その2

「キミがツバメの友達のナッちゃんかニャ」

 陽子に窓を開けてもらい、教室へと侵入してきたウィスカー。

 フワリと浮かびながら3人の前に来ると、陽子の机の上に音もなく着地した。

「はじめまして。ボクはウィスカーだモニャ」

「あ、ああ……」

 顔から落ちそうなほど開いた顎から、ナツは吐息ともうめきともつかない音を漏らした。上半身を大きくのけぞらせ、今にもイスから転げそうである。

「ガラガラ、ガッシャアン」

 陽子が手の指を広げた。

「こいつの常識が崩れる音」

「ウィスカー、あんた! なんで学校なんか来てんのよ」

 ツバメが怒鳴った。

「いや、ナツに会いたいと思って。危険を顧みずにやってきた次第だモニャ。ここまで来るのは大変だったニャ」

 よく見れば、彼の狭い額には黒マジックで「内」と書かれている。おそらく生徒にでも捕まり、落書きされる途中で逃げ出して来たのだろう。相当苦労したあとが窺えるが、ツバメは容赦しない。

「バカ! あんたみたいな怪物がいきなり出たらびっくりするでしょ! ねえ、ナツ」

 ツバメは、まだ口をパクパクとさせているナツへ振り返った。

「な、な……」

 先ほどまでのふざけた調子は見る影もない。ナツは硬直したまま、荒い鼻息を吹いている。そして言った。

「なんて、カワユイ生き物だよ……」

 瞬間、西日差す教室に沈黙が落ちた。

「え……、なんて?」

 ツバメは聞き違いかとナツに訊ねる。

「こ、こんなキュートな存在がこの世にいるなんて……」

 細長い目の中、瞳を潤ませながらナツは言った。完全に頬が緩んでいる。

「ウソでしょ」

 ツバメはおぞましい光景でも見るように、鼻の頭にシワを寄せた。

「お前のツレ、センスいかれてんな」

 さすがの陽子も驚いている。

「いやいや、だって見てよ」

 ナツはウィスカーを凝視したまま言った。

「このモフモフの丸っこい身体に、ちっちゃい耳と手足。ゆるキャラが過ぎるでしょ。なあ、こいつ触ってもいいの?」

「す、好きにすれば」

 ツバメはそう言うのが精一杯だった。

 当のウィスカーも、今までにない初対面の反応にたじろいでいる。

「なんか照れるモニャ」

「うわっ、喋った!」

「既にけっこう喋ってたでしょ」

「わっ、柔らけえー。たまらん」

 ウィスカーの頬をぷにぷにと突きながら、ナツは恍惚とした表情を浮かべた。

「こいつ……」

 陽子は完全にひいている。

「ニャンコのどこがそんなに可愛いかよ。こんなやつ、親父のキンタマに顔描いたときとソックリだぜ」

「ニャ、ニャンてこと言うか!」



「というわけでナツ、ボクは妖精界からやってきたネコ妖精で、とある敵組織と戦っているのニャ」

 短い前足を胸の前で組みながら、ウィスカーは言った。

「こちらの世界でボクは1人きり、しかもいつ敵に居どころがバレるかもわからニャかった。だからどうしても味方が必要だったモニャ。そんなとき仲間にニャってくれたのがツバメと陽子ニャ。ボクの持っている付けヒゲで変身する魔法戦士、ヒゲグリモーとしてニャ」

 眉間にシワを作り難しい顔を作るウィスカーだが、彼は今、ナツの膝の上である。頭やノドを撫でられたり腹をくすぐられたり、肉球を押されたりと、ナツにされるがままだ。

「へえ、ウィスカーくんたら大変なんでちゅねえ。ネコおにぎり!」

 顔を指で囲われ、ぎゅっと潰されたウィスカーはついに声を上げた。

「うおおい!」

「うん? なにかにゃ?」

「どんだけ触るニャ! ちゃんと話聞いてんのかニャ!」

「ツーちんが魔法少女になってくれたんでしょ。ほんで?」

 ナツはウィスカーの耳を甘噛みしながら言った。

「き、聞いてたのかニャ。で、ニャんだっけ……」

 調子を狂わせられるウィスカー。

「そうニャ。2人が仲間になってくれたけど、敵の軍団、ビアードに対するにはまだ足りないのニャ。ヒゲグリモーになれるのは中学生までの女子に限られていて、なかなか勧誘が難しいんだモニャ。そこでニャ!」

 ウィスカーはここが山場とばかりに声を張った。

「ホイ、どうした」

 ナツはふざけた合いの手を入れた。

 そんな2人のやりとりを、ツバメがジトっとした目で見つめている。

「お願いニャ、ナツ! キミにもボクの仲間として、ヒゲグリモーになって欲しいんだモニャ!」

「うん、断る」

 ナツは微笑みながら首を振った。

「えっ」

 あまりにあっさりと拒否されたウィスカーはびくりと震え、そして固まった。

「だ、ダメなのかニャ」

「だってめんどくさいもん」

 お決まりのナツ節が放たれた。

「めんどくさいって……」

「ウィスカーちゃんを見ちゃった以上、この世に妖精はいるし、であれば魔法も存在するんでしょ。それは認める。だけど私は面倒なことはやらん。それだけ」

 ナツはにべもない。

 しかしウィスカーは食い下がる。

「すぐに返事をくれなくてもいいモニャ。まだ説明も全然できてニャいし、魔法なんか信じられないニャろ?

「信じたよ。魔法はたしかにあるね」

「そんな適当な。なんなら、ヒゲの力を実際に見せても……」

「いいって。どうせ私には務まらないだろうし」

「素質はあるかもしれないモニャ。それにツバメに聞いたけど、キミはたしかとっても運動神経が優れて……」

「ストーップ!」

 ツバメが割り込んだ。

「はいおしまい。私が認めたのは、あんたがナツを勧誘するところまで。ナツにその意志がないことがわかったなら、それで終了の筈よ」

「そ、そんニャ。でも」

 まだ諦めきれない様子のウィスカー。

 彼の前足をツバメは掴んだ。

「ちょっと来て。あんたに言わなきゃならないことがあるの」



「なるほどニャ」

 ウィスカーは険しい顔付きで言った。

「ナツにはそんな過去があったのか」

「そう。だからその、ナツに運動の話はちょっとしんどいのよね」

 手すりの付いた柵に寄り掛かりながら、ツバメは頷いた。

 屋上へと続くドアの擦りガラスから赤い陽が差し込み、2人の影を蛇腹に引き伸ばしている。

 校舎の最上階、放課後の階段に人気はない。

「私もこの前知ったの。だからあんたに言えてなかったんだけど」


 走ることが好きで、誰よりも速かったナツ。

 しかし彼女はかつての同級生、須永ミチルの怒りを買い、悪辣な罠にはまる。

 結果的にナツは、迫る変態男から逃れるため、その自慢の脚力をフルに使って親友を置き去りにした。

 あまりの恐怖に我を忘れての行動ではあった。そのときのナツは自分のことで精一杯で、友のことなど頭になかったのである。

 だがどのような言い訳をしたところで、誰より彼女自身が納得できなかった。

 その証拠を示すかのように、以来ナツの身体には、とある現象が起こるようになった。

 走れなくなったのだ。

 普段歩くことはできても、いざ駆け出そうとすると足がもつれて前に進まない。転んでしまう。まるで友を裏切った行為に対する烙印のように、それは今でも続いている。


「そういうことニャら、これ以上ナツに声を掛けてもしょうがないモニャ。ヒゲグリモーになれば身体能力が上がるとは言え、もとから走れニャいとなるとニャあ。こんな言い方も悪いけど」

「でしょ。だからナツを誘うのはもうおしまいね」

「うーん、わかったニャ」

 ウィスカーは渋々といった体で頷く。

 その様子を見てから、ツバメは言った。

「それと、実はもう1つ話があって。今度は私のことなんだけど」

「ん? どうしたモニャ。そんなあらたまって」

「これ」

 ツバメはスカートのポケットに手を入れた。そして取り出したのは、魔法の付けヒゲである。

「これ、ウィスカーに返すわ」

 差し出されたヒゲを、ウィスカーはまじまじと見つめる。

「どういうことニャ? ああ、わかった。陽子に不公平とか贔屓とか言われたんニャろ」

「違うの」

「この前も言ったけどニャ。いざというとき、ボクがいなくても変身できるように、キミには持っておいて欲しいのニャ。キミは気に入らないかもしれニャいけど……」

「ごめんね、ウィスカー」

 ツバメは小さく言った。

「私、これ持ちたくないんだ。ヒゲグリモーはやめたい。今回は本当の本気」

「またそれかニャ! 今ナツにフラれたばっかりニャのに、勘弁して欲しいニャ」

 ウィスカーは大げさにのけぞって見せた。だが、ツバメの様子がいつもと違うことに気が付く。

「何かあったモニャか」

「うん」

 ツバメの俯いた顔に影が差す。

「だから、この前の体育祭のときよ」

 ナツと須永ミチルの因縁を知ったツバメは、ポケットに忍ばせていた付けヒゲを掴んだ。自分を羽交い締めにする不良を振り切り、ミチルに立ち向かうためだった。

「あのときの私は完全に我を忘れていたわ。あまりの怒りで目の前が真っ赤になって、何も考えられなかった。もし春吾さん達が助けてくれなかったら、絶対に変身していた」

「そ、それはまあ、たしかにヒゲグリモーのことは秘密にして欲しいけれどニャ。でもそんな状況ならしょうがニャい……」

「そうじゃなくて」

 ツバメは首を振った。

「考えてみてよ。もしもあのまま、私が怒りに任せて、無防備な相手にヒゲグリモーの力を奮っていたらどうなると思う? しょうがないじゃ済まないことになっていたかもしれない。本当にその寸前だったのよ」

 ウィスカーはツバメを見つめたまま、黙っている。

「魔法の付けヒゲは凶器と同じ。ナイフやピストルみたいなものでしょ。この前は運が良かったけど、いつまた私が見境をなくすかわからない。そのとき、すぐ手の届くところに凶器があったら。そう思うと怖いのよ」

「キミはいつだって賢く立ち回ってきた。死ぬような危険を何度も乗り越えたし、憎い相手とも戦ってきたじゃニャいか」

「たしかに、怪盗アリスや強盗犯も許せなかった。本当に憎かったから暴力も奮ったわ。だけど、須永ミチルに対しては、私は理性を保つことができなかった。あいつ去り際に、私へ言ったの」

 ツバメはそのときを思い出したのか、握りしめた拳を震わせた。

「『あなた、私を殺そうとしたでしょ』って。あいつは魔法の付けヒゲのことなんか知らないのに、私の殺意は感じ取っていたのよ。それで私も、悔しいけど、その通りなんだって思った。どうしても否定できなかった。あの捨て台詞が、今でも耳から離れないのよ」

 そう言ってツバメは、眉を下げて少し笑った。

「だからさ、もう本当に私はヒゲグリモーをやめようと思う。今までの煮え切らない態度のせいでウィスカーに期待させちゃってたら悪いんだけど。これ以上私は、自分の怖い部分を知るのが嫌なんだ」

「ツバメ」

 ウィスカーが口を開いた。

「事情はよくわかった。キミが傷付いた原因はボクにもあるニャ。こちらこそ申し訳ニャかったモニャ」

 ウィスカーはふわりと浮かび上がり、ツバメに近付くと、右の前足を出した。

 その広げた指の上に、ツバメは付けヒゲをそっと置く。

 ウィスカーは小さく頷き、そして言った。

「本気のキミを、引き止めることはできニャい。ただ……」

「ただ?」

「今こそ、ボクはキミに伝えておきたいモニャ」

「何よ」

 眉をひそめるツバメに、ウィスカーは強い眼差しを向ける。

「妖精戦争についてニャ」

 決断したように彼は言った。

「なぜボクがビアード軍と戦っているのか。魔法の付けヒゲの正体とは何ニャのか。そして、ボクらが負けたとき、この世界に何が起こるのか」

「ちょっと待ってよ。今さらそんな……」

「ツバメがヒゲグリモーをやめることは認めるニャ。だけど何らかの形で、今後もキミには協力して欲しいのニャ。どうかボクの隠れ家に来て、話を聞いてくれニャいか」

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