その6

夜のプールに突き落とされたツバメ。


だがしばらく浸かっていれば水温にも慣れてくる。

ちょっとのあいだ付き合えば陽子も満足するか、とツバメは背泳ぎの姿勢で水面を漂いだした。

塩素消毒剤と濡れたコンクリートの臭いに満ちた生暖かい空気、身体に吸い付く冷えた水。

パシャリパシャリと波のぶつかり合う音しか聞こえず、視界に映るのは雲のない夜空だけだ。

星がチカチカと光る。

目に入った水が光の筋を描くのをツバメは眺めた。


そうして暫くの間ぼんやりとしていると、いつの間にか光は視界全体へと滲んでいった。

小さな星の瞬きは寄せ集められて輝きを増し、やがて力強い光線へと変わる。

天から降り注ぐまっすぐな光の柱。

これはスポットライトみたいだ、とツバメは思った。

気が付けば、広い舞台に立つ彼女を幾筋ものライトが照らしていた。


どこからか手を打つ音が聞こえてくる。

パラパラと鳴り出したその音は、次第に拍手へ、そして喝采へ。

ツバメは今、大歓声に包まれていた。

目の前には演奏を終えたばかりの楽団員達が、顔を上気させ、こちらを見ている。

たった今まで荘厳な音を奏でていた様々な楽器も、誇らしげに艶めいて見えた。

そうだ、私はコンサートを成功させたのだ。

私の率いるオーケストラが賞賛されているんだ。

ツバメは自分の息が上がっているのを感じた。呼吸が苦しいくらいだ。

ふと前を見ると、バイオリン奏者の1人が、ツバメの背後を手のひらで示している。

振り向くと、大ホールを埋め尽くす観衆がいた。

そして皆でツバメを指差し爆笑している。

下を見れば、指揮台に立つ自分は裸であった。


「ぎゃあああ!」

水没しかけていたツバメは、慌てて起き上がる。

どれくらい寝ていたのか、身体がすっかり冷え切っている。

水から上がらなくてはと、ツバメはプールの縁に近付いた。

そのときである。

ガシャンという大きな音が辺りに響いた。

死ぬ程驚いたツバメはアゴまで水に浸かり、周囲を見回す。

誰かがフェンスを思い切り叩いているようだ。

叫んでもいる。

「陽子、いるか⁉︎大変だ!」

坊主頭と金髪、2人の少年の姿が金網の向こうに見えた。

両方とも放課後、プール裏にやってきた不良である。

何かあったのだろうか、慌てぶりが尋常でない。

必死に陽子を呼んでいる。


そういえば彼女の姿が見当たらない。

ツバメが首を回すと、少し離れたところに小さな白い山が2つ、水面に浮かんでいる。

陽子は潜水の真っ最中だった。

「あの、あそこにいますけど」

ツバメが小さく手で示す。

「ツバメちゃんか!陽子を呼んでくれ!」

血相を変えた坊主頭がそう言うので、ツバメは陽子に近づき、指で片方の山を突いた。

水中から、濡れた髪を張り付けた陽子の顔が現れる。

「ん、どうした?おう、コメジとシュンゴか。遅かったな。他の奴らはどうした?」

そう、のんびりと尋ねると、不良達は声を揃えて答えた。

「みんなやられた!幽霊にやられた!」



「壁の中に幽霊が出たんだ!」

「いきなり襲ってきやがった!」

早口でまくし立てる坊主頭のコメジと金髪のシュンゴ。

同時に喋る2人の話は互いを邪魔しあい、非常にわかりにくかった。

「ちょ、ちょっと落ち着きましょう。深呼吸して」

たまらずツバメが言うと、素直な少年達は膝に手を置き、ゼエゼエと息を吐いた。

ここまで急いで駆けてきたのだろう。

だが、

「幽霊⁉︎いたのか?どこに?どんな奴だった?襲われたってどういうことだ?」

2人の呼吸が整うのを待たず、陽子が色々と訊いてきた。

「そ...、それがよ...」

荒い息づかいのまま、不良少年達は話し始める。


午後7時20分頃のこと。

コメジ達を含めた少年達5人は連れ立って、ここ学校のプール裏へと向かっていたという。

陽子達と合流し、女子高生の幽霊を探しに街をうろつくためである。

約束の時間をとうに過ぎていた彼らだが、特に気にもせずダラダラと歩いていたところ、なんと集合場所に到着する前に、今日の目的である幽霊と遭遇してしまったらしい。


「ざけんなよ!アタシが加わる前に何見つけてくれてんだよ!」

陽子が悔しがって喚く。

「知るかよ、こっちだってまだ準備できてなかったわ!抜き打ちで幽霊が出やがったんだよ!」

シュンゴが首を振りながら言い返した。

それに対し、

「抜き打ちってそんな、テストじゃないんですから」

ツバメが控えめに突っ込む。

落語でもあるまいし、見物人が揃うのを待ってから出てくる幽霊もいないだろう。

だが陽子にとっては冗談じゃない。のけ者にされた気分である。

「で、どこにいたのさ!」

と、不貞腐れた様子で続きを促した。

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