その3

「ここが隠れ家?」


 ツバメはその建物を見上げながら尋ねた。

 外観は大きな和風の家のようである。平家だがやけに高さがあり、瓦屋根とヒビの入った白壁が古めかしい。正面にはカーブを描く唐破風の屋根、その軒下には広い上がり口がある。中を覗けば、磨りガラスのはまった引き戸が左右に並んでいるのが見えた。

「って言うかここ、松の湯でしょ。あんたこんなとこ住んでたの?」

 そう、ここは銭湯である。正確には、数年前に営業を辞めているので、言ってみれば廃銭湯だ。

 W町の寂れた商店街を抜けた先、住宅街の端に位置するこの元「松の湯」は、ツバメの家から歩いて15分くらいのところにあったが、彼女は一度も来たことがなかった。ただ存在だけを知っていて、その後ツブれたらしいというのを聞いたのみである。

 どういうつもりか、主人は未だ建て壊すつもりがないらしい。放置状態だった。入り口前に敷かれたタイルはひび割れ、雑草があちこちから生えている。ただ煙突だけは、根本を残して雑に撤去されているのが地上から見えた。

「いいとこ見つけたニャろ」

 ウィスカーは声をひそめながら、しかし自慢げに言った。地面に四つ足を付き、普通のネコを装っている。

「勝手に住みついて大丈夫なの? 人来たりしない?」

「平気モニャ。今まで誰にも見つかってニャいし、ちゃあんと結界も張ってあるからニャ」

「結界?」

「まあ、立ち話もニャんだから、とりあえず入るモニャ」

 辺りに人がいないことを確認したウィスカーは立ち上がり、素早く入り口に駆け寄る。そして右側の引き戸をからりと開け、中に消えた。

「ちょっと待ってよ」

 あとに続くツバメ。

「早く来るモニャ。あっ、そこ結界あるから足元気を付けてニャ」

「そんな段差みたいなもんなの?」


 午後5時近い、10月の夕暮れ時。

 電気の通わない廃銭湯の中は、当然ながら暗い。窓から入る頼りない斜陽が、脱衣場の壁に並ぶロッカーにぼんやりと赤く染めている。

 ツバメは土足のまま、砂や埃だらけの床を用心深く進む。そしてガラスの壁で仕切られた向こう、浴場へと出た。

 一面にタイルの貼られた広い浴場。等間隔で壁に並ぶ鏡とシャワー。正面、空っぽの浴槽の上には、海と松林を見下ろす雄大な富士山が描かれている。

 湯がなく、あちこちにクモの巣が張られているとはいえ、まさに銭湯だ。ここが元男湯か女湯かはわからないが、服を着たまま足を踏み入れたツバメは、妙な違和感を感じる。

 乾いた床は寒々しく、コツコツと鳴る足音が静かな室内に反響した。

「ニャ。いいところニャろ。エモいニャろ」

 ウィスカーが前足を広げてまた言った。

「どこがよ」

 やがて暗さに目が慣れたツバメは、改めて辺りを見回し、そしてギョッとした。

 壁際の暗がり、鏡の並ぶその前に、幾つもの人影を見つけたからである。

 ツバメは悲鳴を上げそうになったが、すんでのところで飲み込んだ。

 よく見ればそれは人形だった。服屋にあるような全身のマネキンが5体、こちらを向いて並んでいる。いずれも背が低く、子供のマネキンのようだ。

「こんなのどっから持ってきたのよ。いくら寂しいからって、あんた……」

 ひきながら言うツバメに、ウィスカーは首を振った。

「違うモニャ。これはボクが特殊に加工したもので、ヒゲのメンテナンス用に使ってるニャ」

 どこに隠していたのか、いつものトランクを手にしたウィスカーは言った。トランクを開き、1つの付けヒゲを取り出して見せる。

 色は漆黒。釣り針のように湾曲した、太く長い毛の塊である。それは2束あり、どうやら2つでワンセットのようだった。

「見てるニャ」

 ウィスカーはマネキン人形の1体に近付き、のっぺらぼうの顔、本来なら鼻の下辺りのところへ、左右対称にヒゲを付けた。

 マネキンの全身が輝き出す。そして次の瞬間、白い模型は衣装に包まれていた。

 頭には、横に広がった大きな黒い帽子。膝まである赤い厚手のコートと、その下から覗くロングブーツ。コートには、肩や胸に金の刺繍が施され、ボタンは大きな宝石でできていた。左肩から右脇の下には革のベルトが通されており、背中に担いだ長銃を留めている。

「ニャニャーン! 海賊っぽいヒゲグリモー!」

 ウィスカーは高らかに言った。

「こうやって、普段使わない衣装をたまに陰干ししてるのニャ。じゃないと傷むニャろ」

「いや、知らないけど」

 ツバメの反応はそっけない。

「で、ウィスカーの話したいことって何よ」

「まあそう焦らずに」

「このあと英会話教室なのよ!」

「とっても重要なことなのニャ。だけどまだ、陽子やナツには言わないで欲しいモニャ」

 ウィスカーは急に真剣な顔をつくり言った。

 ツバメは訝る。

「別にいいけど、日向さんだって大事な仲間でしょ。ヒゲグリモーに関わることなら、ちゃんと話してあげたほうがいいんじゃないの?」

「そうしたいけどニャ。しかし陽子にはその、ニャんと言うか……」

 煮え切らない態度のウィスカー。

「まあいいわ。もう、さっさと話して」

「すまニャい。とりあえずここに座ってくれニャ」

 ウィスカーはプラスチックの黄色いイスを差し出した。身体を洗うときに使う、お風呂イスである。

「いやよ、汚い」



「というわけで、まずはこちらの映像をご覧くださいニャ」

 ウィスカーは言った。

「映像?」

 ツバメはキョロキョロと周りを見た。映像設備があるようには思えない。

「人間向けに作った、妖精戦争がわかるビデオがあるのニャ。ボクから説明する前にこれを観てもらえれば、まあ大体のことがわかるんだモニャ」

 ウィスカーは壁に並ぶシャワーの1つに近付き、ヘッドの角度を調整すると、湯を出すためのハンドルを回した。

 しかしシャワーから湯は出てこない。代わりに放たれたのは光の筋だった。

 青白い光は、男湯と女湯を隔てる壁に当たる。そして縦1.5m×横2mほどの、長方形の像を結ぶ。

 どういう仕組みか、シャワーヘッドを改造し、プロジェクターにしているようである。

 ツバメが光る壁を眺めていると、どこからか音楽が流れ始めた。雑音の混じった、聞いたことのないピアノ曲だ。

 ツバメが見上げると、高い天井の四隅に張られたクモの巣がわずかに振動しているように見える。あれがスピーカーになっているらしい。見かけはただの廃銭湯だが、そこかしこに妙な細工がされている。


 やがて曲の音が小さくなると、男性の声が入ってきた。

『妖精戦争について。入門編』

 はきはきとした声だが、抑揚が少し不自然な、これは合成音声である。語りとともに、四角い光にテロップが映し出される。

『人間の皆さん、こんにちは。皆さんは、この世に2つの世界があることをご存知ですか? 1つは皆さんの今いるところ。人間や動物、虫、魚、植物達の暮らす【生命界】。そしてもう1つは【妖精界】と呼ばれる世界です』

 映像の中に2つの円が表示された。

『妖精界とは、その名の通り、妖精達の棲む世界のこと。生命界と表裏をなす、言わば異世界と考えて頂けるとわかりやすいですね。え? 妖精なんて本当にいるのかって? はい、皆さんの想像するものとは少し違うかもしれませんが、妖精はたしかに存在するのです。これから一緒に学んでいきましょう』

『チャプター1「妖精ってなあに?」』

「なんの教材よ」

『妖精。それは生命界に生きるもの達を司る存在のことです。イヌにはイヌの妖精、ウマにはウマの妖精、クジラにはクジラの妖精がいます。つまり、生き物の種の数だけ、それぞれに対応する妖精が1人ずついる、ということになります』

「ボクはネコの妖精モニャ」

 ウィスカーが口を挟んだ。

『生命を司る存在。と言っても実際のところ、妖精達はあまり生命界に干渉することはありません。ごくごくたまに、気が向いたときにだけ、生命界の様子を見にくるといった程度です。それでは普段、妖精達は何をしていると思いますか? 特に何もしていません。妖精界で遊んで暮らしているのです』

「ええ」

 ツバメは頬を引きつらせた。

『妖精界は神秘に満ちた美しい世界です。

様々な実を毎日実らせる果樹林や、砂糖の砂漠。風に揺れる満点の星々、美しい音色を響かせる雷雲。踊る山々に、生き物たちの睡夢を映す鍾乳洞。てっぺんが見えないほどの大樹は滝のように樹液を流し、芳しい虹が空を駆け回る。氷の月に燃える花、そして宝石のレンガで造られた王城。妖精達はここで何不自由なく、長い日々を仲良く楽しく過ごしていました』

『チャプター2「妖精戦争」』

『しかしあるとき、事件が起こります。それは今より数百年前、妖精王の開いたパーティーでのことでした。このときの出来事が、のちに妖精界を二分することになる、その発端となったのです』

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