その9

 ナツが林真下市を離れ、隣の町に引っ越した小学2年生の秋。

 新しいクラスで最初に声を掛けてくれたのは、坂根塔子という少女だった。

 30人もの見知らぬ生徒と、前とは違うにおいのする教室。緊張していたナツに、塔子は優しく話しかけ、付きっきりで学校を案内してくれた。

 1、2週間と経つにつれ、どうして塔子が転校生の自分に良くしてくれるのか、ナツは幼いながらに理解した。

 塔子には友達がいないようだった。

 朝ナツが学校に来ると、決まって塔子はもう席に着いており、誰とも話さず前を向いている。

後ろからそっと覗けば、三つ編みを結った丸い頭越しに、漢字にルビのない、同年代の子には難しそうな本が見えた。

「おはよう、塔子」

 よほど読書に熱中しているのか、それともクラスメイトに話しかけられるのに慣れていないのか。ナツが声を掛けると、ビクリと肩を震わせ振り向くのが塔子の恒例だった。


 やがて、運動神経が良く活発なナツはクラスに馴染み、次第に友達も増えていく。

 小学3年生になってからは市の陸上クラブに入り、6年生の頃には県の大会で上位に入るほどの短距離走者となった。学年が上がるにつれ手足がぐんぐんと伸び、目鼻立ちも派手になるナツの周りには、いつも友達が集まるようになっていた。

 けれどもナツの1番の友達はずっと塔子だった。中学生になりクラスが離れてしまった2人だが、部活の後は校門で待ち合わせ、お喋りをしながら並んで帰る。ナツはその日のクラスや陸上部であった出来事を話し、塔子は控えめながら明るい笑顔でそれを聴いた。塔子は最近読んだ本のことをよく語った。将来作家になりたいという塔子の夢は、2人だけの秘密だった。


 中学1年の初夏、ゴールデンウィークが終わって間もない頃。

 ナツは塔子の表情に影が差すようになったことに気が付いた。

 もともと控えめだった塔子だが、決して感情に乏しいわけではない。嬉しければ喜ぶし、辛いことがあれば悲しむ。それを面に出すときの振れ幅が小さいだけである。

 しかし今は違う。有り体に言えばただ元気がなかった。

 ナツの話もあまり耳に入らないようで、空返事も多くなった。別のことを考えているように、不意に虚ろな目をどこへともなく漂わせる。

 何か悩みがあるなら言って欲しい。そうナツは塔子に問い質したくなったが、なかなかできなかった。塔子が自らの悩みを、ナツに気取られないよう取り繕っているのが、痛々しいほどに伝わってくるからだった。

 そんなことが続いたある日。

 ナツがいつものように校門前で待っていると、塔子がやけに早足で近づいてきた。

 えらく思い詰めた顔で、そして決心したように塔子は言った。

「あのね、ナッちゃん。今日は別のお友達に誘われているんだ」

「ほう」

 ナツは眉を上げてみせた。

 中学に入り、別のクラスになった塔子には、新しい友達ができたらしい。

 進学してから2か月になろうという時期である。違う小学校だった子達とも打ち解けていて当然だった。ナツのクラスだって、既にいくつものグループができあがったり、そしてバラけたりしている。

「へー、よかったじゃん。早くそっち行きなよ」

 ナツは喜んで言った。

 内気な塔子に新たな友達ができたことが素直に嬉しかった。塔子は人見知りが激しいが、根は明るくて話せば面白い。きっとクラスでも人気が出る筈である。

「うん。ごめんね。だから今日は」

「わかってるって。なに気使ってんだよ」

 塔子の憂鬱の原因はこれか、とナツは俄かにおかしくなった。新しい友達と帰りたい、そう言い出せなかっただけなのだ。

 しかしそんな気兼ねは全く無用である。ナツにだって、塔子以外の友達は沢山いる。けれど2人の友情にはまるで関係ない。これからも何も変わらない。そうわかって欲しかった。

「じゃあ私は帰るから。今度友達紹介してね」

 ナツは軽く手を振り、1人歩き出す。

 そして10mほど進んだところで、腕を掴まれた。振り返れば、塔子が下を向いて立っている。ナツの腕を掴む手が小刻みに震えている。

「あれ、どうした?」

「ナッちゃん」

 俯く塔子の前髪の内から涙が流れ、両の頬を伝う。吐息のように小さな声で彼女は言った。

「助けて」

「どうしたんだよ、塔子。何があった?」

 下校時刻の正門前。多くの生徒が振り向くなか、ナツは語気を強めた。

「もう、もう嫌。うちに帰りたい」

 顔を真っ青にした塔子は、濡れた瞳を宙に漂わせている。目に見えない何か恐ろしいものに怯えているような様子だった。

「ナッちゃん、私また悪いことさせられる。もうどうしたらいいかわかんないよ」

 ナツは塔子の肩を抱き、校庭の隅へと連れていった。



 発端は自分に原因がある。

 塔子は落ち着かなげに、苔のまばらに生える地面を見ながらそう語り出した。

 それはゴールデンウィークの真ん中辺りのこと。塔子は駅の近くのコンビニにて、チョコレート菓子を盗んだ。

 塔子には小学2年生になる弟がいたが、その少年がどうしてもお菓子を食べたいと家で駄々をこねたらしい。

 塔子はお小遣いを貰っておらず、連休の中どこにも遊びに連れて行ってもらう予定もない。自分はさておき、彼女は弟のことがあまりに不憫だと思ったのだという。

 塔子の家が裕福でないということに、ナツはなんとなく気付いてはいた。しかし、だからといって万引きなど許されることではない。ナツは泣きながら話す塔子に怒りを覚えたが、大きく息を吐き、先を促す。


 その日、塔子は菓子をポケットに素早く詰め込むと、早足にコンビニから出ようとしたという。だが不幸にも、この場面をとあるクラスメイトに見られていた。

 連休明けの教室で、こっそりとそれを告げられた塔子は目の前が真っ暗になった。そして、なんとか万引きの件を秘密にして欲しいと、塔子はそのクラスメイトに懇願した。

 相手は微笑みながら言った。

「悪いことした人を見逃すのも悪いことなんだよ。塔子さんは私にも隠しごとをしろって言うの? それって私に何の得があるの?」

「それは......」

 返事に窮する塔子に、相手は続けて言った。

「だったら塔子さん。1つ条件があるの」

「条件?」

「私とお友達になってくれる? お友達同士なら秘密を共有するのは当然だもの」

 塔子は即座に頷いた。万引きの目撃者である少女、須永みちるはクラスでも人気者だった。みちるが友達になってくれて、そして万引きの件も明るみに出ないとなれば、それは願ってもないことだった。

「よかった! 塔子さんとお友達なんて嬉しい!」

 みちるは喜んだ様子で言った。

「じゃあ、お近づきの記念に私の秘密も教えてあげる。私ね、今とっても欲しい本があるの。でもちょっと高くって買えないんだ。まあ、塔子さんだったら簡単に手に入れられると思うんだけど」

 塔子は少しのあいだ意味がわからなかったが、みちるの意図に気付いて青くなった。

「それって......」

「じゃあ、また今度ね」

 優雅な足取りで自分から離れていくみちるの背を、塔子は気が遠くなる思いで見つめていた。

 それからおよそ2週間の間に、塔子は文房具3つに化粧品2つ、マンガ1冊に雑誌1冊をみちるへ献上した。

 全て万引きしたものである。

 みちるが次々に求めるものを買う金はなく、しかし持っていかなければどうなるかは明らかだった。

 店から無断で商品を持ち出すたびに、塔子は自らが汚れていくのを感じた。同じ教室で笑い合うクラスメイト達が眩しく、そして随分遠い存在のように思えた。自分だけが真っ暗で息のできない沼に沈んでいく。見上げる先に光は見えなかった。


「どうして断らないんだよ!」

 塔子の告白を聞いたナツは叫んだ。

「どうしてそんなになるまで! 菓子の万引きくらいバレたって大したことなかったんだよ」

「だって......」

 背を丸めた塔子はしゃくり上げながら言った。

「みちるさんははっきり言わないけど、でもほのめかすの。私がみちるさんの欲しいもの持ってかなかったら、私の弟のいる小学校にもバラすって。それだけは困るの」

 ナツは視界が真っ赤に染まるのを感じた。手足が凍ったように冷め、血がドクドクと脳天に集まっていく。

「塔子。みちるに呼び出された場所は?」

「な、なんで?」

「いいから早く‼︎」


 夕日の差す教室にて。

 数人の男子と談笑していたみちるに、ナツは掴みかかった。

「お前か、須永みちるは!」

「やめてナッちゃん」

 あとから教室に入ってきた塔子が袖を引っ張るが、ナツは止まらなかった。みちるの制服の襟を左手で掴み上げると同時に、右手を閃かせる。

 バチンと、大きな音が室内に響いた。

 突然の強烈なビンタに呆然とするみちる。しかし彼女はすぐに落ち着きを取り戻した。張られた頬を押さえながら、鼻の先にいるナツを睨み返す。塔子の姿を見ておおよその察しがついたようだった。

「私がみちるで合ってるけど、そう言うあなたは誰?」

「いいから来いよ!」

 ナツはみちるを引きずり、女子トイレへと連れていく。


「おまえ塔子に何しやがった」

「ああ、塔子ちゃんのお友達なの。私もそうよ」

 鏡の前で乱れた制服を直しながら、みちるは平然と言う。

 悪びれもしないその姿に、ナツは激昂した。

「どこがだよ! 友達にもの盗ませる奴がどこにいる」

「あら、何の話をしているの? 私がいつ塔子ちゃんそんなこと頼んだのかしら。私はただ、今欲しいものを教えていただけよ」

 白々しいことこの上なかった。

「塔子ちゃんたらダメじゃない、まだ万引きを続けていたなんて。おっと」

 みちるは口を押さえた。

「怖い顔で睨まれて、思わず言っちゃった。私ったら口が軽くていけないわ」

 ナツの隣で、塔子の肩がビクリと震えた。

 ナツが問う。

「他の奴には言ってないよな」

「もちろん。だってもし言っちゃったらどうなると思う? クラスでもおとなしい塔子ちゃんが万引きの常習者でしたなんてバレたら。とりあえず学校に居場所はなくなるし、下手したら弟君にも迷惑が掛かるかも」

「それだけは困る!」

 塔子のひっくり返った声が、女子トイレに反響した。

「お願いだから、やめて」

 力なく懇願する塔子を、みちるは満足そうに見つめる。

「うーん、どうしよっか。じゃあねえ、これで最後のお願いにするわ。このお願いを聞いてくれたら、晴れて私達は本当のお友達よ。塔子ちゃんの秘密は死んでも守るよ」

 みちるはしばらく間を開けてから続けた。

「実は私、今とっても困ってるの。昨日スマホを落としちゃって、それがどうやら盗まれたみたいなの」

 みちるはこの学校からほど近い、とある住所を口にした。下校中にスマートフォンを失くした後、その在り処を自宅のタブレットからアプリで特定したところ、この住所が出てきたという。そこはみちるが行ったこともない小さなアパートであることから、盗まれたと判断したようだ。

 みちるは塔子に、アパートに侵入しスマホを取り返して来いと言う。

「ほんとはさっきの男子達に頼もうと思ったんだけど、その前に塔子ちゃんが来たから」

「そんなの警察に頼めばいいだろ。不法侵入なんかできるわけない」

 ナツが拒否すると、

「やって」

 みちるは低い声音で言った。

「明日までにスマホを取り戻せなかったら、塔子ちゃんの犯罪を全部バラすから。お願いね」


 午後7時。

 静かな住宅街の中。広い空き地の端にたたずむ、古い2階建てのアパートを前に、ナツと塔子は立っていた。

 日の落ちかけた空に壊れかけた薄い屋根が溶け込み、全体の輪郭を滲ませている。

 みちるの調べたところによれば、彼女のスマホを盗んだ者の部屋はこのアパートの1階、102号室であるという。

 ナツと塔子は部屋のドアの前までゆっくりと近付いた。ドアの隣にある、格子のはまった曇りガラスの窓を覗く。室内に明かりはなく、また物音も聞こえない。

 2人は顔を見合わせ頷いた。ナツが扉のノブを握る。鍵は掛かっていない。ベタつくノブは錆びた音を立てながら回った。

 狭い玄関には穴の空いたスニーカーやパンパンに膨らんだゴミ袋が散乱しており、部屋に続く狭い廊下も得体の知れないゴミだらけだった。

 2人は土足のまま、音を立てないように廊下を進む。半開きのふすまの奥には六畳の和室があった。こちらも畳が見えないほどにゴミだらけである。換気などしたことがないのか、カーテンの閉められた部屋はじっとりと湿っており、食べ物の腐臭やタバコ、汗の混ざった臭いにむせ返りそうになる。

 暗さに目が慣れてくると、生ゴミや脱ぎっぱなしの衣類の中、モデルガンや大型のナイフ、縄で縛られた少女がジャケットに描かれたアニメのDVDなどが散乱しているのが見えてきた。

 制服の襟で鼻を押さえつつ、ナツは顔をしかめた。このゴミ溜めの中、いつ家主が帰ってくるともわからない状況で、みちるのスマホを探さなくてはならないのか。

 隣を見ると、塔子が自分のスマホを取り出していた。

「須永さんのケータイに掛けてみる」

 小声で言って、塔子は画面を操作する。

 ヴー、ヴーと微かな音が聞こえてきた。みちるのスマホが部屋のどこかで震えている。

 ナツが息を潜め辺りを窺うと、パソコンの置かれた机、散らかり放題の書類の上に小さな四角い光が見えた。ガラクタを踏みつつ近づけば、やはりそれはスマートフォンだった。塔子の名を画面に浮かび上がらせている。みちるのものに間違いなかった。

「やった、これだ」

 ナツはスマホをつまみ上げる。

「さっさと出よう」


 そのときだった。押入れのふすまが大きな音を立てて開く。

 心臓が止まるほど驚いた2人は、即座に振り向いた。

 中から現れたのは大きな男だった。

 伸び放題の髪から覗く、爛々と輝く目。大きく開いた口はちぢれたヒゲに覆われ、歯がところどころ欠けている。毛深く太い四肢と、汗染みだらけのタンクトップからはみ出した大きな腹。下半身はブリーフしか身につけていなかった。

「待ってたよ。ずっと」

 くぐもった声で男は言い、押入れの上段から飛び降りた。素早く部屋を横切り、廊下への出口を塞ぐように立つ。

 あまりにおぞましい男の姿に、ナツと塔子は声も出ない。

「背の高い子がナツちゃんで、大人しそうな子が塔子ちゃんだね。2人とも聞いてたとおりに可愛いね」

 何故か2人の名前を知る男は、呼吸を荒くした。

「ねえ、何して遊ぼうか」

「きゃあああ‼︎」

 塔子がようやく悲鳴を上げる。それを合図にしたように、ナツの身体が動いた。

「逃げろ!」

 足場の悪い床を飛び越え、男の傍をすり抜けようとする。

 だがバランスを崩し、ナツは男を押し倒すように廊下に倒れる。

「ああ、あはは。せっかちだね。可愛いね」

 酷い口臭と汗の臭いがナツの鼻を突いた。

「うわあああああああ」

 ナツは絶叫しながら湿った男の腕を振り払い、廊下を転がるように駆ける。

「ええ、なんで⁉︎ どこ行くの⁉︎」

 男の驚いた声と、ドタドタと追い掛けてくる音が聞こえた。

 ナツは振り向かず、玄関から外へと飛び出した。

 そしてそのまま走り続けた。日の落ち切った住宅街を、全速力で駆け抜ける。

 ハメられた。ナツは恐ろしさと悔しさに絶叫した。

 須永みちる、そしてヒゲ面の男の顔が闇に浮かび上がる。どこかで誰かの笑う声が聞こえた気がした。

 それからどれだけ走ったものか、やがて力尽きたナツは見知らぬ道の端にうずくまる。

 吐き気に襲われながら、ようやくナツは気が付いた。

 塔子がいない。

 どこへ行った? 否、ナツは置いてきたのだ。塔子を置き去りにしたまま、ナツは男のもとから全速力で逃げたのである。

 もし塔子がまだあの部屋にいたら。ナツは引き返そうとしたが、その瞬間、全身に震えが走る。脚に力が入らなかった。

 そして。

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