その4

 ネコが急に全身の毛を逆立てた。

 ピタリと動くのをやめ、緑色の目を見開く。


「え、ごめん。そんなに怒った?」

 ツバメが言うとネコは「シッ!」と、短い指を口の前で立てた。不審な物音に気が付き、耳をすませているようだった。

 そして突然、ツバメの背後、夜空に向かって首を曲げる。

 つられてツバメが振り向くと。

 立ち並ぶ民家の屋根の上を、何かが恐ろしい速さで駆け抜けていくのが見えた。

 すぐにツバメ達の前を通り過ぎて行ったためよくはわからなかったが、それは人の形をしていた。


 トトトトトト。

 屋根の上を素早く走っているのに、その足音はとても小さい。

 影はツバメとネコのことなど意に介さず走り続け、民家の向こうへ姿を消した。

 あまりにスピードが速く、また街灯の光の届かない高所にいたため、ツバメにはその影の姿をはっきりととらえることはできなかった。

 見えたのは後ろ姿、背中になびく長い髪と、風に広がるスカートのみだ。


 謎の影が去った後、少女とネコは顔を見合わせる。

「何、あれ」

「何だったのかニャ」

 ネコは、なで肩の間に頭をめり込ませた。肩をすくめる仕草のつもりらしい。

「あんたの友達じゃないの?」

 ツバメが言うと、ネコは驚き手を振った。

「どうしてニャ。忍者の知り合いはいないモニャ」

「だって今日おかしいもの。気味の悪いおしゃべりネコと、屋根の上を走る女よ。そんなのを同時に見て、両者が無関係とは思えないんだけど」

 もしくは私の頭が完全に狂ってしまったかね、とツバメは言った。

「まあ、君目線でいえばそうなるかもしれニャいけど。変なものでひとくくりにされても困るモニャ」

 ツバメの疑わしげな視線に向けて、気味の悪いおしゃべりネコは返した。

「それにキミはいたって正常ニャ。繰り返すけれど、ボクは君の幻覚なんかじゃないモニャから」

「幻覚に限ってそういうこと言うのよ」

「そんな、あるあるみたいに言われても。わかったニャ、君がそこまで言うなら、そろそろ自己紹介するニャ」

 ネコは胸を張る。

 胴体が丸いので定かではないが、とにかく腰のあたりに前足を置き、ネコは名乗りを上げた。

「ボクはネコの妖精、ウィスカーだモニャ!」


 夜道に沈黙がおとずれた。

 街灯がペペペと点滅する。

「で、君に似合う付けヒゲについてニャんだけど」

 ネコはスーツケースをあさり出す。

「止まりなさい! 何よ、妖精って。あぁそうでしたか、とはならないから。またすぐヒゲの話するし」

 ツバメは手のひらで制した。

 妖精と付けヒゲになんの関連があるのかがわからないし、かと言って詳しく知りたくもなかった。

 ネコ妖精ことウィスカーは、拝むように前足をすり合わせて言った。

「細かい話はまた今度にするとして。実はとても焦っているモニャ。一刻も早く、顔にヒゲを付けてくれる少女を探さなくてはならない状況ニャもんだから」

「どんな状況よ、それ。だから私はヒゲなんかいらないんだって。他あたって」

 ツバメは冷たく言い放ったが、ウィスカーはなおも食い下がる。

「お願いだから試着だけでも。正直まともに会話ができたのは君が初めてニャ。ボクが話し掛けるとみんな逃げてしまうモニャ」

 そりゃそうだろう、とツバメは思った。

 ツバメだって逃げたかったが、タイミングを外しただけである。

「しつこい! 2度と出てこないで。私を日常へ返して」

 ツバメが通学カバンとバイオリンケースを拾い上げ、家に帰ろうとすると、ウィスカーはその脚にしがみ付いてきた。

「離して! 気持ち悪いんだってば」

 ツバメは脚をブンブン振るが、ネコも相当の粘りを見せてくる。

「離さないニャ!この世界の運命がボクにかかってるニャ!ボクには絶対に仲間が必要なんだモニャ!」

「わけわかんないし!私宿題あるの!」

「ボクの目はたしかだモニャ!君には素質があるニャ!」

「は!な!せ!」


 気が付けば、取っ組み合いに発展していた。

 まさかネコとケンカをする日がくるとは。

 ウィスカーの顎をつねりながら、ツバメはそう思った。

 そのとき。

 夜道に「くるみ割り人形」のメロディが流れた。

「何の音ニャ?」

 物音を気にするタチなのか、またウィスカーは顔を上げ、耳を立てる。

 それはツバメのスマートフォンが着信を知らせる音だった。


 ウィスカーから手を離し、ツバメは制服のポケットを探る。スマホを取り出すと、光る画面には小岩加代の名前が表示されていた。

「ニャんだ、電話か。どうぞニャ」

 ウィスカーが言うので、ツバメはスマホを耳に当て、

「なに?」

と、実に不機嫌そうに電話に出た。

 八つ当たりである。

 加代はヒゲ売りネコの噂をツバメに教えたが、それと今の状況は関係がない。


「ツバメちゃん、モノモース見た?」

 何も知らない加代の声が聞こえてくる。

「見てない。ていうか、やってない」

「うそ⁉︎」

 モノモースとは、ウェブ上に短文や画像を投稿し、他者と共有できるサービス、つまりSNSの1つである。

 投稿の手軽さから人気が高く、多くの若者が利用していた。

「あのね、大変だよ!怪盗アリスがまた出たらしいの」

 加代は上ずった声音で言った。テレビやネットニュースでは飽き足らず、SNSで検索してまでアリスの動向を調べているらしい。


「おめでとう、じゃあね」

 ツバメが通話を切ろうとすると、電話の向こうで加代が叫んだ。

「ちょーっ!待って待って。ツバメちゃんにも関係あるんだから。今度はこの町に現れたらしいの」

 この町というとW町のことだろうか。

 それなら少し驚くけれど、だとして私には関係ない。ツバメはそう思ったが、続く加代の言葉に心臓が跳ね上がる。

「久留木記念館から、バイオリンが盗まれたんだって」

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