第3話「サンシャイン陽子のマーチ」前編
その1
まだ平和な市民は誰も知らないことだが、W町の地面の下、縦横複雑に伸びる下水道が最近、一部勝手に改造されている。
汚水を運ぶトンネルとは別に、秘密の道が開拓されているのだ。
今その道を、1人の小柄な男が歩いている。
下水道を改造した張本人である。
広い額には深いシワが幾本も横切り、歯はまばらにしかない。
首からくるぶしまでを黒い布で覆い、片方の目には分厚いモノクルを掛けていた。
老人はやがて秘密の道の終わりまでやってくると、袖の中からカードキーを取り出した。
彼の正面には扉があり、横には「牧島研究所」と書かれた粗末な木札が張り付いている。
片方の腕がふさがっているため、苦労してロックを解除し扉を開けると、老人の顔に蛍光灯の光が射し込んだ。
「戻ったぞ、アンドロメダ」
水槽や端末が所狭しと置かれた広い部屋。
足元を這う配線の束を避けながら、老人は歩く。
「お帰りなさいませ 牧島博士」
今時見かけない、1台の黒電話が机の上に置かれている。
返事をした声の主である。
受話器の向こうの誰かの声、というわけではなく、黒電話自身が喋ったのだ。
人工知能を埋め込まれた電話型ロボットで、老人が製作したものである。
老人はこれをアンドロメダと呼んでいる。
抑揚のない女性の声で黒電話は老人に問う。
「博士、 何を担いで いらっしゃるのですか」
問われた老人、牧島博士の肩には、身体を折った制服姿の人間がだらりと垂れ下がっていた。
高校生であろう茶髪の少女である。
「いやぁ、疲れたわい。意識のない人間は重くてかなわん」
博士は作業台に少女を載せ、仰向けになるよう転がした。
「また そんなものを 攫って こられて。 人目には つかなかったでしょうね」
感情を感じさせない黒電話の声に、牧島博士は胸を張る。
「安心しろ、前の街でのようなヘマはせん。それに攫ったのではない。この娘は自らワシに命を差し出したのだ」
「はて」
「駅前をうろついておったらな、こいつがワシのところに寄って来て言ったのだ。5万円で身体を売るとな。5万だぞ。どうだ、破格じゃろ」
「はあ」
「何故ワシが実験体を欲しがっとると知っていたのかは謎じゃが、感心な娘である。化学の進歩のために自己を犠牲にするとは」
「博士、 彼女は そういう意味で言ったんじゃ ないのでは」
アンドロメダが訝るが、牧島博士は聞いていない。
作業台に横たわる少女を前に、手のひらを擦り合わせて叫ぶ。
「さてさて、これにて準備は万端整った。これより実験を行う!」
「また 悪事ですか」
「まずはあの溶液を...、なんだと⁉︎」
博士は心外そうに、黒電話の方を振り向く。
「言っとくがの、アンドロメダ。ワシは悪事が好きなのではないぞ。おこないがことごとく法に引っかかるだけだ。法律の方が先回りして、ワシの邪魔をしとるとしか思えん」
それに、と牧島博士は1つの水槽を見ながら続ける。
「女子高生をタコに埋め込んではいけない、とはまだ誰にも言われておらん」
✳︎
「待て、陽子!今日こそ髪を切るぞ!」
「イヤだよ、ハゲ親父!」
9月も終わろうというある平日の午前7時。
開店前の理容店にて、父と娘が争っている。
父はバリカンを片手に娘を捕まえようとするが、逃げる娘、陽子もチョロチョロと素早い。
「理容店の娘がそんなボサボサ頭でいいわけあるか!」
「親父こそ、床屋のくせに毛がねーじゃねえか!医者の不養生ってやつだろ」
「バカ野郎、全然意味が違うわ!こら待て」
父の脇をすり抜けた陽子は、店の出口に向かいつつ、理容椅子にキックをかます。
追ってきた父が、蹴られて半回転した椅子の足置きにつまずき、派手に転んだ。
「いてえ!このガキ!」
手から離れたバリカンが床を滑っていく。
「じゃあな。学校行ってきまーす!」
娘は何事もなかったかのように、店の入り口から出ていった。
「ま、待て!陽子ー!」
カランカランと音を立て閉まる扉に向かって、床に這いつくばる父は手を伸ばした。
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