その6
「えっと。あれ火曜の夜だったかな。実は私、ツーちんを見掛けたんだ」
ナツはゆっくりと言った。
「そうなの?なんだ、声掛けてくれれば良かったのに......」
ツバメは言葉を止める。うなじの毛がぞわりと逆立つのを感じた。
火曜日といえばナツが転入してくる前日である。そしてその日は。
例の迷いネコ探しにツバメが奔走していた日だ。
ナツは言った。
「ツーちん、川の真ん中で何してたんだ?」
「川の真ん中?えっと、たしかにあの日は橋を渡ったかも......」
考えるフリをしてとぼけるツバメに、ナツは首を振った。
「橋の上なんて言ってないよ。ツーちんは川に入ってた。腰まで浸かってさ。そんで変な帽子被って、ネコを抱いてた」
どうやらバッチリ見られていたらしい。
なんという不運か。
ツバメは気が遠くなりかけたが、引きつった頬で呆れ顔を作り、なんとか平静を装う。
「何それ?」
ここはシラを切り通すしかない。まったく身に覚えがないという態度を貫き、なんとしてもナツに自信を失わせる他なかった。
「どうして私がそんなことするのよ」
「こっちがそれを訊いてるんだけど」
「だから人違いでしょ。私が10月の夜に冷たい川なんか、しかもネコ連れて入るわけないじゃない」
ツバメは訳が分からないという風に言った。対して、ナツは鼻から息を出す。
「ふふん。私はツーちんを見たのが夜だなんて言ってないけど」
「はっ!」
ツバメは明らかな動揺を見せた。
「だってそれは、昼間は学校だから。川に行くとしたらどうしても夕方とか夜って発想に自然となるじゃないの。ほら、普通そう思うでしょ。......いや、ちょっと待って。あんたさっき火曜の夜って言ったじゃない!」
「もう遅い。うろたえ過ぎ」
ナツはニヤリと歯を見せる。
「待って、違うの!」
ツバメは遮った。
「あれは私じゃない」
「じゃあ何?『あれは』ってことは、誰なのかは知ってるんだ」
「知らない」
「破綻してるじゃん」
「とにかく私じゃない!全然関係ないの!」
ツバメは強く言い切った。
*
「そ、それで......」
ウィスカーは恐る恐る尋ねる。
「ちゃんとごまかせたのかニャ?」
「うん。ごまかしたって言うかまあ、無理やり話を終わらせたんだけど」
自室の勉強机に頬杖をつき、ツバメは答えた。
現在午後8時30分。
英会話教室から帰宅したツバメが、夕食を食べ終え自室に戻ると、ウィスカーが我が物顔でくつろいでいた。ツバメは不本意極まりないが、既に半ば見慣れた光景でもある。それで雑談がてら、夕方の出来事を話して聞かせた次第だった。
「じゃあ、そのニャツって子が納得したわけじゃニャいんだニャ?」
ベッドに腰掛けるウィスカーは、ツバメから貰ったダイジェスティブクッキーをかじりながら、思案顔をする。
「ニャツじゃなくてナツね。布団に食べカスこぼさないでよ」
ツバメは疲れた口調で言った。
「でもしょうがないじゃない。まさか変身を解くところを友達に見られてたとも思わないし。不意を打たれてうまい言い訳も出ないし。もう知らぬ存ぜぬで通すしかなかったのよ」
「んニャ、キミを責める気は全くニャいニャ。そもそもこの前の変身自体がある程度危険覚悟だったからニャ。全部陽子のせいだけど」
日向陽子の無鉄砲のおかげで、危うく魔法のヒゲの秘密が世に知られるところだったのだ。それを阻止しただけでも、ツバメはよく働いたと言える。
「それはそうなんだけどさあ。問題は私の中学生活のほうよ」
ツバメは口角を下げて見せた。
「まずヒゲ付けてるとこ知り合いに見られるのって、想像してた100倍恥ずかしいことが改めてわかったわ。それに何より、ナツからの信用が失われないかが1番心配よ。だって私からはナツのこと散々色々問い質しといて、一方の私は変な秘密持ってるって思われたのよ?この多感な時期にそういうのって、裏切りだのなんだのに取られて、人間関係にヒビが入る可能性があるじゃない」
「そう心配しニャくても」
「あんたにとっては他人事だもんね」
「いやいや、違うモニャ」
ウィスカーは微かに口の端を上げた。どういうわけか、ヒゲグリモーのことが他人に知られそうになっている話を聴きつつも、大して不安がる様子を見せていない。
「解決できる方法があるニャ」
「何よ。解決ってどういう意味?」
「要は、ヒゲグリモーの秘密を無関係な人間に教えてはニャらニャいってルールがあるから、キミはニャ、ンニャ、ナャッ......、ニャツに真実を語れないわけニャろ?」
うまく言うのは諦めたらしい。
「うんまあ、そうね。そもそも言いたくもないんだけど」
「だったら」
ウィスカーは、さあ名案を言わんとばかりに一呼吸置いた。
「ニャツにもヒゲグリモーになってもらったらいいんだモニャ!」
「ふざけないでよバカ」
「ふざけないでよバカ⁉︎」
「何を言うかと思えば。そんなの絶対ダメに決まってるじゃない」
切って捨てるように言うツバメに、ウィスカーはぶうぶうと食い下がった。
「どうしてニャ。2人ともヒゲグリモーにニャれば、秘密にする必要もニャいのに。それに、ニャツの意志も聞いてニャいのに、キミがダメとか決めるのはおかしいモニャ」
「はあ⁉︎」
ツバメの顔色が変わった。ウィスカーの口答えが気に入らなかったらしい。
「好き好んでヒゲなんか付けたがる女子がどこにいるのよ、日向さん以外に!訊くまでもないわ!素っ頓狂なこと言ってんじゃないわよ、この化けネコ!デブ!UMA!敗残兵!」
「敗残兵⁉︎」
「いい⁉︎あの子に近づいたらただじゃ置かないから!即刻、保健所に通報するからね!わかった⁉︎」
ツバメが恐ろしい剣幕で睨んできたため、ウィスカーはさっと目を伏せる。
「わ、わかったニャ。だけどそれなら、ニャツには絶対、ヒゲグリモーのことをバラしたら駄目モニャよ」
「だから、私から言うようなことはないってば」
ツバメは、あり得ないとばかりにため息を吐く。
「じゃあ約束できるかニャ?」
「はあ?」
「もし今後、キミがニャツにヒゲグリモーの存在を教えるようなことがあった場合、ボクはニャツに接触できるものとする。どうかニャ?」
「はいはい、勝手におし。そんな場合はないですから」
何故か挑んでくるウィスカーに、ツバメは虫を追い払うように手を振った。
「その言葉、忘れるニャよ。それなら、ボクは今日はこのへんで」
ウィスカーが帰ろうとするので、ツバメは卓上に広げた宿題に目を落としつつ、返事をした。
「うん、おやすみ。っていうか何しに来たのよ」
いやあ別に、などとモゴモゴと言いながら、ウィスカーはベッドから浮き上がる。そして窓を開けつつ、
「あ、そうだ。これ渡しとくからニャ」
と思い出したように言うと、ツバメの机に魔法の付けヒゲを乗せた。ヒゲエンビー用のカイゼルヒゲである。
「ああ、はい。置いといて」
ノートに視線を戻しかけたツバメは、直後に大声でウィスカーを引き止める。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「ンニャ?」
「なんでしれっと置いていくのよ、こんなもの!」
「ヒゲエンビーのヒゲはキミに預けておくことにするモニャ」
ツバメは即座に首を振る。
「いや、いらない」
「そう言うけどニャ。キミがヒゲグリモーに変身する必要があるとき、いちいちボクに連絡するのは手間ニャろ。合流するのもタイムロスだし。信用のおけるツバメには預けておくほうがいいと思ったのニャ」
ツバメは勝手に置かれたヒゲを摘むと、ウィスカーの頭に叩きつけた。
「ニャニャア!手荒に扱うニャ!」
「見え透いてるのよ!私がヒゲを持っていれば、うっかりナツの前で変身するとでも思ってるわけ?バカにしないでよ」
「そ、そんなつもりは。むしろボクはキミを信用して渡すんだモニャ。第一、うっかりしニャいんだったら、持ってたっていいじゃニャいか」
「私が持ってて何の得があるのよ」
「それはもちろん、ビアードが現れたときとか、襲われたときとかに要るニャろ。身の安全のためにも」
「待って、おかしいわよ。そのビアードとかいう奴らの狙いはあんたとヒゲグリモーでしょ?そして、私のことは知られていない。てことは、そもそも私がヒゲグリモーに変身しなきゃ襲われることもないじゃない」
「今のところはそうニャけど、どこからキミの素性がバレるかなんてわからニャいだろ?それに、いざ町なかにビアードが現れたりしたときには、戦わなければならニャいし」
「なんでよ、絶対イヤよ。危ないじゃない」
「そうニャ。ビアードは悪の軍団で、どんな被害を人々に及ぼすかわからニャい。でも一方のキミはそんなビアードに唯一対抗できる存在、ヒゲに選ばれし魔法戦士ニャぞ?キミに市民を守ろうという正義の心はニャいのか⁉︎」
「ない」
「言った!はっきり言ったモニャ!」
ウィスカーは糾弾するように叫んだ。
「今さら何よ。私は最初から同じ姿勢でいるけど?もっとも、悪い奴と戦って内申上がるなら考えないでもないけど」
ウィスカーは唸った。
「憎たらしい言い方ニャ。学歴社会が生んだ悲しき弊害がここにいるモニャ」
「なんですって⁉︎あんたこそ、やけに突っ掛かってくるじゃない!さっさとヒゲ持って帰りなさいよ!」
ツバメがキッと睨むと、ウィスカーは溜めていたものを吐き出すように言った。
「いつまでもボクがいると思うニャよ!」
「はあ?なに?」
「なんでもないニャ!」
ウィスカーはふわりと宙へ浮かぶと、ツバメに尻を向ける。
「あ、ちょっと!」
逃げるつもりであると気付いたツバメが手を伸ばすも、ウィスカーは既に部屋の外、月光の滲む夜空に飛び出していた。
「たしかにキミに渡したからニャー!」
「待ちなさいよ、逃げる気⁉︎」
怒鳴るツバメに、ウィスカーは手を振る。
「これからは肌身離さずヒゲを持っとくモニャ!机になんかしまったら駄目ニャよ!」
「バカー!ヒョウタンネコ!こんなの押し貸しよ!」
見る見る小さくなるウィスカーの背に、ツバメの怒声が虚しく響いた。
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