第7話「ナツのフーガ」
その1
午後6時20分。
夜空の色に染まる窓には、くっきりとした半月が貼り付いている。
多飯田ナツはTシャツの上にジャージを羽織って自室を出た。
廊下の突き当たり、階段を下りると、1階の店にはまだ蛍光灯が点いている。
見れば、青いつなぎを着た祖母が1人、バラされたバイクを前に黙々と作業をしていた。
ナツの足音に気付いた祖母は振り向き、レンチを片手に立ち上がった。
「おや、どこ行くんだい」
「散歩」
ナツはぼそりと答えながら、階段口に脱ぎ捨てられていたスニーカーを履く。
「こんな時間に?明日から新しい学校なのに。準備はもうできてるんだろうね?」
「あぁ、うん」
気だるげな返事を返したナツは、店に並ぶバイクの間を抜け、入り口に下りたシャッターを持ち上げる。
外へ出ようとした孫娘に、祖母は腰を伸ばしながら思い出したように言った。
「ああ、学校と言えばね。こないだバス停のところでさ、あの子に会ったよ」
「誰?」
「あの子だよ。ほら、ちっちゃいクセにこまっしゃくれた......、そうだ。ツーちんだよ。あんたずいぶん仲良しだったろ」
「ツーちん?」
ナツは振り返る。
「そう。久し振りだったけど、可愛かったよ。相変わらずどっかのお嬢様みたいで、きちんと挨拶もできてさあ。もしかしてあんた達、また同じクラスになるんじゃないのかね」
「ああ、どうかな。知らんわ」
「なんだい。あんた、せっかくこっちに帰ってきたのに、連絡取り合ってないのかね」
祖母は驚いたように言う。
ナツはうざったそうに長い黒髪を掻き上げた。
「ばーちゃんさあ。ツーちんと遊んでたの、うちが転校するまでだし。小2以来の再会とか、今更気まずいだけだって」
「またつまらんこと言う。小2なんてついこの前だろ。ツーちんは賢い子だからそんなん気にしないよ」
「いや、小中学生なんて5年も経ったらもう別人だからね。お年寄りとは時間感覚が違うっつの。それに私」
別にもう友達とかいらんからさあ。
小さな声でそう言うと、ナツは外へ出た。
薄手のジャージの襟に冷たい風が入り込む。
「あーあ、かったりい」
夜の町を当てもなくぶらつきながら、ナツは独りごつ。
彼女は何もかもが面倒くさかった。
明日から新しい中学校に転入する。
といっても、小学校2年生までこの町に住んでいた彼女である。
行けば見覚えのある顔がいくつかはあるだろう。
そいつらをいちいち思い出すのが面倒くさい。
久し振り、などと挨拶するのが面倒くさい。
出戻りの転入生だと注目されるのが面倒くさい。
とにかく憂鬱だった。
両親の海外転勤に伴い、この町に住む祖母のもとへ身を寄せることとなったナツだが、どうせ引っ越すならまったく別の土地がよかったと思った。
いっそ転校初日から休んでやろうか。
うだうだと考えるナツは、いつの間にか川べりまで歩いてきていた。
堤防の上から眺める暗い白鷺川。
その光景は、彼女の小学生の頃から何も変わっていないように思えた。
たった数年でまさか川の向きが変化することもないだろうが、堤防に沿うガードレールのサビやアスファルトに描かれたいたずら書き、川岸に生える野の花さえ当時のままに見える。
夜風に吹かれながら、ナツはぼんやりと半月を見上げた。
祖母の言う通り、5年という月日など大した期間ではないのだろうか。
それとも。
もしや自分が離れていた間、この町は時間が止まっていたのじゃなかろうか。
もしそうなら。
何もかもが以前のままなら、私はまたあの子と出会い、この5年間などなかったかのように仲良く会話するのだろうか。
また2人で川に足を入れ、小さなサカナやザリガニを追い回したりするのだろうか。
「ふふん」
自分がくだらない考えを巡らせていることに気付き、ナツは鼻で笑った。
よっぽど明日が面倒でならないのだと、改めて自分の怠惰さがおかしかった。
そんなとき。
「ん?」
川面に目を戻したナツは妙なものを見つけた。
川の中央辺り、うごめく生き物を抱き抱えた小柄な人影である。
シルクハットに燕尾服、そしてどうやらスカートを身に履いているという、おかしな出で立ちだった。
10月の、しかも日の落ちきった時間帯に、たった1人で何をしているのか。
「気持ちわる」
ナツは呟く。
やはり時は経っているらしい。
前はあんな不審な人物などそうそういなかった。
彼女は見なかったことにして、立ち去ろうとした。
そのときである。
川の中の人影が光を放った。
懐中電灯などの灯りではない。
人間そのものが輝いている。
「宇宙人かよ」
異様な光景に眉を上げるナツの前、謎の光は風に散らされるようにかき消えた。
再び露わになる人影。
なぜか先程とは様子が変わっている。
それは大きなネコを抱いた少女だった。
側頭部でふたつ結びにしたクロワッサンのような巻き髪。
月光に照らされた川面に浮き立つ、整った横顔のシルエット。
ナツには見覚えがある。
忘れるわけがない。
「ツーちん」
あれはまだ学校が楽しかった頃。
幼い日のナツがいつも追い掛けていた一番の友達。
あの子は、紺野ツバメだ。
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