夏、平成、「あたり屋」

「幸太、あそぼ!」

 黄土色の短パン、よれよれの白い丁シャツに、麦わら帽子をかぶった寛治は、虫取り網を持たせれば完璧だった。夏ってこういうことをいうのだろう。

 ラジオで大人が難しい話をしていて眠かったので、ぼくは宿題を片づけて眼鏡をかけた。

「いいよ」

 父は工場へ仕事で、母も町内会でいない。もとより二円の小遣いを持たされていて、それで生活するようないわゆる「銅貨っ子」だから、どこかに行くだのなんだのと声をかけなくてもいい、ただ宿題だけはきちんとやらないとぶたれるだけで、だからつまりぼくはふつうの家の子どもなんだと思っている。

 ラジオを消して、家に鍵をかけた。

「なあなあ、ラジオで聞いたんだけど、ヘーセーが今年で終わるらしいぜ」

「ああ、その話ね。次の元号はなんだろうね」

「ゲンゴウ?」

「平成、とか昭和、とかのやつ。あれって元号っていうんだ」

「へえ、幸太ってやっぱものしりだな!」

 寛治は目を輝かせた。

「つまりあれだろ? 今はヘーセー最後の夏だってことだろ! なんだかワクワクするだろ!」

「そうだな、そう言われるとわくわくしてくる」

 確かにぼくもどこか楽しくなってきた。夏休みはあと一週間しかない。だから平成最後の夏は、もう一週間しかないのだ。それにぼくたちは、気がついてしまった。

 眼鏡に煤除けをかけると、日が涼しく見えた。薄い青空は少しだけ青く、ぎらぎらと眩しい猫実ねこざねの路地はほんの少しだけ水の中みたいな涼しい色合いになる。

「あ、幸太煤眼鏡かよ! いいなあ俺にも!」

 乱暴にひったくられてぼくの視界は真っ白に塗りつぶされる。ひどくぼやけた麦わら帽子の寛治が、落ち着かない様子できょろきょろしていることだけはなんとなくわかった。

「げえ、なんだこれ、道がゆがんで見える」

「そりゃそうだよ、ぼくの眼鏡だもん」

 かえして。

 静かにそう言うとちゃんと返してくれる寛治が、ぼくは好きだ。

「あんなきっつい眼鏡かけて大丈夫なのかよ?」

「あれじゃないとぼくは寛治の顔も見れないんだ」

「お前そんなに眼が悪いのか」

「まあね、生まれつき」

 勉強ばかりしているから眼が悪くなって眼鏡をかけていると思われがちだけれど、ぼくはその逆で、生まれつき眼が悪いから眼鏡をかけているし勉強ばかりするようになった。

「へえ、そういえばそんなこと言ってたな」

 何回か言っているはずだけど、特に気にしないのが寛治だし、そこがちょうどよかった。

 入道雲は天高くのぼり、青々とした夏空に映えている。駄菓子屋で売られているソフトクリームみたいだと思った。三円のソフトクリームは、ぼくのお小遣いでは到底間に合わない。三円あれば他の菓子をおなかいっぱい食べられるし、即席麺やパンだって二日分は買える。そんなものを食べているのは決まってお金持ち、たとえば大通りの鰻屋の息子だとか尾頭おがしらの息子や熊川医院の娘くらいなものだ。ぼくらはせいぜい五十銭のアイスキャンデーや六十二銭のかき氷が精一杯だろう。

「あちい。あたり屋行ってアイスキャンデー買おうぜ」

「賛成」

 実際気ばかり急いて駆け出すことすらできないくらい暑かった。工場の出す煤煙は太陽の光を遮るだろうと思われていたのが、近年の研究の結果、むしろ工場から出る煙がむしろ地球の熱を閉じこめてしまっているらしい。ラジオの科学講座でそんな話を聞いたけれど、こう暑い日が続くとそれは正しいような気がしてくる。

「幸太、今日の気温何度?」

「三十五度」

 ぼくはラジオで聴いたばかりの最高気温を寛治に伝える。

「うへえ、そりゃあついわけだよ」

「最近では三十五度以上の日を酷暑日っていうらしい」

「こくしょび?」

「うん。酷いっていう字に、暑いっていう字。酷い暑さってこと」

「ああ、ちげえねえ。お日様が近づいてきたんじゃねえかって思うもんなあ」

 ゆっくりとしか歩けない中、ぼくらは溶けたアイスキャンデーのようにふにゃふにゃになっていくような気がした。実際はぼくらには骨があって、肉があって、皮があるけれど、そんなものなんかなくて、ビニルの膜がまとわりついているだけみたいな、いまにもぶよぶよになってしまうような気がするあの感じ。

 ようやく「あたり屋」のブリキの看板を見たとき、なぜだかぼくらは手を取り合って喜んだ。

「砂漠みてえだ」

「砂漠いったことないだろ」

「そうだけどさ、死にそうじゃん暑さで」

 どうやら暑さで死にそうだったら砂漠らしい。まあ確かに、舗装された道は地獄のように熱かったし、ある意味砂漠よりしんどいようなきもする。

 浦安砂漠。語呂も悪くない。

「うらやすさばーくー」

「あっはは、おもしれえ」

 寛治も東京砂漠は知っていたみたいで、げらげら笑いながら一緒に歌ってくれた。


 風鈴の音とよく利いた冷房に歓声をあげ、ぼくは後ろ手で「あたり屋」の硝子戸を閉めた。

「いらっしゃい、暑かったろう」

 奥から店主のしわがれた声がする。

「すげえあつかった」

「今日は本当に暑いですね」

 腰が曲がったおばあちゃんは、魔法が使えるという噂があった。確かに、おとぎ話に出てきそうなほどとがった鼻をしていたし、髪の毛も真っ白だった。でも、おとぎ話の魔女は湿布の臭いなんかしないと思う。もちろんぼくがそんなくだらないことを言うことはない。

「こんな日に遊びに来るのはあんたらくらいだよ。ほら、来てくれたおまけ」

 店主はアイスの入っている冷蔵棚からアイスキャンデーをふたつ取り出してぼくらに差し出した。水色だからラムネ味だ。

「えっ、いいのかよ! やった!」

「ありがとうございます」

 寛治はほとんどひったくる勢いでビニルの膜を破り、ぱきっ、と勢いよく歯で折った。当たり前だけどアイスキャンデーはかちかちだ。さっきのぼくらとは大違い。

 歯に氷が少ししみるけれど、多分虫歯のせいじゃない。じゃりっ、と涼しい音をたてて、喉にラムネの爽やかな味がひろがった。

「どうせ遊びに出かけたけれどあまりにも暑すぎてうちのかき氷でも食おうとしたんだろうさ。あたしはお見通しだよ」

 けっけっけ。と店主は魔女のように笑った。それが魔法、なのかもしれなかった。

「この辺は特に夏は暑いんだよ。埋め立てちまってわかりにくくなってるが、ここは昔浜辺でね、ほとんど海面と同じ高さなんだ」

 店主の眼はぼくに向いていた。もしかすると顔を覚えられていたのかもしれない。

「だが埋め立て地は洪水の影響を考えて海面ぎりぎりには作ってない。それに、この奥には『松の堤』がある。つまり、このあたりは周りのどの辺よりも低いところだ」

「それで、暑い空気が溜まるんですね」

 日本の最高気温の記録が郡山で、それが巨大な盆地によるものであるということはこの前夜塾で習ったばかりだった。

 「松の堤」とは、このあたりが猫実ねこざねと呼ばれる理由になった、松を一列に並べて作られた一種の防風林のようなもので、大昔に津波によって村のほとんどを流された村民たちが、松を並べて植えたものが始まりらしい。松を植えたとき、波がその根を越さないように祈ったことから、「根、越さね」が「ねこざね」になり、それに漢字をあてられ「猫実」になったと言われている。これも夏休み前に学校で習った。だから、ぼくらだけじゃなくて、猫実尋常小学校のこどもたちはみんなその由来を知っている。

「しかしあんたは賢いな。猫実小の神童って言われるだけあるね」

「ぼくはそんなつもり、ないんですけどね」

 体育以外のすべてのテストで満点以外を取ったことがないのが噂になって、ぼくはそんな風に大人たちから呼ばれている。けれど、ぼくは神童と呼ばれるのが好きではない。だって所詮、ソフトクリームも自由に食べられないのに、神様でもなんでもないじゃないかと思う。そう言ったおばあちゃんだってくれたのはアイスキャンデーだ。神童という言葉にはそのくらいの価値しかない。

「まあ、大きくなったら高等学校に行って、帝国大学に行くんだろうけども、戻って両親のために働くのが親孝行だとあたしゃ思うね」

 おばあちゃんの息子はふたりともすごく優秀で、兄は陸軍、弟は海軍に入ったのだけれど、その後に起きた朝鮮戦争と中東戦争でそれぞれ死んでしてしまったらしい。戦地に送られるのは期待された精鋭だけらしいから、本当にすごい兄弟だったのだろうけれど、確かに死んでしまっては意味がないなと思った。ぼくらは浦安を動かす歯車として生まれてきたのだから、日本よりも先にまず浦安というこの街のために働くものだと思う。

「おれはけーさつかんになる!」

 寛治は小さい頃からずっと警察官が夢で、それがぶれていないのがすごい。

「あら、あんたにつとまるかしら」

「できるさ。悪い奴らをやっつけるために毎日特訓してるんだ」

 腕立て伏せやってるんだ、といって寛治は床に伏せて腕立て伏せをしてみせた。思った以上に素早くてびっくりした。

「立派なもんだねえ、でも頭も鍛えないとだめなんだよ」

「え、そうなの?」

「警察官になるためには試験を受けないといけないからね」

「まじかよ! おれ全然勉強できねえ! 幸太教えてくれ!」

 寛治は腕立て伏せの状態から器用に足を折り畳みぼくに土下座をした。器用すぎてうん、とうなずくのを忘れてしまうくらいだ。

「今から勉強がんばればいいんじゃない?」

「うん、そうするわ、だからあとで宿題見せてくれ」

「うん、いいよ」

「やった!」

 いつかは言われるだろうと思って順調に進めてきた甲斐があった。本当なら最後の一日さえあれば十分なのだけれど、それだと寛治が困るので、地道に宿題をやっていたのだった。

「君たち本当に仲がいいんだねえ」

 おばあちゃんは柔和に笑った。

 外を見ると、空が少し明るい色に染まっていた。

 ぼくはなんだか不安になって、サイコロのキャラメルと麩菓子をとって、三十銭を払おうとした。

「それがほしいなら、持って行っていいよ」

 おばあちゃんは店主に戻ることなく、キャラメルと麩菓子をぼくに渡した。

 寛治は不思議そうに、ただ見ていた。


 平成最後の夏休みの最後の日に、あたり屋のおばあちゃんが死んだことを知った。ぼくはなんとなくそれがわかっていた。そして、きっとおばあちゃんもわかっていたし、寛治だってなんとなくわかってしまっていたんだろうと思う。

 猫実のあたり屋には鉄扉が下ろされ、ぼくらは学校への道を歩いた。

 寛治は無言で学帽をとり、あたり屋に深々と頭を下げた。ぼくもそれに倣う。

「おれ、警察官になるために頑張って勉強するよ」

 寛治はいつになくはっきりと、ぼくにそう言った。

 平成三十三年の夏が終わった瞬間だった。

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