に最も近い鉄鋼流通基地を持ち、生産性は中核市にも準ずると呼ばれる浦安がまさかこの程度だったとは期待外れであったと言わざるを得ない。綿密な下調べをした割に、日々の暮らしで精一杯だった。短くなった煙草を地下足袋で揉み消して、吸い殻を丁寧に拾って携帯灰皿に入れた。痕跡を遺せば文字通りそこから足がついてしまう。こういう休憩こそ、最も慎重に行うべきであると、彼の「師匠」の口癖だった。
吉宗が泥棒となったのは巡り合わせというほかない。中学を卒業する頃に父を亡くし、高校に進学出来たと思ったら母が過労で斃れた。齢十五にして吉宗は弟の
そんな中に現れたのが「師匠」だった。
「お前、いつまで物を待っているんだ。そんなもん、足りてないんだから待ってたって来やしないよ」
痩躯の男はそう言って彼を手招きし、しばらく通りをぶらつくと、一軒家に忍び込んで瞬く間に時計を持ってきた。
「こいつを質屋に入れな」
はたして、質に入れれば銀貨が二枚となった。
「それ見ろ。おれたちはこうして生きていくしかない。どうせ、物なんか足りてねえんだ。家を持っている奴に遠慮はいらねえ。ちょっと戴いたところで雨に濡れねえんだから」
そう言って「師匠」は吉宗を引き連れ空き巣を繰り返した。家を渡り歩いていくうちに、吉宗は盗みの「空気」が判るようになった。この家は這入ったところで書生にたたき出されるだろう、この家は猛犬がいて喉を引きちぎられるかもしれない、等々が這入らずとも想像できるようになり、家の中に這入ればある程度、金品を容易に手に入れる方法が掴めるようになった。
「おう、おれの見込んだとおりだな」
「師匠」から認めてもらえるのも、嬉しかった。「師匠」は盗みの肝要を、吉宗に伝授していく。時に言葉で、時に手さばきで、時にその何も言わぬ背中で。
そうして数年もの間、勅令市の船橋で吉宗と「師匠」は荒らし廻ることが出来た。
「師匠」との出会いも突然だったが、別れも突然だった。
「この家、随分と金の臭いがするな」
広大な邸宅を前に、「師匠」は身震いした。いつもの通り船橋を作業着姿でぶらついていたら、終にそれを見つけてしまったのである。長いこと船橋を歩き回ったが、はて、おれは何故この邸宅を見落としていたのだろう、いや、見落としなどしなかった筈だ。吉宗の脳裏に紅い光がちらつく。彼はいうなれば、既に盗みの信号を持ち歩いていた。それに、もう宵の口だが、灯りひとつないし、これほど大きな邸宅なのに巡回の警備ひとり居ないのは不自然だ。吉宗は「師匠」にそう進言した。
「馬鹿野郎、何言ってやがる。こいつを仕留めればおれたちは足を洗えるかもしれねえんだぞ。それにそんな不用心な家だから忍び込むんじゃねえか。臆病者め。そんならおれ独りで行くよ。お前に分け前はやらねえからな。どこへなりとも消えちまえ!」
そう言って「師匠」はその門扉を軽業師のようにすっ、と超えていった。程無くして怒号が聞こえ、銃声も聞こえ、周りが騒がしくなり吉宗は恐ろしくなって逃げた。
逃げてからどうしても気になって、図書館の文献と情報端末であの邸宅について調べてみた。高等学校の情報収集の技術の指南が正に役に立った。結局のところ、件の邸宅は
浦安も、潮時か。
彼はそう呟いて、集積住宅の螺旋階段を下りて行った。
下りた先の住宅の入り口で警官と鉢合わせした。見たことのない顔だった。心の中で戦慄したが、工夫を装って軽く挨拶して通り過ぎようとした。
「ちょっと待って」
警官に呼び止められ、彼の背筋に脂汗が走った。
「兄さん? 吉宗兄さんだよね」
その声に振り向くと、警官帽のつばの奥に、記憶よりずっと精悍になってはいたものの、決して多くはない、懐かしさを覚える顔を見つけた。
「吉信? 吉信なのか」
兄の言葉に、弟の顔がほころんだ。
「兄さん、生きていたんだ」
「まさかこんなところで出会うとはな」
その言葉通りではあったものの、吉宗は気が気でなかった。生き別れの弟が警察官になっていたとは思いもしなかった。そして、こんなところで出会うことも。
「お前、警官になったのか」
「そうなんだ。この春から、ずっとそこの日の出交番に住み込みで勤務させてもらってるんだ」
吉宗は交番という言葉を聞いて、しまったと思った。警察署まで調べていたのだが、交番を調べたことは一度もなかった。つまり、彼が這入って捕まらなかったのは偶々であったと判ってしまったのである。
「兄さんは、一体何をしているの? この辺で工事なんかあったっけ」
対して、吉信は無邪気だった。目の前の兄がまさか自分が捕らえるべき存在であるとは思いもよらない様子だった。しかし、どういう職にあるのかだけは興味津々といった具合だった。その態度が吉宗を猶更辛くさせた。ここで適当にはぐらかせば、一生弟の顔を見ないまま、自分は泥棒稼業で日を凌いでいけるだろう。それは弟に自分が泥棒であると知らせないまま一生を終えることになるので、できればそうしたかった。けれど一方で、このまま気の遠くなるような毎日を過ごしていて何になるのだろう、いっそのこと、吉信に総て話して捕まえてもらった方がいいのではないか、とも思った。しかしそうすれば実の兄が泥棒を働いていたことになるわけで、吉信の立場も危ないのではないか。いや、生き別れた兄が何をしようと勝手ではないのか。それなら今、ここで自首する必要だってないのではないか。泥棒の信号は紅から青、青から黄という風にちろちろと色を変えながら点滅していく。
「兄さん?」
吉信のいぶかしむ声と、吉宗が涙ながらに両手を差し出したのが重なった。
「おれは、泥棒なんだ。頼む、逮捕してくれ」
吉宗はそう言うのがやっとで、膝から崩れ落ちた。吉信はそんな兄の肩に手をやり、何かを悟ったようにうなずいた。
「わかった。とりあえず、交番で話を聞くよ。嘘とも思えないし、それに、兄さんの話を聞きたいからさ」
交番に向かう警官と泥棒を、夕陽が紅く照らす。
吉宗の頭は紅に染まっていた。けれど、その心はどこか清々しくて、先ほどの屋上と同じような南風が吹いているような心持ちがした。
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