その9
日向陽子VS女子高生幽霊。
猛ダッシュで駆ける陽子は、幽霊に手が届く程の距離まで接近していた。
「くたばれ!」
死人に向かってそう叫び、殴りかかる。
しかし彼女の拳は届かなかった。
制服幽霊に到達する寸前、陽子は弾かれたように後ろに吹き飛ばされたのである。
校庭の土の上を無防備過ぎる小さな身体が転がる。
「痛ってえ」
全身に擦り傷を作りながらも、陽子はすぐに立ち上がり身構えた。
倒れてもすぐに体勢を立て直すという、喧嘩における常識が、彼女には染み付いている。
「てめえ、どこ高だ!今すぐシュンゴを離せ!」
こちらを見ようともしない幽霊に向かって、陽子は両拳を構える。
だが再び飛び出そうとしたところで、彼女は地に伏せた。
今度は地面に這いつくばる格好である。
陽子の意思ではない。
目に見えない何かが、上から押し潰すように乗っかっていた。
「離せ!」
叩かれた虫のようにじたばたともがきながら、陽子は吠えた。
「てめえ、ぜってえ成仏さす!」
キュウと絞られた瞳で幽霊女子高生を睨み付ける。
その鋭い視線を頰に感じたのか、ずっと正面を向いていた幽霊の首が初めて動いた。
ガクリと頭を傾けると、髪の隙間から表情のない少女の顔が覗く。
夜闇より暗い虚ろな瞳で、幽霊は陽子を見つめた。
*
絡繰人形のようにぎこちない動作で陽子を見下ろした幽霊。
遠くから見守るだけのツバメでさえゾクリとした。
標的を少年達から陽子に変更したらしい。
いや、そうじゃない。
ツバメは気が付いた。
いつの間にか、シュンゴの隣にコメジが並んで浮かんでいた。
揃って苦しそうに顔を歪めている。
一体何箇所を同時に操れるというのか。幽霊はいとも簡単に少年2人を捕らえた上、陽子を押さえ付けてしまったのだ。
今や無事なのはツバメただ1人である。
「助けを、呼んでくれ...」
微かな声がした。
ツバメが見上げると、コメジが呻きながら、こちらへ手を伸ばしていた。
もはやためらっている場合ではない。
「は、はい!」
意識を失いかけたコメジに向かい、ツバメは思わず大きく返事をしてしまう。
そして、その声を幽霊は聞き逃さなかった。
陽子を見下ろしていた顔が素早く正面に向き直る。
長い髪の中から、2つの光がツバメを捉えていた。
見つかった。
ツバメが悟った瞬間、プールの水面が突然弾けた。
「きゃあ!」
ツバメは身を縮める。
鞭を振り回すような音と共に、水が幾度も叩かれ大量のしぶきを上げた。
「やめて!私なんにもしてないじゃない!」
ツバメの叫びも虚しく見えない攻撃は続き、辺りに凄まじい風が巻き起こる。
プールサイドに放置されていたツバメや陽子の服が次々に吹き飛んだ。
「あっ」
そして通学カバンやブリキのバケツ、ビート板に交じり、ツバメの遥か上方をヒラヒラと舞っていくものがあった。
白い布でできた小さな物体である。
「だめ、帰ってきて!」
ツバメは悲鳴を上げた。
だが彼女の懇願をあざ笑うかの如く、その布きれは悠々と学校の敷地を超え、民家の彼方に消えてしまった。
「わ、私の下着が...」
ツバメは頭をかばいながら唸る。
パンツを失った。
スマホの入ったカバンもどこにいったかわからない。
もう駄目だ。
荒れ狂う水面に耐えられず、ツバメは水の中に頭を沈めた。
鼻を指でつまみ、身体を胎児のように丸めながら考える。
しかしどう考えを巡らそうにも、あれ以外に思いつかなかった。
そう、あれに頼るしかない。
切り抜ける道はただ1つ。
それは最後の最後まで使いたくなかった手段である。
ツバメは嫌々ながら意を決し、プールの底を強く蹴った。
「ぷはーっ!」
頭を再び水面から出した瞬間、深く息を吸い込むと、ツバメはあらん限りの声で叫んだ。
「ウィスカー‼︎」
やつは毎晩のように紺野家にやってくる。
おそらく今日もこの町内をウロついてる筈なのだ。
どうか、聞こえてくれ。
ツバメはそう願った。
「はいはーい」
プール用更衣室の裏から、返事があった。
恐ろしく早いレスポンスと共に、ひょこりと顔を出すウィスカー。
フワフワと宙を飛んでやってくる。
「あんた、ずっと見てたの⁉︎」
のんきなその様を、爆ぜるような水しぶきの中からツバメは睨む。
「ツバメ、なんて格好だモニャ。いや間違い、なんの格好もしてなかったニャ」
「うるさい!」
笑い転げるネコを一喝すると、ツバメは催促するように手のひらを見せた。
「見てたならわかってるでしょ。早く貸して!」
「何をニャ?」
「もう!とぼけてる場合じゃないでしょ!」
「あれ。君はたしか、もう使わないんじゃ」
意地の悪い目つきで、付けヒゲを出し渋るウィスカーだった。
「好きで言ってるように見える⁉︎緊急時なんだからしょうがないでしょ!」
一方。
地面に這いつくばっていた陽子はじりじりと体勢を変え、なんとか自力で見えない圧力から抜け出していた。
幽霊の周囲を走り回り、ツバメへの攻撃から注意を逸らそうとする。
宙吊りにされた友達、そして自分が騒動に巻き込んでしまった後輩。
皆を絶対に救わなければならない。
陽子はそう思っていた。
幽霊の真後ろに回り込み、隙をみて食らい付く。
だが無駄だった。
柔らかい壁のようなものに阻まれ、幽霊女子高生に触れることもできない。
またもや不可視の力に顔を叩かれ、陽子は地面に投げ出される。
駄目だ、全然敵わねえ。いつもの喧嘩とは勝手が違うじゃねえか。
陽子はツバメのいる方を向き、声を張り上げた。
「逃げろ!こいつ超強え!」
そのときだった。
プールの中心に、竜巻のように渦を巻く水の柱が立った。
中心が白く光っている。
辺りにファンファーレのような謎の音が鳴り響いた。
「何だ、ありゃ」
やがて水柱は四散し、中から人の形をした黒いものが飛び出した。
宙返りを決めプールのフェンス上に立った影は、高らかに口上を述べる。
「うず巻き だて巻き ドリル巻き!ヒゲエンビー、ここに参上!」
黒いシルクハットに燕尾服、エメラルドのブローチとオレンジ色のフリルスカート。
そして口の上に巻きヒゲを付けた少女が、指揮棒を手に姿勢よく立っていた。
後編へ続く
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