その2
怪盗アリスとは、近頃うわさの大泥棒である。
宝石店や美術館に侵入しては、厳重な警備を掻い潜り、目的の宝を盗み出すという。
報道によれば、最初の犯行とされる2年前から今日までで、その被害総額はすでに数十億円にものぼるとされていた。
犯行現場には決まって「アリス」とサインの入ったカードがあり、目撃証言からその姿は、青いドレスに白のエプロン、長い金髪であるとのことである。
小説やマンガに出てくるような姿とおこないから、新聞やワイドショーはその泥棒を怪盗アリスと呼ぶようになったわけだ。
昨日の犯行現場である美術館は、W町から遠く離れた首都Tのオフィス街にあった。
ツバメ達とはまるで縁のない話である。
「ああ、怪盗アリスね。早く捕まればいいのに。けど別に私たちが怖がることじゃないでしょ」
ツバメはその手の話題に興味がないので、反応も実にそっけない。
「でも、もしうちに来たらどうしよう」
加代は言った。
しかしセリフとは違って、彼女の口調は見知らぬ怪盗に思いを馳せるようだった。
加代は怪盗や魔法使い、悪戯好きの妖精、巨大なドラゴンなどといったものが出てくる物語をよく読む。ファンタジーの中にしかいないような大泥棒が現実の世界に現れたとなれば、ロマンを感じずにはいられないのだろう。
「来ないよ。あんたんちに盗られるような物ないじゃん」
加代を現実に引き戻すツバメ。
「ひどい。うちにはすごく高い掛け軸があるって、おばあちゃんが言ってたもん」
「来ないよ」
にべもないツバメに加代は、「えぇー」と残念そうな声を出した。
ツバメの眉毛がつり上がる。
「えぇー、じゃない。あんた、そのコソ泥と友達にでもなりたいわけ?アリスは犯罪者なのよ。お話の中のかっこいい義賊とは違うの。メルヘンと現実の区別つけなよ」
加代が口を尖らせる。
「ついてるもん」
「ついてない。加代、この前も言ってたよね。この辺りに喋るネコがいるとか何とか」
ツバメがまた怒り出したので、加代はのけ反る。
「違うよ。あれは私発信じゃなくって、人から聞いた噂だもん」
「あんた発信だったら、メガネ叩き割ってるわよ」
「だけど、すごくまことしやかな話なんだよ。ナナちゃんから聞いたんだけど、ナナちゃんの友達のお姉さんが、本当に見たんだって」
ナナちゃんは、加代の家の近所に住む子で、幼稚園の年小さんである。
「夕暮れ時にいきなりネコが話し掛けてきて、付けヒゲを買わされそうになったんだって。急いで逃げたから助かったそうだけど」
加代の真剣な顔を見て、ツバメは呆気に取られた。
「私たちもう中学生なのよ。なんなの、その噂。付けヒゲって意味わかんないし。今までに何回も言ってるけど、この世には言葉を喋る動物も、半透明の妖精もいない!」
そう言ったところで、分かれ道に来た。
「じゃあ、私はこの後英会話があるから。バイバイ」
ツバメは手を振った。
「ツバメちゃんは忙しいなあ。英語もやってるなんて」
加代が感心して言うと、
「立派な指揮者になるためよ」
ツバメは慣れた口調でそう返した。
紺野ツバメの夢は指揮者になることである。
幼い頃に父と観に行ったクラシックのコンサートに感動して以来、その夢は今日まで変わっていない。
6歳児の狭い世界、その壁をオーケストラに打ち壊された衝撃は今でもはっきり覚えている。
照明を受けキラキラ光る何種類もの楽器が、主張し合い、また調和し、ツバメの小さな身体を障子紙のように震わせた。
バラバラの形をした楽器が1つの美しいメロディを作ることに彼女は驚き、それがオーケストラの前に立つ、細い棒を持った男の仕業であると知り更に驚いた。
その日の帰り道、ツバメは父に言った。
「私もあんな風に沢山の人を操ってみたい」
集められた演奏家たちを棒一本で支配し、音楽を奏でさせている。幼い彼女の目に、指揮者はそう映っていたのだ。
娘の将来が不安になるような発言だったが、父親は笑って応えた。
「なれるさ。いっぱい勉強したらね。あの指揮者はね、実はW町出身なんだ。だから毎年、あの市民ホールでコンサートを開いているんだよ。こんな小さな町からだって、努力すればいつか世界中へ羽ばたいていけるのさ」
「あの人はすごい!パパはずっとここに住んでるのに」
うなだれる父をよそに、ツバメは指揮者という職業を目指すことに決めた。
それから2年後、W町出身の指揮者は事故で亡くなってしまったため、ツバメがじかに彼を見たのはそれっきりである。それでも彼の揺れるモジャモジャ頭と、両端をクルリと巻いた独特の口ヒゲは、ツバメの目に焼き付いたままである。
さて、英会話の稽古を終えたツバメが塾を出たのは午後8時を回った頃だった。
夜の住宅街は人気がなく、等間隔に立つ街灯が、ツバメの影を引き延ばしてはまた縮めていく。
あと角をいくつか曲がれば家に着く。
夕食を食べ風呂に入って9時半、その後宿題と音楽の自主勉強を済ませば11時にはベッドに入れる。
クラシックを聴きながら眠りに落ちる瞬間が、ツバメの一番幸せなときである。
早く帰ろうと思わず小走りになったとき、ツバメは背後から突然声を掛けられた。
「こんばんは、かわいいお嬢さん」
誘拐魔めいた言葉に驚いて振り返るも、ツバメの視界には誰もいない。
しかし目を凝らし周囲を伺うと、やがて妙なものを発見した。
それは道の脇、ブロック塀の上に立っていた。
暗くてよく見えないのだが、何やら小さい。人間で言えば赤ん坊くらいの背丈である。
私に話しかけてきたのはこいつか?
ツバメは恐ろしくなり後ずさる。
「ちょっと待って。逃げないで欲しいモニャ」
何者かがまた喋った。
そうして、塀の上から地面に飛び降りると、街灯の下に歩いて出てきた。
「ネコ⁉︎」
それはネコのような生き物だった。
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