その10
「それ以来、ナッちゃんは走ることができなくなったそうな」
みちるはまるで他人事のように言った。
「立ったり歩いたりは普通にできるのに、少しでも走ろうとすると脚がもつれて転んじゃうんだよねえ、不思議なことに」
体育館裏をステージに、一人舞台を演じるかのごとき。淀みなく、嬉々として語る彼女を遮る者はいなかった。
「まあ、ことさら不思議でもないか。イップスだっけ? 精神的な影響でスポーツ選手がダメになるとかよくある話だし。それ考えたらさあ、ナッちゃんに至っては素質十分だよねえ。自慢の足で大切なお友達を盛大に裏切ったんだから。走ろうとすると無意識に思い出しちゃうんでしょ? 罪悪感とかいうの。塔子さんはあの日以来学校来てないね。一体あの部屋で何があったのかな。一方のナッちゃんはナッちゃんで陸上部にも居づらくなって。結局やめちゃったんだよね? せっかく将来有望の、希望に満ちたピカピカの部員だったのに残念なこと。まあ走れない人が陸上部にいたって、どうしようもないか。それでどうするかと思えば、最近は友達付き合いも皆無だそうじゃない。自分には友達作る資格ないって気が付いちゃったのかな? お化粧までしてワルぶった感じ出してるけどさあ、ベタな一匹狼気取ってるのが痛々しいよねえ。クラスメイトなんか相手にしないって表示だろうけどさ、結局のところ意気地がないの隠したいだけでしょう? みんな気付いてるんだよ? でも、私のせいにしないでね。友達も陸上も失ったのは全部ナッちゃんのせいだから。私と塔子ちゃんの間にしゃしゃり出てきたりするから。そのくせ、いざとなったら塔子ちゃんを見捨てるんだから。私ねえ、ナッちゃんに叩かれたこと忘れないよ。私に手を出したんだもの、こんなものじゃ済まないから。転校したって関係ないよ。これからもナッちゃんの大切なものぜーんぶ......」
ぱんっ!
破裂したような音が響いた。
それからみちるは、自分の左頬の痛みに気が付く。
すぐ目の前にツインテールの少女、ツバメが立っていた。
「な......」
まったくの不意打ちに言葉を失うみちるを、ツバメは真っ赤な目で睨み付ける。
「あんたをぶったらどうなるって?私にも教えてもらおうじゃない」
「ツーちん! バカかお前!」
ナツが叫んだ。
「大丈夫か、みちるちゃん!」
「何してんだこのガキ!」
みちるの取り巻き達がざわついた。
「何って、これのことかしら!」
ツバメはもう一発、今度はみちるの右頬に平手打ちを入れた。
「きゃあっ!」
顔を伏せるみちるの顎を、ツバメは鷲掴みにした。そして尚も叩こうとする。
「やめろっつってんだろ、ボケ!」
慌てた1人の少年が正面から近寄り、ツバメの肩を掴みにかかる。
ツバメは素早かった。左足を残したまま身体だけを引くと、指先で空を掻いた少年は、ツバメの足につまずき派手に転倒する。
「うげえっ」
うつ伏せに転んだ少年の背中を、ツバメは勢いよく踏み付けた。
「この私に汚い手で触らないで!」
他の少年達は動きを止めた。小柄な少女、ツバメの華麗な体捌きが意外過ぎ、目を見張っている。
「ツーちん、何でそんな強いんだよ」
「はあ⁉︎ 知らないわよ!」
引き気味に尋ねるナツに、ツバメは怒鳴った。
ここ一か月の間、飛び道具や肉食獣、また不可視の敵を相手取ってきたツバメにとって、ただの中学生の動きなどあまりに緩慢だった。悲しいかな、度重なるヒゲグリモー活動により、目が慣れてしまっている。
「ねえ、みんな。何をしてるの?早くその子、紺野さんを捕まえてよ」
熱を帯びる両頬を押さえながら、みちるが言った。
「私に手を出した子を放っておくつもり?」
ハッとしたように少年達は動き出す。5人一斉にツバメへ飛び掛かり、羽交い締めにする。
「何するのよ! 今すぐ離しなさいっ‼︎」
「ダーメ。紺野さん、あなたは許さないわ」
みちるは口の端を歪めた。突き刺すような視線をツバメに向ける。
「許さないのはこっちよ! 私の友達に酷いことをしたんだから! まだ叩き足りないわ!」
ツバメは締め付けられた両肩から腕を抜こうともがいた。
腫れてきた顔でみちるは嗤う。
「あれえ? 紺野さんのお友達って誰のこと?」
「ナツに決まってるでしょう‼︎」
「おかしいなあ。ナッちゃんはさっき、あなたは友達なんかじゃないって言っていたけれど。じゃあ、確認してみよっか」
みちるの瞳が暗く光った。肩から下げたポシェットから、小さなハサミを取り出す。
「紺野さんって、よく見たら随分怖い顔してるよね。はっきり言って、その可愛いツインテールは不釣り合いって感じ」
少年達がヘラヘラと笑い出した。
「今から紺野さんの似合わない髪を切ってあげる。面倒だし、結び目の根元からいっちゃおうかしら」
「やめろ‼︎」
叫んだのはナツだった。
「ツーちんには......」
「謝ってよ」
みちるが遮るように言う。
「じゃあナッちゃんが代わりに謝って。その湿った土の上に頭をついて、ごめんなさいって言うの。それくらいできるよね、もしも紺野さんをお友達だって思うのなら」
みちるは軽やかに歩き、ツバメを抑える少年の1人にハサミを手渡した。
「早くしないと手遅れになっちゃうかもよ。それとも、紺野さんのことなんてどうでもいいのかな?そっかそっか、ナッちゃんにはお友達なんかいないんだった......」
「わかったよ」
ナツは俯いて言った。
「謝るからツーちんを離せ。ツーちんは、......友達だ。たった1人の友達なんだ」
よほどみちるが憎いのだろう。ナツは拳を握り、歯を食いしばりながら地面に膝をついた。
「私が、私が......」
「謝る必要なんかないわ」
ツバメが遮った。羽交い締めにされ、髪にハサミを当てられながら、ツバメはみちるを見つめている。その目は瞳孔が開き、顔からは血の気が引いている。
「あんなクズに頭を下げたら私が許さないから」
みちるが鼻で笑った。
「クズですって? よくそんな状況で悪態が吐けるものね」
「私、こんなに怒ったのは生まれて初めてよ。もうどうなっても関係ないって思うくらい」
ツバメは不自由な腕を振り、身体を捩ると、ジャージのポケットに手を入れる。
そして、小さな黒い毛の塊を取り出した。
「な、なんだよそれ」
ナツが小声で尋ねると、ツバメは前を見たまま言った。
「この前、川の真ん中で私に似た人見たって言ってたでしょ。あのときは必死で否定したけど、ごめん、あれ私なんだ」
「お、おう。つうか、こんなときに何言い出すんだよ」
「今から起こることは2人だけの秘密よ」
「2人だけって。なんか知らないけど、ここに何人いると思ってんだよ」
「問題ないわ。最終的に目撃者がいなければいいのよ」
ツバメは抑揚のない声で言った。
妙に落ち着いた、何かを吹っ切ったような様子のツバメに、ナツは寒気を感じる。
「待て、一体なにする気だよ」
「はい、時間切れ。コソコソ話はおしまい」
みちるは舌を出した。
「ナッちゃんは謝る気がないみたい。三田君、紺野さん自慢のツインテールをぶっつりいっちゃってよ」
少年達の目が熱を持つ。女子にとって、無理矢理髪を切られるのがどれほどの屈辱かを知っている様子である。きっとこのような光景は何度も見てきたのだろう。
みちるに呼ばれた1人がツバメの髪を掴み、もう一方の手に握ったハサミを開く。
同時にツバメは呟いた。
「変身」
手にした黒い塊、魔法の付けヒゲを鼻の下に当てる。
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