その5
シャッターの開け放たれた店内に西陽が差す。
様々な色に輝くバイクと、コンクリートの床に長く伸びる影。
油やゴムの臭いが入り混じる中、ナツは1人、銀色の大型バイクを前にしゃがみこんでいた。
長い黒髪をうなじでまとめ、水色のつなぎを着た彼女は、バイクの下に置いたトレーを見つめる。
とろみのある黒い液体がエンジン部分から細く流れ、四角いトレーに溜まっていく。
小さな漆黒の沼が広がり波状に揺蕩う様を、ナツはぼんやりと見ていた。
「ナツよ」
どこからか、低く抑えたような声が聞こえた。
ナツはびくりと震え、首だけで周囲を見回す。
視界には誰もいない。
「多飯田ナツよ」
姿なき声がまたナツを呼んだ。
「......誰だ?」
「探しても無駄だ。私は今、空気の振動を利用しお前の耳に直接語りかけている」
一瞬の間を空け、ナツは吹き出した。
「それは普通の声だろ」
首に掛けたタオルで額を拭いつつ更に首を回すと、シャッターの柱の影から、ツインテール頭がにゅっと現れた。
「ああ、ツーちん。懐かしいな、そのギャグ」
「ああツーちん懐かしいな、じゃないわよ」
制服姿のツバメは客のいない店内に入ってくると、呆れたように息を吐いた。
「何やってるのよ、こんなところで」
「こんなとこって、私ん家だけど」
緩やかな斜面に面した2階建ての小さなビル。
1階がナツの祖母の経営する「多飯田バイク」で、2階は住居である。
「だから、家で何してるのよ」
「オイル交換ですけども」
「なんで学校来ないのかを訊いてるんですけども」
ツバメは学校で配られた2日分のプリントをナツに差し出す。
オイルに汚れた手で受け取りながら、ナツは怪訝な顔をした。
「あれ?体調不良ってことになってない?」
「なってるわよ!誰も信じてないけどね」
「なんだよ、信用ねえなあ」
「信用も何も、現にあんた元気そうじゃない。ズル休みでしょ」
「そうだけどさ。まあ、ちょっと臭かったんだよねえ。面倒が」
「またそれ⁉︎」
ツバメはうんざりしたように言った。
「メンドーメンドーって、転入早々からそんなんでどうするのよ。仮病使うより素直に学校来た方がよっぽどラクじゃない?」
「あーはいはい、そっちね」
ナツは受け流すように言う。
「その意見も私の中で出たけどね、大多数の私はそうじゃなかったよ」
「あんたは1人でしょ。いいから学校来なさいよ」
「わかったよ、明日は行くよ。......いや、土曜だから休みか」
「体育祭よ」
「ああ、そうだっけ。じゃあ来週からにする」
夕陽に目をしばたかせつつ、ナツは言った。
ツバメはしばらく黙っていたが、やがて言いづらそうに口を開く。
「せっかくこの私が謝ってあげようとしてたのに。昨日も今日もずっと待ってたんだからね」
ナツは首をひねる。
「はあ、謝るって何を?ずいぶん恩着せがましい感が気になるけど」
「意地が悪いわね」
ツバメは消え入りそうな声で言った。
「私のせいでイヤになったんでしょ」
「はあ?」
「だからさ。私がその、みんなの前でナツのことを何にも考えずに怒鳴ったから、ナツはさあ、学校来るのやめちゃったんじゃないかなって......」
「ふふ」
ナツは立ち上がった。
向かい合うとツバメより10cmほど背が高い。
「なにが可笑しいのよ」
「今日はずいぶん歯切れが悪いじゃん」
「そんなことないけど」
ツバメがむくれて目をそらすと、ナツはまた笑った。
「別にツーちんのせいじゃないよ。私がものぐさなだけだよ。学校行くのも体育祭出るのも、かったるいってだけ。自意識過剰だなあ」
「だって」
ナツに見下ろされるなか、ツバメは俯いた。
硬く結ばれた唇がプルプルと震えている。
「だって、クラスのバカな男子達がそう言うんだもん。私がナツに強く当たったからだって。すごい言われたんだから」
ナツは気まずげに首をさすった。
「バカの言うことなら、いちいち真に受けんなって」
「そうだけど」
「てか、ツーちんが他人の意見を気にすることなんてあるんだな」
「あるわよ!正論好きの私にだってね」
「はあ、なにそれ?」
「ううん、何でもない」
ツバメは顔を上げた。
「というか、学校来ない人に慰められたくないんだけど」
「うっ。だから行くって」
「それなら明日からね。体育祭に来てよ」
ツバメが言うと、ナツは口を結び眉を寄せた。
「うーん」
まだ煮え切らない態度である。
「ねえ、ナツ」
ツバメは改めて尋ねた。
「何があったの?昔はあんなに運動好きで、陸上クラブでも張り切ってたのに」
しばらくの沈黙の後、
「めんどくさくなったから」
そうナツは、めんどくさそうに言った。
「人と争うことに嫌気がさしたんだよねえ。まあ、陸上なんて個人競技ばっかだし、かっこよく言えば己との戦いなんだけどさあ」
彼女はポツポツと、言葉を選ぶように語る。
「でも1人でやってるわけじゃないじゃん、クラブなんだし。そうすると、小学生同士だっていっちょまえに、他のチームメイトに嫉妬したり、互いに牽制し合ったりすんだよ。私、自慢じゃないこともないけど、けっこう足速かったし、妬まれることもあったんだよね。それがなんだか急にイヤになって、やる気なくなって、小5んときにクラブ辞めて、そんで今に至るってわけ」
納得した?とナツは皮肉な笑みを浮かべた。
「そうだったの」
ツバメは小さく頷き、そして言う。
「話してくれてありがとう」
「ああ。いいよ別に」
「じゃあ、ナツはウダウダ言ってるだけで、走ろうと思えば走れるのよね」
「そんなまとめ方あるか⁉︎」
愕然とした様子のナツに対し、ツバメはホッと胸を撫で下ろす。
「ああ、良かったわ。別にケガして運動ができないとかじゃなかったのね。それなら体育祭来れるわよね」
ナツは苦笑した。
「わかったよ」
呆れたように言う。
「行くよ。応援係やればいいんだろ」
「え、違うわよ。ナツは私と二人三脚することになってるからね」
「はあ?何だよそれ、聞いてないけど」
ナツは驚いた。
「そうでしょうね。ナツが教室から出てったあとに決まったから」
ツバメは平然と答える。
「そんな横暴がまかり通るのかよ」
「もう約束したからね!」
上目遣いで睨むツバメに、ナツは逡巡したのち、降参したように返事をした。
「はいはい」
「じゃあ明日ね。遅れないでね」
ツバメは手を振る。
「えっ、練習とかしないの?」
「ごめん。これから英会話なんだ」
「ぶっつけ本番かよ。ムチャだなあ」
「だってナツが学校来ないんだもの。まあ、なんとかなるでしょ。絶対遅れないでよね」
ツバメは念を押し、通りを歩き出す。
その背に向かってナツが声を掛けた。
「ツーちん」
「なに?」
ツバメは振り返る。
「あのさあ、ツーちん。その代わりってかさ、教えて欲しいことがあるんだけど」
つなぎのポケットに手を突っ込み、ナツは言った。
「うん、なに?」
「ツーちん、川の真ん中で何してたんだ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます