第8話「妖精達の不協和音」

その1

「じゃあさ。この文は『私の部屋には大きな宇宙があります』、になんのか?」

 日向陽子は教科書の英文から顔を上げ、隣の席に座る紺野ツバメを見た。

「なんですか、その状況は。この『space』は『空間』という意味ですよ。だから訳すと『広い空間がある』だと思います」

「そっかあ!」

 陽子は大きく頷きながら、教科書に直接和訳を書き込む。そして、ふと思いついたように言った。

「てことは、『宇宙空間』を英語で言うと『スペーススペース』になんの?」

「……そうです」

 ツバメは適当な相槌を打った。


 体育祭が終わると、生徒達はそれまでの熱気ムードから、否応なしに学業モードへと引き戻される。次に控えるイベント、2学期中間テストが足音を高々に鳴らしてやってくるためである。テスト範囲も発表され、皆がノートや資料プリントをひっくり返す日々が訪れていた。

 そんなある日の放課後。

 突然陽子に呼び出されたツバメは、2年生の教室にて、居残り勉強に付き合わされていた。

 宿題はやってこず授業も聞かず、そして中間テストの結果も目に見えている陽子に対し、英語の教師が与えた最大の温情がこの居残りであるらしい。

 このページを今日中にやらなかったら落第になるんだ、と陽子は渋面を作った。手伝ってくれないとアタシはお前と同じ学年になるんだからな、と妙な脅しをかけられ、ツバメはため息を吐く。

 中学校では流石に落第も留年もないだろうが、下級生に教えを乞うくらいだから、陽子とはいえ一応の危機感を覚えたのだろう。

「でも別に私じゃなくてもいいでしょう。同級生のお友達に教わった方が……」

「んーにゃ、アタシの友達で一番賢いのはツバメだからさあ」

 そう屈託なく言う陽子。

「交友関係どうなってるんですか」

 ツバメが呆れると、

「こーゆう関係って、どーゆう関係?」

と陽子は返してきた。本気の問いかどうかを聞くのが怖いツバメである。

「それにお前、英会話通ってんだろ。アタシに教えるくらいワケないじゃんか」

「今日がその英会話なんですけど」

「そんならサクサク行こうぜ。次、コカン5な」

 陽子が指した英文をツバメは覗き込む。

「えっと、これは過去進行形の文ですからbe動詞を過去形にして......。あの、今『設問』を『股間』と読みませんでしたか?」

「そっかぁ」

 陽子は大きく頷いた。

「アタシも変だとは思ってたんだよ」

「この人さあ、英語より先に学ぶことがあるんじゃねえの」

 ツバメの隣で、多飯田ナツが言った。

 誰かのイスに浅く腰掛ける彼女は、剥き出しの長い脚を組み、だらしなく顎を上げている。上級生の教室にいながら、まるで遠慮する様子がない。

「うっせえなあ。あのさ、そもそも英語は学校なんかで勉強するもんじゃねえんだって」

 ナツの言葉で集中力が切れたのか、陽子はシャープペンを机に放り出した。

「ああ! やめないでくださいよ」

「結局さ、外国行きゃあイヤでも覚えんだからよ。アタシの母ちゃんもそうしてるし」

「日向さんの家は理髪屋さんですよね。お母さんは何か別のことをされてるんですか」

 ツバメが尋ねた。陽子の父のことは一度見たことがある。民家の塀の上を裸足で駆けながら、陽子を追い掛ける姿だ。

「母ちゃん? よくわかんねえけど、洋服の買い付けみたいな仕事だよ。今は多分フランスだったかな」

「へえ。海外を回られているなんて、素敵なお仕事ですね」

 ツバメが言うと、「ステキなもんか」と陽子は口を尖らせた。

「基本うちにいねえから、アタシがしょっちゅうメシ作ることになるんだぞ。親父は料理下手くそだし」

「日向さんて料理できるんですか」

 意外な情報にツバメは驚いた。

「え? まあ、できるっつっても簡単なやつだけどな」

 陽子は少し照れたように言う。

「オムライスとかカニ玉とか。あとはハムエッグに茶碗蒸しかな」

「卵料理……」

「それに洗濯とか裁縫もやるし。あれ、よく考えたら、アタシってけっこういいお嫁さんになれるよな。フリフリのエプロン着てさ、『お帰りくださいませ、ご主人さま』とか言っちゃってさ」

「それはメイドカフェでは?」

「つか、お帰りなさいませだろ。追い出してどうする」

 ツバメとナツがすかさず突っ込む。

「ところで、お前誰だっけ」

 そこで突然、陽子はふと気が付いたように、ナツを見た。

 初対面の先輩に名乗りもしないナツと、それを全く気にしない陽子である。

「こちらは多飯田ナツです」

 ツバメが紹介した。

「転校生だけど、私とは幼なじみなんです。今日は一緒に帰る約束をしていたので」

「ナツ?」

 陽子は片方の眉を上げる。

「ああ、知ってるや。体育祭で他校のもんとトラブってた奴だよな」

「な……」

 ツバメは声を上げた。


「何でそれを知ってるんですか⁉︎」

「春吾達に聞いたんだよ。体育祭のあと、楽しそうにヒソヒソ話してたから、ぶん殴って聞き出したんだ」

「ああ、なんてこと……」

 ツバメはガクリと下を向いた。

 楽しそうに話していただけでぶん殴られた少年達には同情するが、それより先日のことを陽子に漏らしてしまったことが恨めしい。

「そうだお前!」

 陽子は思い出したように叫ぶ。

「付けヒゲ持ってたんだってな! ええ、おい⁉︎」

「あちゃー」

 そんなことまで陽子に知られているとは。

 春吾達は、ツバメが持っていた毛の塊を付けヒゲだとは気付かなかったろうが、陽子に伝われば当然バレる。

 もはや隠し通すことはできないと、ツバメはうなだれつつ白状した。

「実は、そうなんです。日向さんには偉そうに言っておきながら、本当に情けないです。人前に魔法のヒゲを晒してしまうなんて……」

「んなこた、どーだっていいんだよ!」

 陽子は腹立たしげに腕を振った。

「はい?」

「なんでニャンコの野郎は、お前にだけヒゲ渡してんだ? アタシには全然使わせねえクセによお! おかしいだろ、フンマンヤルカタネーぞ!」

「ああ、そのことですか」

 ツバメは白けた調子で頷いた。

「日向さんはすぐ人前で変身しようとして信用できないので渡せないんだそうです」

 ウィスカーの意見なので、取り繕うこともなく言う。

「そうなんだよ! 問いただしたら、ニャンコも同じこと言ってたわ」

「でしょうね。私もそれについては同じ……、ってちょっと待ってください」

 ツバメはハッと顔を上げた。

「ウィスカーに私の件話しました⁉︎」

「うん」

 陽子は頷いた。

「だって経緯伝えなきゃ意味わかんねえだろ。アタシもヒゲ欲しかったから」

「どこまで言ったんです!」

「ツバメが転校生の件で他校のアホとケンカして、最終的に全員の前でヒゲ出したってことくらいかな」

「畜生!」

 ツバメは叫び、自慢のツインテールを引っ掻き回した。

「全部言ってるじゃないですか!」

「どしたよツーちん。そんなに取り乱して」

「ウィスカーに知られるなんて! どうしよう」

「おい、落ち着けってば」

 ナツがなだめる。

「何がなんだかわかんないけどさあ、そんなにマズいの? そのウィスカーとかいう奴に、この前のこと知られるのが」

「最悪よ」

 ツバメは大きく頭を振った。

「あいつには絶対に知られたくなかったのよ。私が人前で魔法の付けヒゲを出したこと。それから変身しそうになったこと。そして何より、ナツにヒゲグリモーの存在を明かしてしまったこと」

「ヒゲグリモー?」

 ナツは聞き返した。

「なんだよそれ。別に私知らないんだけど」

「そうでしょうけど、ウィスカーはそう受け取らないってこと。ナツは私が変身している姿を1回見てるでしょ。あれでイエローカード。その上私はあんたに付けヒゲを見せた。これで合わせてアウトなわけよ」

「えっと……、わかんないんだけど」

「もう隠してもしょうがないから言うけど、あのヒゲには魔法の力があって、付けると魔法少女に変身するの」

 ツバメは落ち着こうと澄まし顔を作りながらも、少し恥ずかしそうに言った。

「ナツが川で見た私はその魔法少女、ヒゲグリモーの姿だったってこと」

「ま、魔法……少女?」

 ナツは目をパチクリとさせ、それから吹き出した。

「あはははは、魔法少女⁉︎ ツーちんたらしばらく会わないうちに魔法少女やってたのかよ!」

「あんた、信じてないでしょ!」

 ツバメは顔を赤くした。彼女だって本当は受け入れたくない。それを曲げてまで打ち明けたのに、このリアクションである。いきなり言われたナツが信じないのも無理はないが、大笑いされると腹が立つ。

「はははははは! だってあまりに似合わねーから! ツーちんが少女とか」

「そっち⁉︎ 少女ではあるでしょ!」

「そもそもさあ、付けヒゲで変身する魔法少女てなんだよ! どこに需要あんだっての! あーっははは」

 腹を押さえて笑い転げるナツ。

「魔法少女連呼しないでよ! あんたにもわかりやすいよう便宜上の呼び方しただけなんだから! 実際はもっと得体の知れないものなの!」

「わかったわかった。まあそう怒んないで」

「ちなみにアタシもヒゲグリモーだぜ」

 隣から陽子があっさり言ったが、「だと思いましたよ」とナツは受け流した。ちなみに彼女はネコ騒動の際、川の真ん中でツバメと合流する陽子を見ている。

「ナツ。あんた笑っているけど他人事じゃないんだからね」

 まだ怒りの余韻を残しつつ、ツバメが言った。

「え、なんで?」

 目尻の涙を拭いながらナツは尋ねる。

「ウィスカーはナツのことも魔法少女にしたがっていたわ」

「それはそれは。光栄であります」

「ふざけないで」

「つーか、そのウィスカーって奴、私のこと知ってんの?」

「私が話したから。魔法のヒゲのことは秘密にしなきゃならないから、ナツに見られた問題をウィスカーに相談したのよ」

 ツバメは苦い顔で言う。

「そしたらあいつ、食いついちゃってさあ。もし今後、ナツにヒゲグリモーの存在を完全に知られるようなことがあれば、仲間として勧誘するしかないって話になっていたの」

「なに私の知らないところで勝手な約束してんだよ」

「だってウィスカーがしつこいんだもの。それに私も、まさか自分がバラすわけないと思ったから。好きにしなさいって感じで啖呵切っちゃったのよね」

 しかし体育祭にて。須永ミチルに対してブチギレたツバメは、ナツの前で魔法の付けヒゲを取り出し、危うく変身しかけた。そしてそのことが春吾、陽子を介してウィスカーに伝わっているのである。

「あいつ、今にもあんたの目の前に現れるに違いないわ。夜道には気を付けなさいよ」

「こわっ、ストーカーかよ。そもそもウィスカーって誰? どこの国の人?」

「残念ながら何人でもないのよ。ストーカーではあるけど」

「驚くなかれ妖精様だぜ」

 陽子が口を挟んだ。

「妖精っ」

 ナツは再び吹き出しそうになる。

「それどういう意味の妖精っすか?」

「どうって、フェアリーの意味だよ」

 さも当たり前とばかりに言う陽子。

「な、なるほど。まあ魔法少女には付き物っすよねえ。丸っこい小動物タイプとか、羽の生えた女の子タイプとか」

 うんうんと頷くナツだが、口の端が歪んでいる。

「もう! 信じてないでしょ。まあなんでもいいけど、とにかくあいつの誘いに乗っちゃ駄目だからね」

「はいはい」

 念を押すツバメにナツがヘラヘラと答えたとき。


 コンコン。

 不意に窓を叩く音がした。

 3人が振り向くと、教室の窓の外、差し込む夕日の中に黒い小さな影が浮かんでいる。

 まん丸い胴体に短い手足。三角の小ぶりな耳と、顔の中央で光る緑色の目。その影は周りを警戒しつつ、窓ガラスを小刻みに叩いていた。

「な……」

 ナツは目を剥いた。

「なんだアレ」

「ウソでしょ、まさかこんなとこまで来るなんて」

 狼狽えるツバメ。

 その隣、陽子は半眼でナツを見ながらニヤリと笑う。

「噂をすれば、ちょうどいいとこ来やがったなあ」

「な……な……」

「あれがウィスカーだよ」

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