『死《シ》』話「夜の小道とかぐや姫」
「『夜の七時頃。夜もだいぶ更け、周りに人影はない。
放課後遅くまで残っていた女生徒が誰もいない学校前の道を歩いていた。街灯もあまりなくときどき聞こえてくる風鳴りに怯えながら暗い道を歩いていた女生徒だったが、丁字路を曲がろうとしたとき、急に体が動かなくなってしまった。彼女は何が起こったのかと必死に動こうとするが、何か体が細い糸にでも縛り付けられたかのように指一本動かせなかった。そして首筋に何か気配がしたかと思うと、女の人の声で、〝あなたの名前は?〟と耳元の囁く声がした。彼女は恐怖に顔が引きつり、少し泣き声になりながらも自分の名前を言うと、〝また違った〟と声がして体がまた動くようになった。彼女は急いで家に帰り食事も取らずに自分の部屋のベッドに潜り込むと、そのままろくに眠ることもできずに朝が来た。
その女生徒は眠気を覚ますため、顔を洗いに洗面台へと向かった。そして、ふと鏡を見ると、彼女の体中に自分のモノではない長い黒髪が巻き付いていた』
……ってことだったけど。それって二人で行っても同じように金縛りに遭うのか」
時刻は七時少し前。私たちは例の丁字路で噂の霊を捜していた。
静妃先輩が言うにはその噂の丁字路の霊というのは萌葱高校の女生徒だったらしく、なぜかつい最近になってそんな噂が流れ始めたのだと言う。でもそれだけならどこにでもあるただの怪談話だ。その話で重要なのは、話の最後に出てきた長い黒髪だった。
その丁字路に出る幽霊が金縛りに使っている黒い髪の毛は霊の作り出した、肉体を縛ることができる物質であるらしい。それなら十分、さっちゃんの霊体と肉体を繋ぎ止めるだけのモノにもなるだろう、とのことみたいだ。
「いやぁ金縛りを髪の毛でやるだなんて、いかにも幽霊って感じだよな。やっぱりその金縛りを破るのには鋏でも持っていればいいのかな。どうだろ里子、どう思う?」
「………………」
「……なあ、里子。さっきからずっと話し掛けているってのに全然会話してくれないけどさ。もしかしてまた気付かないうちに、何か気に触ることでも言ってたのかな?」
「……別に、何も」
これは本当だ。さっちゃんは気に触るようなことはしていないし、言ってもいない。
……ただ私の気に障ることをされただけだ。
◆ ◆
ほんの三時間ほど前。
二人はまだ学校のオカ研の部室でお茶を飲みながらゆっくりとしていた。
静妃さんからその仕事の内容を聞いて、さあ私達もさっそくその現場に行こうかというときにあの細目の仕え魔、もとい副部長である泉さんがさっちゃんに「友好の印です」とかなんか戯けたことを言って額にキスしたのだ。私がその近くにいるというのにまるで気にした風でもなく。まったく気にせずやってのけたのだ。
そうだというのにさっちゃんは何もなかったように平然としているし、こうやってひとりで勝手に腹を立ててる私が馬鹿みたいじゃないか。それにしてもあの隠れ巨乳の糸目セレブめ。よくも私の大事なさっちゃんにキスしてくれたな! 絶対に仕返ししてやる。
そういえば病院でベッドに寝ているさっちゃんの唇にキスをしてみせたときにさっちゃんが、ああファーストキスが、僕のファーストキスが、……ってぶつぶつ呟きながら顔を抑えていたけど、もしかしてあれがファーストキスだったと思っているってことかな。
やっぱりさっちゃんはあの時の事を覚えてないのかなぁ……。
里子は十二年前のことを思い出していた。
場所は緑の多い片田舎。それはこの町に引っ越してくる少し前の話だ。
その頃から私達は仲がよく、そのときはまだ神楽ちゃんも産まれたばかりでちっちゃかったのでいつも二人で遊んでいた。
そしてその多くは、さっちゃんが私の家に遊びに来てうちの広い庭やあまり深くない裏山を走り回ったりしていた。夏には虫を捕ったり木の実を採ったり、動物を追いかけたり。冬にはかまくら作りや雪合戦と二人で随分とやんちゃに遊んでいた。
そして、それがあったのはまるで太陽がそらに二つあるんじゃないかと思わされるような、とても暑いある夏の日のことだった。
その日私達二人は、裏山の頂上にある大きな木の木陰の中でお互いに唇を奪い合った。……つまり、二人で初めてのキスをした。その頃はまだ二人とも幼くてキスをする意味なんてよくわかっていなかったけど、好きな人同士がすると言う知識はあった。
長いキスを終えると、お互いに顔を合わせながら笑った。
それから私達は裏山に面した裏庭にある軒先の小さな日陰で涼んでいたお母さんのもとへと、仲よく二人で手を繋いで駆け下りていった。
『そうして並んでいると、二人はまるで姉妹みたいだねぇ』
お母さんは自分の隣に仲良く腰掛ける私たちによくそう言った。
縁側にはよく冷やされたスイカが三角に切って置かれていた。
勿論私達の片手にも一つずつ小さく切られたスイカが握られている。……いや、私のはいたというのが正解だ。持っていたスイカはすべてきれいに中身を食べられて今は皮だけになってしまっている。さっちゃんはまだゆっくりとスイカをかじっている。
『わたしたちはシマイじゃないよ。わたしたちはフーフになるんだよぉ』
私は頬を大きく膨らませて、よく回らない舌でお母さんにそう言った。
そして隣で静かに座っている彼を思いきり抱きしめて、
『シマイなんかじゃないもん。わたしはだいすきなさっちゃんとフーフになるんだから』
頬にキスをした。
『そう、それじゃあ。りっちゃんはさっちゃんのところにお嫁に行くんだね』
りっちゃんというのは、私が小さい頃にさっちゃんに呼ばれてた名前だ。本当はサトコって読むのに、さっちゃんが読み方を間違えてリコちゃんって呼ぶようになったからりっちゃん。お母さんもそれに合わせて私たちのことをそうやって呼ぶ。
『ううん、ちがうの。さっちゃんにおヨメにきてもらうんだよ』
『でもさっちゃんは男の子だよ。男の子はお嫁さんにはなれないんだよ』
お母さんは私が抱きしめているさっちゃんを見て、少し困った顔をして言った。だけど私はそんなお母さんの顔を見ても自分の考えを曲げたりはしなかった。
『さっちゃんはかわいいからわたしのおヨメさんでいいのぉ』
『……それじゃあ、さっちゃんはどう? りっちゃんのところにお嫁に来たい?』
お母さんはさっちゃんに何かの期待を込めて視線を送ってきた。だけどいつものんびりしているさっちゃんに、その視線が訴えかけている意味なんて読み取れるわけがなかった。
『うん、ぼくはりっちゃんのおヨメさんになりたい。こんなにつよくてかっこよくてきれいなりっちゃんのおよめさんになれるんだから、ぼくはとってもしあわせだよ。だからこれからもずっといっしょにいようね、りっちゃん』
『うん、ふたりでずっとしあわせになろうね、さっちゃん』
そして呆れる母親を横目に、また強くぎゅっと抱きしめてキスをした。
……思えば私って、昔はかなりのキス魔だったんだ。
でもそんな私達も、中学に上がる頃には昔みたいに仲よくはできなくなっていた。
いつからなのかわからないけど、もう昔の名前で呼び合うこともなくなってしまった。でもすれ違うことは何度も合ったけど、二人は決して離れることはなかった。
それから一度さっちゃんが高校進学に向けて遠くの町へ家族で引っ越しをすることになり、離れ離れになりそうなことがあったけど。そんな障害を乗り越え、こうして私達は保育園からの幼馴染の腐れ縁という仲から、いつの間にか赤い糸の結ぶ恋仲へと変わっていくのだった、……ってなるはずだったのに。
……許すまじ、あの隠れ巨乳の糸目セレブ。
さっちゃんのあの柔肌は私のものだ。誰にも渡さない、何人たりとも触れさせはしない。
L・O・V・E ラヴリーさっちゃん! さっちゃんの
実はロリコン、ロリショタ大好きな里子、いやロリ子なのであった。
……まあ、だいぶ気合い入っているみたいですが、そのロリ子の出す憎しみや野望とも違う黒いオーラの様子を見て、当のさっちゃんはかなり震えてしまっているんですけど。
「……バカ」
「何か言った?」
「おバカ」
「……おバカって、何でさ」
「この大バカ」
「何でいきなり大バカなんて言われてんの」
「黙れ、このバカ王」
「大バカじゃなくバカ王に変わってる!」
「このキングオブ・バカ野郎がぁ!」
「ついにバカの中のバカにまで格上げ。いや、格下げ? されたぞ。どういうことだ!」
「……わからないならいい」
っていうか、これはわかったほうがすごいよね。
「……?」
もちろんさっちゃんの頭の上には疑問符がぷかぷかと浮かんでいる。
「……さて、そろそろ七時。もうすぐ例の丁字路だ。でも、またかという感じだけどあそこの丁字路って下校するときにアイツと分かれる場所だよなぁ、って……うわあっとと!」
さっちゃんが首を傾げて何か呟いていると、何もない所で急にこけそうになった。
「ちょっとさっちゃん、大丈夫!」
と口では言っているが、内心では。
よっしゃ、チャンスだ! このまま二人でもつれ合って倒れれば、偶然の事故を装い思いきりさっちゃんを抱きしめられる。と思っていたりする。さあ、私の胸に飛び込んできて!
さっちゃんの方に手を伸ばし、もう少しで里子の手が届く。
――しかし。
「…………? ……っ! 体が動かない。……まさか、これが例の金縛り」
「……どうやらそうみたいだね。こんな情けない格好で金縛りに遭ったのって、たぶん僕らが初めてなんじゃないかな。これが他人事だったらぜひとも写真に撮っておきたいね」
夜七時丁度に、ひとりは後ろへ倒れる途中に前に足を投げ出し、上体を反らせて片足立ち。もうひとりはその後ろで、片手を前に伸ばし、上体を倒して後ろに足を出してY字バランス。という、不安定極まりない格好であった。そして、金縛りに遭い固まっているその二人の姿はまるで一つのモニュメント。公園や学校に飾ってありそうな銅像のようであった。
◆ ◆
……しかし、よりによってこける途中なんかに金縛りに遭ってしまうとは、運が悪い。……そして何よりも、格好悪い。妙な格好でバランスをとっているから軽く、気持ち悪い。三つの悪いことが重なっている今は当に最悪の状況だった。
僕は時計を見ながら歩いていたせいか、時間通りに金縛りが起こったこと自体には別段驚くことはなかった。でも、静妃先輩の言っていた怪談の出る丁字路が近所どころかいつも通学路に使っていた場所だとは思わなかったので驚いた。そして足を何かに躓き、こけてしまった。
でも、この僕が何かに躓いてこけるなんてことがあるのだろうか。
『……あなたの名前はなんですか』
いきなり耳元で囁かれた。
「…………っく!」何とか目線だけで、声のしている方を見た。
そこには道路に広がるくらい長い黒髪を垂らした女の子が立っていた。
その子は『名前は?』と首を左に傾げながら尋ねてくる。結構可愛い顔をしていた。
もっとも、彼女の後ろに漂っている海中に漂うワカメのようにして空中に浮いている髪の毛が見えていなければの話ではあるが。陸上で水死体もどきを見るとは思っていなかった。
だけど僕は、名前は何ですかと訊かれたら、答えてあげるが世の情け。愛と真実の悪を貫くラヴリーチャーミーな敵役、……ではなくともしっかりと答えることにした。そもそも、静妃先輩の話だと名前を名乗らなければ解放してもらえないらしかったし。
「……はじめまして、こんばんは。僕の名前は伊澄榊。ここの近くにある萌葱高校に通う一年。血液型はB型、誕生日は四月一日、エイプリルフールの生まれだけど嘘はあまり好きってほどでもない。好きなものは特になし、嫌いなものも今のところなし。それじゃあ、よろしく」
名前だけじゃなく自己紹介もしてしまった。
『…………イズミサカキ……』
見ると、女の子は急に表情を硬くすると僕の名前をもう一度呟くようにいった。
「そう、僕の名前は伊澄榊。……どうしたの顔色悪いけど」
幽霊に対して顔色が悪いも何もないけれど、つい訊いてしまった。
彼女は顔を下に向けて、『…………やっと、見つけた……』と小さな声で呟いた。
聞き耳を立てていたわけじゃなかったが、耳元での声なので自然と耳に入って来た。けど、これはあの話に出てきた台詞と違う。……もしかして当たりを引いてしまったのか。
「見つけたって何のこ……っうぐ!」
『やっと、やっと見つけた! ……どうして。どうして、私を殺したぁ!』
彼女は急に顔を上げると、叫びながら僕の首に腕を伸ばしてきた。
一瞬で僕は空中に磔にされ、首を彼女の長い黒髪とその白い腕で絞められていた。
「……ぐ、かっ」
違う、彼女は僕の首を絞めようとはしているわけではない。このまま首の骨を砕こうとしているのだ。気管を絞めるのでもなく、また動脈を止めるのでもなく、頚椎を破壊してこの僕を殺そうとしている。
でもその手に力は入れられてはなく、ただ首にそえられているだけだ。
彼女はその髪だけで僕を宙に浮かし、首を締め付けている。今の体に重さなんてないのかもしれないが、それでも彼女自身も含めて二人分の人間を浮かし、僕の体を縛り付けている。
……これなら確かに静妃先輩が言った通りに使えるはずだ。
これだけ見えないくらいに細くて丈夫なら、僕の霊と体を繋ぎ止めるぐらいは楽勝だろう。こんな形ではあったが今求めているモノの実用性が分かってよかったと思う。
こんな風に考えているうちは気楽な方だろう。
「…………かっ、がはっ……」
……でもこれはさすがにやばいかもしれない。
気管や循環器系を止められる分には元から呼吸や拍動などはしてないので、いくら絞められたところで平気だが。この骨や筋肉など霊的な体を壊された場合に、それを治せるかどうかはまったく分からないのだ。
怪我をして治療するにも傷口を切ったり縫ったりできない。包帯も巻けないし、注射も打てない。人工物である道具が僕の体に触れられないのだから医療行為などやりようがないのだ。それよりも幽霊を治療するような奇特な医者がいるのかも分からない。
すでに死んでいるはずの幽霊が死んだらどうなってしまうのだろう。
死んだ時点でこの世にいられないのだから、今死んだらたぶんあの世にもいられなくなってしまうのだろう。だからそのときに向かう先は死ではなく、消滅。この世からもあの世からもいなくなってしまうということなのだろう。
……それなのに。
これだけ苦しんでいるというのに、死にそうだというのに、消滅してしまいそうだというのに僕は。今僕の首を砕いて絞め殺そうとしている彼女のことをまるで恨むことが、憎むことが出来ない。そんな気持ちがまったく湧いてこない。
いや、この僕に憎むことが出来るはずがないのだ。
『……何で、何でなの。私は、ただ帰り道に歩いていただけ、なのに……』
彼女は泣いていた。
僕を殺そうとしながら悲しそうに、そして苦しそうに泣いていた。
彼女は幽霊になるほど相手を、彼女が言うにはこの僕を憎んでいた。たぶんこの彼女は僕を見つけるまで何度も、そして何人もここを通る人に名前を尋ねてきたんだろう。今日僕に会うまでずっとひとりでその相手を待ち続けてきたんだ。
だけど僕にそんな強い意志はない。僕を待ち続けてきた彼女の遺志を否定できるだけの意志はなかった。僕は変わらない日常の中でただ生きているだけ。ただ過ぎていく時の中で生きていただけの僕に何かの意志はなく、意思もなかった。
このまま殺されてもいいかもしれない、それで彼女が苦しみから解放されるのなら。
僕の日常がこうやって誰かのために終わるのもまたいいかもしれない。
壊れた僕の日常がこうして誰かの役に立つのならそれでいいのかもしれない。
そう思い始めたとき後ろから声がした。
その声は気の強い、いつも隣で聞いていた声だった。
「…………その手を、放しやがれぇー!」
里子の回し蹴りがその女の子の頭へと炸裂し、僕は髪の毛の拘束から開放された。
……そうか。里子も僕と一緒に髪の毛で縛られているってことは、僕の体が髪の毛を通して里子に触れているのと同じってことになるのか。だから里子はこうやって僕を助けに来れた。
里子は地面に着地するやいなや。僕の方へと駆け寄り、今度は僕をさっき以上の勢いで蹴り倒した。そして僕が地面へ倒れる前に襟元を掴みこう言った。
「このバカッ! さっちゃんはこのまま勘違いで殺されていいの。それで彼女は本当に救われるとでも思ってるの? そんな訳ないでしょうが! このまま何もせずに殺されたって、それは犬死にどころかただの無駄死にだよ。人の死が人を救えるだなんてふざけたこと思わないで。人を救うのはいつだって生きている人なんだよ。死を格好いいことだなんて思うな!」
そして言葉を区切って。
「あんたは生きてるだろ!」
そうこの僕に言った。呼吸も、拍動もしていないこの僕を生きているだろうと言ってくれた。
「……死んでないってだけだけどね」
苦し紛れに茶化してみたが、それからもう一度腹を蹴られた。
……ありがとう。これは彼女が蹴ってくれたことに対するお礼だけど。そういう趣味がある訳ではない。揺れ動いていた僕を止めてくれたことに対するお礼だ。
「……ありがとう」だからしっかり声に出して彼女にこの気持ちを伝えておく。
「…………え、何? 実はそういう趣味があったの」
里子は少し引いていた。
……彼女に感謝の気持ちはほんの少しも届かなかった。
声に出しても伝わらない気持ちがある。だが声に出すことで伝わらなくなる言葉もあるってことだろうか。あのとき伝え切れなくて伝えなかった言葉は、やっぱりあのときに伝えなくて正解だったのかもしれない。
「……空気読めないって、言われたことない?」
「気流だったらある程度読めるけど」
それはすごいな、聞いたことと意味は違うけど。……でも今はその話じゃない。
僕は立ち上がり、里子と後ろに倒れてのびてしまっている彼女を見つめた。
◆ ◆
やっとするのかという感じになるが。僕の幼馴染みの交路里子について紹介しておきたい。
交路里子は僕と同じ萌葱学園に通う一年生でずっと同じクラスだ。(ウチの高校にクラス替えというものがないので、保育園から数えても違うクラスになったことがない)部活は何度か他の部活から勧誘が来たことがあったが、僕と同じでこれといってどの部にも所属していない。つまり帰宅部だ。
成績はわりと優秀、学年でもトップクラスだ。だがその代わりということなのか運動神経がとてつもなく鈍い。小さな頃は一緒に野山を駆け回ったほどだったし運動神経はもともと悪くはないはずだがいつから悪くなってしまったのだろう。今では何もないところで右足が左足に引っ掛かってこけてしまうくらいに鈍い。だけど彼女はとてつもなく強い。
……最近では漫画でですら見ることのないほどの究極の鈍さだというのに、里子は家に代々受け継がれている
ドジっ娘アピール? ……んなアホな。
僕はまだ気絶している女の子の手をしっかり掴み、どこかに逃げないようにした。 このことに里子は何故か反対したが、僕じゃないとこれは出来ないのでどうにか了承してもらった。
「……あの、あなた達は一体何者なんですか」
目が覚めた彼女は驚き、案の定逃げようとしたが。僕がこうしてその手を握っている以上、彼女は実体化しているのであっさりと里子に捕まった。このとき、僕は情けないことに彼女に引きずられて連れて行かれそうになっていた。……重石の役にすらならなかった。
「……えーっと、こうして君を拘束しながらこれを話すってのも変なんだけど。僕達は決して怪しいものじゃないので、そんなに心配しなくてもいいですよ。……って言っても無理か」
「そんなの……。信じられるわけないじゃないですか」
これも予想通りの反応。そりゃまあ、この状況でそれを信じろって方が無理な話だ。説得力がなさ過ぎる。僕がこの状況に立たされてもそうする。……でも。
「……でも信じます。そうじゃないと話が進まないと思いますから」
「えっと、ありがとうございます。ではまず僕達の話を聞いてもらえますか」
こういう言い方はいかにも悪党っぽいけど。彼女はとても聞き分けのいい子みたいだ。
◆ ◆
僕達はまず彼女に自己紹介をして僕の体のこと、何をしにここに来たのかを伝えた。始めのうちは疑わしげに話を聞いていたが、僕のこの体のこともあるので信じてくれたようだ。
それから彼女が何者なのか。……何者だったのかを教えてもらった。
はじめは言い渋っていたが、しだいに彼女は小さい声で途切れ途切れながらも自分のことを話してくれた。……でも僕はこんなことを本来は聞くべきじゃなかったのかもしれない。もしこのとき彼女の話を聞かなければもっと別な結末が待っていたのかもしれない。
この幽霊の名前は
姫子は下校途中に通り魔のような人に殺されたのだという。
それはある日の放課後だった。
姫子は学校で遅くまで頼まれていた仕事をしていて、仕事を終え帰りの準備が済んだ頃にはすっかり辺りも暗くなり、夜道には他に誰もいなかった。家に遅くなることは伝えてあって、特に急いで家に帰る必要もなかったので星空を見ながらゆっくりと歩いて帰っていたそうだ。
しばらくそうして歩いていると、ふと後ろに誰かいるような気がして振り返ってみた。
するとそこには肩掛けタイプの小さな鞄を提げた黒い厚手のコートを着た人が立っていた。街灯が少なく周りが薄暗い上にコートの襟を立てているので顔は良く見えないけれど、体格は結構小柄で女性のようにも見えた。
姫子はまず、こんな暑い日にそんな厚いコートを着ていて暑くはないのだろうかと思った。今の季節は夏でその日は特に熱帯夜だったそうだ。それからそのコートの人が手に持っているスプレー缶に目が留まり。殺虫剤、それとも虫除けスプレーかな? と思った。そんなことを思っているとコートの人が近付いてきて顔にそのスプレーを吹きかけてきた。
とっさのことだったので彼女はその顔に吹きかけられた気体を大量に吸い込んでしまった。すると彼女は一瞬で気分が悪くなり、胃の中のものをすべて吐き出しそうになった。それから眼が燃えるように熱い、涙が次から次へとぼろぼろと零れ出てくる。いや、眼だけじゃなくて顔に直接火が点いて燃えているように熱い。
姫子は道路に倒れ込むと、顔を両手で抑えながら悶えた。そして声にならない悲鳴を上げながら苦しんでいると、コートの人が再びスプレーを吹きかけようとしてきた。
殺される! 姫子は歯を喰いしばって立ち上がると、すぐ前に立っているコートの人の体を両手で突き飛ばし、反対側へと走り出した。でも痛む眼から絶え間なく流れ続ける涙によって前が全然見えない。しばらく走らないうちに肩を何度も壁にぶつけ、すぐに前にあった何かにぶつかってしまう。そこは行き止まり、……いや、丁字路だった。
そして彼女はこの丁字路で彼女の短い人生を終えてしまった。でも彼女は意識を失う間際にコートの人が提げていた鞄についていたイズミサカキとローマ字で彫られた金属のプレートのことを覚えていたということらしい。
◆ ◆
その話を聞いて僕はつい三時間前のことを思い出していた。
「――という噂があるんだが。この話、使えそうじゃないかい」
「そうですね。使うのが髪の毛だったら体の一部ですし、縛り付けることもできると思います。それに子供とはいえ人、一人を動けなくさせられるほどの丈夫な髪だったらそう切れる心配はしなくていいでしょうからね。……それにしても、怪談ってのは何でもありなんですかね」
「いやいや、怪談だからってわけでもないぞ。元々髪の毛というのは意外と丈夫にできているものだしな。それに京都の東本願寺の伝説には、堂を建てる建材を持ち上げる丈夫な綱がないから信者の女性たちの髪で作った毛綱で建材を持ち上げたそうだ。それが御影堂だったかな。まあ、世の中には自分の長い髪で相手の首を縛って殺す暗殺者もいるしな。私の知り合いにもそれと似たように自分の髪の毛で首を絞めて気絶する奴がいるよ。それに〝女の髪は命〟とも言うし、〝髪〟と〝神〟が係っているから暗示的には好都合だろう」
貴女の知り合いには気絶させる人じゃなくて気絶する人がいるんですか。何を考えて自分の首を絞めようとするのだろう。……さすがは静妃先輩の知り合いだ。
「……ところでその噂って本当なんですか。違っていたら何の意味もないですけど」
静妃先輩はカップを手に取り一口飲んで、もう一口飲んでから口を開いた。
「私にわかるはずないだろう。噂はあくまで噂だ」
妙に期待と間を持たせておいて言うのは結局それですか。それじゃあ結局、打つ手がないのと同じことじゃないですか。中学生が話す学校の怪談レベルですよ。
「噂はあくまで噂だが、怪談はどこまでも怪談だ。甘く見ちゃ駄目だ」
静妃先輩は急に真剣な、どちらかと言うと
「学校の怪談と言われているものはウチの学校にも勿論ある。何と言っても学校創立当初から未だに制服のデザインが変わらないほど歴史と伝統のある名門萌葱高校だからな」
それは歴史の深さを褒めているのか、伝統を引きずっていることを非難しているのか。
どちらにせよそれくらいなら他の高校にも当てはまる程度の歴史や伝統だろう。
「へぇ……。例えばどんな怪談があるんですか」
「うん、まあ色々とあるな。何て言ってもこの萌葱高校の怪談は普通の学校の怪談と違って、七不思議じゃなくて十三不思議もあるからな。ありきたりな他の学校にもある怪談は飛ばしてうちの高校独特の有名な怪談を挙げるなら〝図書館の観夜子さん〟とか〝中庭のガーゴイル〟とかがある程度有名かな。それから加えるならあと〝竹林の舌切雀〟ってところか」
「僕もガーゴイルと舌切雀って怪談は聞いたことがありますけど。でもその御夜子さんってのはさっき話を聞くまで知りませんでしたよ。……そういえば、さっきした帰り道の金縛りの話は学校の十三不思議の一つじゃないんですか」
「それが噂と怪談の違いってやつだよ。確かに怪談は噂から発生する。けどそれがただの噂というだけじゃ怪談にはならない。少なくとも学校の怪談レベルにはな。……でも実は噂が怪談になるのに必要な条件はとても単純で、それでいて困難だ」
「単純で困難?」
それはまたどういうことなんだ。
「噂話が怪談話になるためにはその噂を誰でも知っていて、でもその噂話の発生源が誰なのかわからなくならなくちゃいけないんだ。怪談話って対外そういう作りになってるだろ。ほら、『この話は友達の知り合いから聞いた話なんだけど』ってやつ。その友達の知り合いってどこの誰なのか正確にはわからないだろ。ちなみに帰り道の金縛りの噂はこの私が、発生源がどこの誰なのか知っているし、噂があまり広まらないようにある程度調節してるんだよ」
この人もそんな所で苦労しているんだな。噂を調節するってどうやってやるんだろう?
「……わかりました。ではそろそろ金縛りに遭うのにいい頃だと思うので帰らせてもらいます。今日はいきなり押しかけてしまってすみません。本当に色々とお世話になりました」
僕達は椅子から立ち上がり静妃先輩にお礼を言った。
「まあまあ、気にするな。どうせ二人ともすぐにまたお世話することになるだろうから」
静妃先輩はカップを片手に黒いソファに腰掛けたままひらひらと手を振った。……縁起でもないこと言わないで下さいよ。先輩が言うと一種の予言というか御告げみたいになりますよ。
「あら、もう帰ってしまわれるのですか。でしたら少しお待ちください」
いつから現れたのか泉さんが肩から提げた小さな鞄を探りながら近付いてきた。泉さんが鞄から取り出したのは手に軽く収まるくらい小さい、短い筒状をした銀色の物体だった。
「少し眼を瞑っていただけますでしょうか。そのほうがやりやすいので」
「ああ、はい、わかりました……」言われるがまま僕は泉さんの方に向き直って目を瞑った。
『チュッ』額のあたりに何か柔らかで暖かい感触がした。僕は残念ながらそのときの感触が何の感触だったのか全くわからなかった。……本当にわからなかったのだ。
「……えーっと、終わりましたか?」
「はい、しっかり終わりましたよ。友好の印です」
「はあそうですか、それはよかったです。……って痛い! なんですねを水面蹴りの要領で蹴ってくるんだ。しかもつま先を使って三連撃当ててくるなんて、物理法則を無視するな!」
「…………うっさい。さっさと行くよ」
里子はそう言って僕の腕に関節技を決めながらオカ研の部室から出て行った。
これだと一緒に動くたびに腕が折れそうになる。そして部室棟から出ると、彼女は関節技を解き僕の額を手でごしごしと擦った。擦られすぎて額がひりひりする。よく見ればと里子の手も擦ったせいか少し赤くなっている。でも彼女の手をよく見てみるとそれは擦れて赤くなっているわけじゃなく、彼女のは赤色の絵の具がついているようだった。……いつ付いたんだ?
それから再び腕に決められた関節技を解くどころか緩めることも出来ず、ただ荷物のように引きずられていくだけだった。男の威厳なんてものは微塵もありはしない。
◆ ◆
静妃先輩の御告げの通り、僕達は二人で再びオカ研の部室を訪れることとなった。いや、正確にいうのなら三人。人間の里子と半人間である半幽霊の僕、幽霊の姫子の計三人だが。
「…………はいっ、どちらさまでしょうか。静妃部長に用事があるのでしたらなら、今彼女は席を外していますが。……あれ、さっちゃん。遊びに来てくれたの?」
パタパタとスリッパの音をさせながら、泉さんは僕達を招きいれてくれた。
「いえ、今回は坂木泉先輩に用があってきました。でも遊びに来たわけではありません」
「あは、それは少し残念。それで私に用事? 何かしら」
「先輩に見せたいもの。……いえ、会わせたい人がいるんです」
僕と里子は並んでいた間を開けて、姫子を見えるようにした。
「私にはお二人以外にどなたかいらっしゃるようには見えないですけど」
だが泉さんは首を傾げるだけだった。彼女は幽霊を見れる人ではなかったらしい。
「……ああそういうことですか、どうぞ中に入って下さい。どなたも見ていらしゃらないとは思いますけど。何もないところに急に人が現れるところを見られたりしたら大変ですからね」
しかし何だかんだ言っても、泉先輩は頭の廻る人のようだった。
「……それで、私に会わせたい人とはどなたですか」
昨日静妃先輩と座っていた黒いソファに泉さんが座り、僕達は昨日と同じ椅子に座った。
僕は里子の方を、正確には僕と里子の座る間に立っている彼女の方を向いて目配せをした。彼女はしっかりとうなずいた。それを確認してから口を開いた。
「…………その前に一つ質問してもいいですか」
「どうぞ、私に答えられる質問でしたらお答えしますが」
泉先輩は相変わらず見えているのかよくわからない細い目でこちらを向いている。何を考えているか読めない。目を見ることで相手の考えが読めるというが、相手の目が見えないと考えも読めなくなるとは思わなかった。
「籠谷姫子という女子のことを知っていますか」
「籠谷、……姫子。いえ、知らないわ。籠谷って名字の方はどこかで聞いたことがあるような気もするけど、やっぱりそんな名前の子は知らないわ」
動揺も何もその顔には見られなかった。
本当に知らないのか、それともそう見せているだけなのか。僕にはわからない。
「……では、この娘のことは知っていますか」
僕は彼女の、僕の隣に立っていた姫子の手を握り、彼女を泉先輩に見せた。
彼女は緊張した様子だったがしっかりと前を、前にいる先輩の方を見ていた。
「………………」
「…………あっ、ああ、そんな、何で」
泉先輩はその細かった目を大きく開き、明らかに驚いていた。いや、動揺していた。
「……見覚えがあるんですね、だったら彼女に――」
僕の声は途中でかき消された。
「なぜ、なぜ
黒いソファから立ち上がり、まるで自身の信仰する神の御姿を目にしたかのように抑えきれない興奮で体を小刻みに震わせていた泉先輩の声によって。
「……今度は私が二人に、いえ違いましたね。三人にどうしても会わせたい人が。……いや、見せたいものがあるので、私の家に来てもらえないでしょうか」
一様の動揺がとりあえず冷めて少し落ち着いた様子の泉先輩は、開口一番僕達にそう言ってきた。勿論僕達に断る理由はないし、何より泉さんから話を聞かなくちゃいけないので。僕達は場所を学校から泉さんの家に変えることにした。
それから僕達は学校を出てから、校門に横付けされていた坂木家専属運転手の車によって坂木家総本家へと案内された。ちなみに車は白のベンツだった。
◆ ◆
「………………………………………………………はい?」
「……………………………………………………」
『………………………………………………………』
坂木家総本家。
それはまるで、この場所だけ時代の流れから切り離されてしまったような青々とした竹林に囲まれた純和風の家屋だった。そしてこの屋敷は実際に国の重要文化財として正規登録されているらしい。……それからとにかく広い。とてつもなく広い。
敷地ではなく、家の端から端までもが見えない。
「……? どうしたのですか」
「…………いや、自分の不幸と世界の不条理さについて考えてた」
「……噂には聞いていたんだけど、まさかここまでとは思いませんでした」
『………………』
三者三様の感想を言った。いや一人はただの沈黙だったか。
「……ここはまだ玄関口なんですけど」
泉さんは困ったような顔で答えた。
「…………………………………もう何も言いません」
「……………………………………………………右に同じ」
『……………………………………………………』
一人は始めから何も言っていない。そう言えば姫子はオカ研の部室で泉さんに会ってから、一言も喋っていない。まるでそこにいないように、見えていないように。
そこから三十分ほど青々と茂った竹林の間を歩いてやっと家らしい所に着いた。と言ってもそこも十分過ぎるほど大きく、家の全体像が見えない。だがもうそれにつっ込む気力はない、僕はもうくたくただ。これがまさに気疲れってか。
だが横を見てみると二人は結構平然としていた。姫子は幽霊だからともかく、里子に疲れている様子はない。……貧弱なのは僕だけってことか。
「……ここは実は犬小屋なんです、とか言いませんよね」
「犬のためにこんな屋敷を立てるようなことはしませんよ。それに犬は飼っておりませんし」
泉先輩は立派な引き戸に手を掛け、こんな状況の中おかしそうに笑いながら開けた。すると数十人のとたとたという足音が聞こえてきて。
「「お帰りなさいませ、お嬢様」」
……出迎えられてしまった。数十人の着物を着た女中さんたちによって。
これこそいつの時代だ! 大奥ですか、大奥なんですかこれは!
「今日は珍しく遅いお帰りなのですね。……お客様が御一緒にいらっしゃいますので。さきにお客様を
その中から一番年上そうな女性が(とは言っても三十代前半くらいの若さ)泉先輩に尋ねた。
「ええ、ただいま帰りました。いえ、今日は
橋姫や浮舟って言ったら、源氏物語の巻名になぞられて部屋名がつけられているのか。……ってことは全部で五十四部屋、……いや違うな。若菜の巻を上下別にはこ鳥、諸葛と数えるとして雲隠が含まれているってことは五十五部屋あるってことか。
……平屋だとは言え、この家の広さにしてはその部屋数はまだ少ないと言える方か。
「…………雲隠ですか、かしこまりました。では皆様こちらへ」
正直に僕の感想を言おう。ここはおくつろぎできる場所なんかじゃない、緊張しまくりだ。
「……日本家屋でこんなに天井が高いのって、なんか反則だよね」
僕達が通された部屋はとにかく広かった。僕の家がまるまる入ってもなお余りあるほどのと言えば大げさだが、それほどの広さだ。バスケットの試合くらいなら余裕できるだろう。……まあ、床が畳なんだけど。
「……すみません、お待たせしました」
しばらく里子と一緒に放心状態になって過ごすうちにどうやらおくつろぎの時間が終わってしまっていたようだ。振り向くと泉さんが見えた。(と言ってもかなり向こうに見える)部屋着はただの和服のようだった。……ただのであるはずがないけど。
「……それでは話をさせて頂きます。まず始めに私は、籠谷姫子さんでしたっけ、……彼女に見覚えがあります。姫神様に会ったことがあります」
やはりそうだったか。あの様子でまったく知らないようだったら逆に変だけど。
「あの先輩、それでさっきから気になっていたんですけど。その姫神様ってのは何ですか」
「それが会わせたい。……見せたいものです」
そう言うと泉さんは部屋の端へと進み、畳の一枚を持ち上げた。すると――
――ガラガラッガラッ、ドンッ
中央の畳の列が横に開いて下へと続く階段が現れた。……この様子を見てサンダーバードの出撃シーンを思い出す僕は一昔古い思考を持っているってことなのだろうか。
「……隠し通路ですか」
「ええ。……どうぞ、この先に見せたいものがあります」
泉さんは階段の入り口の壁に掛けてあったランタンに火を点けて先に階段を下りていった。僕の目には彼女の肩に提げてある鞄が映っている。姫子が言った鞄の特徴によく似た、イズミサカキと彫られたプレートの付いた鞄。彼女は肌身離さずいつも持ち歩いている。
もし彼女が犯人だったら、そんな考えが頭をよぎる。物的証拠とは違うかもしれない、でも証人がいる。何よりも重要な証人だ。何て言ったって殺された本人なんだから。
『………………』
姫子は未だに俯いて黙っている。硬く口を閉ざして。
僕は姫子の手を強く握った。僕が触れていないと彼女は誰にも触れられない。この世に存在することが、自分の存在証明ができない。自分が確かにここにいるのだと証明できないのだ。だから僕は、僕達は彼女の代わりに彼女の証明をする。
謎を解決する探偵の真似がしたいんじゃない。
先輩から頼まれた仕事を終わらせるためでもない。
これは誰のものでもない僕の意志だ。何の意思もなく変わることのない日常に埋没しながらただ過ぎていく時を過ごしていた僕がやっと持った確固たる意志だ。
僕は彼女を救ってやる。
このふざけた日常から救い出してやる。
◆ ◆
「……地下によくこんな物を造ったものだよ」
「……なんでこんな場所があるの」
「………………」
階段を下りて鉄の重たい扉を開けてみると、そこはまるで神前。
その場所は歴史を感じさせる古い御社のような建物が建っていた。そこが神社だったのなら
「……この本殿の中です」
僕達はしっかりと封のされた木造の扉を開け、中へと入った。
……そして御神体のように中央に置かれていたものは――
「…………そ、そんな。あれは、私?」
天井に届くほど巨大な円筒形のガラスで作られた入れ物の中に浮かぶ姫子の姿だった。
その透明な液体の中で漂う彼女の姿は幻想的で魅力的、扇情的で蠱惑的。一糸纏わぬその体は汚らわしくも美しく、奇妙なまでに神妙で豪儀なまでに高貴な姿だった。
『い、い、いっぃいいいいやあっぁあああああああああああああああぁあああああああ!』
姫子は周りにあるものが壊れるんじゃないかというほどの叫び声を上げ、繋いでいた僕の手を振り払うと石畳の床に崩れた。そして嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「……何これ。これじゃあまるで標本じゃない」
里子は信じられないものをみるようにその円筒形の水槽を見ていた。僕だってこうして見ている今でも信じられない。こんな光景は現実の世界にあってはいけないものだ。
「……先輩。勿論これのことを説明して頂けるんですよね」
僕は体の奥から沸々と湧き上がってくる黒い感情を必死に抑えながら泉さんに尋ねた。
「勿論そのつもりですよ。私に全てを話させてください」
泉さんはそれから何かを吐き出すように黙々と、そして淡々と話をしてくれた。途中途中で私的な話が混ざってしまったりしたが、話をまとめるとこういうことだった。
姫神様というのはこの御社の御神体のことで、この家の守り神だという。
泉さんは七歳の誕生日に母親にこの地下室に連れて来られるまで、その姫神様と言う存在のことは知らされてなかったらしい。そしてその日水槽の中に浮かぶ御神体の姫神様にそのときに初めて会ったそうだ。そして彼女が初めて姫神様会ったとき、そこに恐ろしいという感情はなかったらしい。その姿に現実味がなかったということもあるのだろうが、彼女はただ単純にそれを綺麗だと魅入ってしまった。
それから彼女は彼女を敬い、信仰し。祈りを捧げ続けた。
そしていつも肌身離さず持ち歩いているその肩提げ鞄は誕生日に母親からもらったもので、いつもお守りのように大事に持ち歩いているのだという。
「……先輩が姫子ちゃんを殺したんですか。でも、だったら何でそんなことを!」
里子は物凄い剣幕で泉さんに詰め寄り着物の襟口を掴んだ。泉さんの息が詰まる。
「がっ! ……違う、私じゃない」
「……落ち着けよロリ子。泉さんが始めに姫子に会ったというのは七歳のとき、つまり今から十年以上前だ。だから姫子は少なくとも十年以上前にはすでに亡くなっていたということだ。……姫子はまるでそれが昨日あったかのように話していたから僕達も気付かなかったんだ」
……もっと正確にいうなら、姫子は亡くなったんじゃなくて殺されたんだけど。
それじゃあ最近学校であった連続通り魔事件は関係ないってことなのか。
『…………違う』消え入るような姫子の声がした。
「……姫子、何が違うって。まさか本当は先輩に殺されたっていうのか!」
泣き止んだのか目は赤く腫れているけど姫子はゆっくりと立ち上がり、話し始めた。
『そうじゃなくて、思い出したの。坂木さんが肩に提げている鞄は暗い褐色をしているけど、あの夜に会った黒いコートの人が提げていた鞄は明るい真っ白の鞄だった……』
◆ ◆
その頃、オカ研の部長である真堂静妃はある住宅街のマンションの前に立っていた。
外はすっかり暗くなっている。
彼女の隣には最近オカ研の事務となった新入部員、多豆留女鶴がいた。だが今回彼女は事務として、ましてやオカ研の新入部員としてこの場所に来ているわけではなかった。
「メズちゃん。お前さんの証言とすでに警察で見つけている証拠から照らし合わせてみると、ここに犯人がいるのはまず間違いない。現在近隣の学生ばかりを狙い十四人も襲った、そしてお前さんを殺した例の通り魔がこのマンションでのうのうと過ごしている。……捕まえるぞ」
『ええ、お願いします。……それからズではなく、ヅです』
通り魔に遭った被害者の中で唯一犯人の特徴をしっかりと覚えていた証人として来ていた。
犯人は未だに手掛かりらしい手掛かりを残しておらず、実際は警察が見つけた物的な証拠も犯人を特定するほどのものではなかった。彼女が犯人の身的特長と使用した凶器の特定をしていなければこのまま連続通り魔は続いていたことだろう
二人の周りには警官や刑事が続々と集まってきている。彼らには静妃が独り言を呟いているようにしか見えていないだろう。彼らに女鶴の姿は見えていない。
『それにしても覚えていないものなのですね。事件に遭った被害者の名前なんて。真堂さんに紹介されたときに気付きそうな気もしますけど、あの二人は結局気付かないままでしたね』
「多豆留女鶴なんて珍しい名前忘れるはずないと思ったんだけどな。まあ、それも仕方ないのかもしれないな。最近は人死にが多すぎるからな。誰だって嫌な出来事は忘れたがるものだ」
だがそんなことは気にせず彼女は女鶴との会話を続ける。
『でもあの二人は忘れすぎですよ』
「そうだな。あいつらは目の前のことしか、目の前のことすら見えてないのかもしれないな」
「総員配置に付きました」
集まった一人の刑事が静妃に敬礼をしつつ、そう報告する。
「……よし、話はここまでだ。それじゃあ悪党を捕らえにいこうかね」
彼女は集まった警察を指揮してマンションの出入り口を固め、自分と刑事を含めた少数精鋭で最階層にいるはずの犯人を捕まえにいく。この場の指揮はすべて彼女が執り行っていた。
『……高校生探偵なんてだいぶ使い古されたネタですね』
女鶴は声を張り上げながら大人達に指示をする彼女の姿を見て言った。
「残念、私は高校生刑事だ」
彼女は胸ポケットから桜の紋の入った黒い手帳を取り出してみせた。
『警察機関というのは、女子高校生が刑事なんて階級にいてもいいのですか』
「確かに間違え易いけれど、勘違いしちゃいけないよ。刑事って言うのは制服を着用せず私服で犯罪の捜査を行う警察官の俗称だ。だから階級は他の警官達と一緒だよ。ちなみになぜ私がこの捜査の指揮を執っているのかといえば。それは私が立案した計画だからだ」
『……ただの警官が捜査の指揮を執れるわけないじゃないですか。あなた何者なんです』
「それは秘密だ」
『………………』
「それは、ひ・み・つ」
『言い方を変えても一緒です』
片目を瞑り唇に人差し指を当てポーズを決めている静妃の一言をばっさりと切る。
「そんなことは気にするな。このことは本編と関わってこないから」
ちぇっと、さして悔しそうでもなく軽く言いながらまた前を向いて歩き出した。
『そんなぶっちゃけた話をしないでください。……もういいですよ、あなたが誰でも』
多豆留は静妃に追いつき隣に並んだ。
『そういえば榊さん達が遭いに行っている丁字路の幽霊も、私達と同じ萌校の生徒ですよね。それって誰なのかわかっているんですか?』
静妃はその問い掛けをどうでもよさそうに、月の高くあがった空を見上げながら答えた。
「ん、ああ。いちおう誰なのかはわかってるよ。あそこにいるのは――」
◆ ◆
――ギィーッ、バタンッ……
僕達は大きな音を立てて閉じた扉の方を振り返った。そこにいたのは――
「……何故この場所に客人をお連れしたのですか、泉さん」
和服姿の泉さん、……いや違う。長い黒髪を裾で真っ直ぐ切り揃えた女性。姿形は泉さんにそっくりだが。服装や髪型などの細部が違っている。彼女が身に付けているのは、まるで喪服のような黒一色の和服。何よりも、その身に纏っている雰囲気がまるで違う。そこに触れればそのまま切れてしまいそうな、極限まで研ぎ澄まされた日本刀のような気配だ。
「おや、今日は殿方もいらっしゃるのですか。……しかし、貴女の
そう言いながら彼女はこちらへどんどんと近付いてくる。
「お母様。私は今日、この姫神様と瓜二つの姿をした方をお見掛けしました。その方は自分を殺した犯人を捜しておられるそうです。名前は、籠谷姫子……ご存知、ありませんか?」
彼女はそこで立ち止まった。
明かりの近く来たのでやっと顔が見えるようになった。その顔色は少し悪かったが、親子と言うにも似すぎているほどに泉さんと瓜二つだった。だがあるパーツがまったく違っていた。
そのつり上がった両目には鈍く光る怪しい光が宿っていた。
それはまるで彼女の周りに渦巻く雰囲気のような鍛え上げられた日本刀の気配。……たぶん触れれば切れるだけでは済まない。もしも視線だけで人が殺せるのなら、僕などあっという間に切り刻まれていることだろう。
「はて、殺された方をどうしてお見掛けできたのですか?」
「榊さんが、……この方が姫子さんを私に会わせてくださったのです。いいかげん惚けないでください。お母様は姫子さんのことを知っています。それから、たぶんお母様が彼女を……」
泉さんは後半俯いて言葉を濁した。
……たぶん彼女はその後に『殺したんですよね』と続けようとしたんだろう。自分を今まで育ててきてくれた尊敬する母親にそう言おうとしていたのだろう。
「何かと思いましたらそのような些事ですか。それがどうしたのです。貴女は私が代々我が家に仕えてきた籠谷家の生き残りを葬ったという事を知った所で、どうするつもりなのですか」
だが彼女はその先を読み取って、それでもなお表情を乱さずに答える。
そこにいたのは泉さんの母親で坂木家の現当主、大企業タケトリ製薬の社長。
そして、十年前姫子を殺した犯人である
「警察に出頭して自首をして下さい。そして姫子さんのご家族に謝罪して下さい」
「……泉さん、貴女は勘違いをしています。悪いのはそこにいる籠谷家の者なのですよ」
そう言って未奴子さんは僕達の傍に立つ姫子を見据えた。……僕は今彼女に触れていない。
「……あなたには姫子が見えているんですか」
「ええ、それが坂木家と籠谷家の繋がりですから。……坂木と籠谷の家系は、代々主従関係にありました。坂木家は籠谷家の娘を家の守り神として迎え入れる事で栄え続けてきた。そう、数十年前籠谷家の娘が、そこの小娘の母親が屋敷からあの男と逃げ出すまでは。……それから坂木家の持つ力は衰えてしまった。あっという間のことでした、あっという間に坂木は見る影も無く敗退していってしまった。――ですが、十年前に偶然籠谷家の娘を見つけました。それからは簡単でしたね。その娘は真面目で何時も学校の帰りが遅く、誰かに犯行を見られる心配はありませんでしたから」
未奴子さんは今日の朝の献立を思い出すかのように淡々と言葉を続けていた。
「始めから籠谷家の娘を生かして連れて帰る気はありませんでした。今度は逃げられてしまうわけにはいきませんでしたから。ですが殺すのはあまり大変ではありませんでした。御神体にするためには外傷なく殺さなくてはいけなかったので、軍の化学兵器にも使われたジフェニルクロロアルシンを使わせて頂きました。この薬品は嘔吐剤やくしゃみ剤とも呼ばれるのですが、その効果は低濃度で鼻、喉、目の粘膜に激しい刺激を与え、くしゃみ、せき、前額部に痛みを感じさせ。高濃度では呼吸器深部を冒し、嘔吐、呼吸困難、不安感を生じさせて死亡する例もあるそうです。……ですが私は、確実に死んで頂くために超高濃度で直接顔に吹き付けさせて頂きました。もっと手っ取り早く確実に殺せるものもあるようですが、急な話でしたので手元にあるのはこれだけだったのです」
話しながら彼女は御神体にされ、ガラスの中に浮いている姫子の方へと近付いていった。
僕はジフェニュ……何とかなんて薬品のことは知らないが。その薬品が一般人の手に簡単に渡らないってことはわかる。きっと坂木家が全盛期だった頃に軍から手に入れた横流し品ってところだろう。何にせよその薬品が現在使用禁止になっているはずだということは確実だ。
「この設備はなぜか元々この場所に置かれていたのですよ。憶測でモノを言うのはあまりよくありませんが、かつてはここで人体実験でもやっていたのでしょうね。それから御神体を保存するのに邪魔になる血は全部抜かせて頂きました。……ああ、そうでした。泉さん」
「はっ、はい。なんでしょうか、お母様」
ふと気付いたように彼女は僕達の方を振り向き、自分の娘へと薄く微笑みながら言った。
でも本当は、僕にそう見えただけで彼女は少しも笑っていないのかもしれない。灯りに照らされているその肌はやけに白く人形か何かのように作り物めいていた。だからなのか、表情もさっきから変わっていないように感じる。感情の読めない無表情だ。
泉さんもその笑みに対してなのか少し笑っていた。……いや、そんなわけないか。泉さんはただ今話されたことの恐怖に顔が引きつってしまっているだけだ。なぜか人間というのは極限の恐怖というものに対して、自然と笑ってしまうものだそうだ。
「その鞄、とても大切に使ってくださっているみたいですね」
「は、はい! いつも肌身離さず大切に使っています」
「……それはよかったです」そして指をその鞄に向けて一言、ぽつりと呟くように言った。
「七歳の御誕生日にあげたその鞄はその時に抜いた血で染めてあるのですよ」
泉さんの表情が固まった。
「…………えっ、……はは、そんな。どうしてなのですか、お母様!」
泉さんは自分の大切にしていた血染めの鞄を投げ出し、自分の母親のもとへ怪しい足取りで詰め寄った。すでにその綺麗な顔は色々な涙でぐしゃぐしゃになってしまっていた。
「貴女の誕生日のお守りにですよ。籠谷家の血は良い護符になったでしょう」
「…………ああ、ああぁああああああぁああああぁあああああああぁああぁあああああぁ! 籠谷姫子さん御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、御免なさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイッ!」
泉さんはその場にしゃがみ込み、まるで壊れたレコードのように姫子に謝り続けた。
「…………狂ってる。こんな馬鹿げた狂信者に姫子ちゃんは殺されたっていうの」
里子はその話の始終を傍で聞き、押さえ切れない怒りに拳を握り震わせていた。
基本的に熱血漢な性格をしているからな里子は。……だが気持ちは僕もわからなくもない。僕だってさっきから駆けだしてその無表情の顔を殴り飛ばしてやりたくて堪らない。
「……私はこのままあなたを蹴り殺してやりたいけど。この国は憎たらしくも法治国家なんてものを名乗っているから。そうするわけにもいかない。……だから警察に引き渡してあげる。あなたを裁くのは私じゃない、国家権力だ。司法の下に自分の犯した罪を懺悔しなさい」
そう言って里子は僕らに背を向けて、未奴子さんの横を擦れ違うようにして閉じた鉄扉へと小走りに駆けていった。……やれやれ、これでやっと一段落――
「……! 里子、後ろ!」
僕はとっさに叫んだが間に合わなかった。
「…………えっ?」
――ガッ、ゴキュ!
鈍い音が響き、里子が冷たい石畳へと崩れ落ちた。その傍らには長い柄の金槌を手に持った未奴子さんが立っていた。その顔に張り付いている表情はどこまでも無表情で無機質だった。
「……これだけの話をして、無事に帰すと思っていたのですか?」
「…………っく!」
くそ、そりゃ当たり前って言えば当たり前だ。僕らを無事に帰す気がないからこそ未奴子は事件の内容を話したんだ。くそっ、この展開はベタ過ぎて使われるとは思ってなかった。
「……里子さん!」
泉さんは里子の傍に駆け寄って抱え起こした。里子の出血は酷いらしく、髪の間から流れる血が泉さんの服と手を真っ赤に染め上げている。……早く病院に連れて行かないと。
「……そんな、里子さんま、で……」
彼女は里子を抱えたまま気絶してしまった。
「後は貴方だけみたいですね。では動き回られると大変なので大人しくしていて下さい」
未奴子はガラガラと金槌を引きずりながら近付いてくる。
『……どうしましょう榊さん。二人だけで乗り切れそうにありませんよ』
彼女は僕の隣に寄って不安そうに言った。それに対して僕は――
「いいや、これは逆にチャンスだ。おかげで二人に血生臭いところを見せずに済む。……姫子ちゃん、彼女を潰す手伝いをお願いできますか。僕もたまには思いっきり暴れたいからさ」
……徹底して冷たく答えた。僕は逃げたがりだけど、臆病なわけじゃない。
抑えるべき所と怒るべき所の境界線は作ってある。そして彼女はその一線を踏み越えた。
『……本当は私からお願いしようと思ったのですが、先に言われてしまいましたね。私と一緒にあの人を徹底的に潰してください。積年の恨み、ここで晴らさせてもらいます』
僕と姫子は未奴子さんを射殺すくらいきつく睨み付けた。
司法なんて関係ない。僕らは自ら審判を下す。
「『判決、鉄拳制裁!』」
◆ ◆
始めに動いたのは未奴子さんの方だった。
金槌を両手で構え、一瞬で間合いを詰めてきた。
そして、大きくそれを振りかぶり僕の脳天に向けて思いっきり叩き込んだ。だが勿論――
――ガツンッ
「……貴方も幽霊ですか」
金槌が僕の体をすり抜け石畳を数枚破壊しただけだった。
「……正確には半霊化状態の人間だ。まだ僕は死んで、ない!」
金槌に振られ、前屈みになった彼女の腹に僕は容赦なく拳を突き上げた。
「くはっ……」
彼女は金槌から手を離し、無表情のまま殴られた腹を押さえながら後ろへよろけた。そう、いくら彼女が強かったとしても。強さなんてものは関係ない。彼女の武器は僕に当たらないが、半霊化状態である僕の拳は彼女に届く。絶対の優位性だ。
「……成程。その半霊化とは何のことか存じませんが、ようは生き霊と同じという事ですか。この金槌も霊的な効果があるからといって買ったのですが、まんまと偽物を掴まされていたのですか。仕方ありません、それなら――」
未奴子さんは金槌が置かれていたのと金槌の置かれていたのと逆側の台座へ駆け寄り。その石像の持っていた長刀の日本刀を手に取り、鞘を投げ捨てると切り掛かってきた。
これもわざわざ避ける必要は――
「うぐっ!」
もう少しで刃が届くというところで何かに後ろへと引っ張られ、部屋の端まで飛ばされた。……く、首が絞まる。
「痛っ!……あれ、血は出てないけど切られてる」
頬の方に手を当ててみると薄く線が走っている。もし、さっきのまま動かずにいたら……。
『だめです、榊さん。真剣って言うのは昔から霊を祓ったり、神との交信に使われたりと、色々と霊的な力を持っているものなんですよ。それにあの台座に載っていた日本刀ってことは確実に妖刀です。
姫子に引っ張ってもらって、どうにか一命を取り留められたようだ。
「そうか、ありがとう。……それで、何で台座に載っていたら妖刀なんだ」
『あの台座は寺社でいえば狛犬が座っているはずの場所です。狛犬とは本来祀られた神を護るためにいます。でもここの場合はその意味がまるで違っています。……あれは祀った神が逃げないようにするために置かれたものです。言うなればあれは神をも倒す神器ですよ』
あの金槌と日本刀にはそんな意味があったのか。……神を閉じ込める、馬鹿な話だ。
「……未奴子さんの動きを金縛りにできないか、一瞬でも隙があれば仕留められる」
『……なんか駄目みたいです。さっきからやってみてるけど剣気で片っ端から切られてます。私のはあくまで髪を使って体を縛っているだけなので、断ち切られたら止められないんです。ですから金縛りじゃなく、髪縛りです』
金縛りじゃなく髪縛り、……笑えねぇ。この状況じゃ笑ってらんねぇ。
そうこう言っているうちに彼女は僕らの方へ近付いてきた。
「これでなら貴方も殺せそうですね。では大人しく成仏して下さい」
◆ ◆
「……きつい、逃げるので精一杯だ」
はっきり言って、これはかなり危ない状態だ。
あの長刀は刃の部分だけでじゃなく、刀の峰や腹の部分にもそれなりの力があるみたいだ。もし間違って白刃取りでもしてしまっていたら、僕の指の数は十本ではなくなっていたのかも知れない。……もっとも、この長刀を白刃取りできるとは思えないが。
まるでさっきまでの状況と逆だ。
半霊化していてもあの長刀には斬られる。それでいて、逆にこちらから長刀には触れない。姫子の髪の毛で縛り付け動きを止めようとしてみても、巻き付けようとする端から剣気に断ち切られてしまう。……僕はさっきから逃げ回っていて、姫子と手を繋いで一緒に戦ってもらうこともできない。でも、このまま僕だけだと彼女に歯が立たないことはわかりきっている。
「…………あまり動き回らないで頂けませんか。式場をあまり汚したくはないのです」
こちらは霊体なので疲れというものはないのだが、未奴子さんはさっきから息一つ乱さずに長刀を振っている。その人形のような冷たい表情には疲労の影はまったく見られない。
しかも見た目からしてそれなりの質量があるはずなのに、金槌のときのように体が振られることもない。まるで木枝のようにその長刀を軽々と片手持ちで振っている。それでいて、速い。僕が十分な間合いを空けても一瞬でその間を詰められてしまう。
……本当にこの人は人間なのだろうか。そんな疑問も浮かんできた。
だがそんなことを考えている暇はない。
――ヒュンッ……
再び踏み込んできた。
さっきから彼女は横薙ぎに長刀を振ってくるので、大きく後ろに避けないと胴体から二つに分断されてしまいそうだ。いや、このままでは分断されるだろう。
そして僕は後ろへと大きく引っ張られた。
「ありがとう」……これはもう七回目の姫子への感謝だ。
『大丈夫ですか榊さん。今度は二の腕に深い傷跡が付いてしまいましたよ』
「大丈夫、これくらいの傷なら気にするまでもないです」
すでにそんな傷が気にならなくなるくらい多くの傷跡が全身に刻まれてしまっている。……この傷って治るのだろうか。一生このままなような気もする。
『ですけど、形の上だけでも手当てしておかないと……』
そう言うと姫子は後ろ髪を一房掴んで引っ張った。
するとその部分の髪がするすると伸びていき、その髪束は黒い包帯のようになった。そしてその即席の包帯を僕の二の腕にぐるぐると巻きつけると適当な所で結び、切った。
『形の上だけですが、一応の手当てです』
「………………」
『……どうかしましたか、榊さん』
「いや、……ちょっとね」
姫子は不安げな顔で僕の顔を覗き込んでいる。僕は彼女にあることを耳打ちした。
形勢逆転の鍵となりそうな、あることだ。
未奴子さんはしだいに僕達を部屋の角へと追い詰めていった。
部屋の壁も床と同様に粗い石造りをしていてひんやりと冷たい。そしてもうその石壁に背中が付いてしまった。……もう後ろへは下がれない。下がっても意味はない。
「……しまったな、どうしよう」
とりあえずできる限りの手はずは済ませているが、それが上手くいくとは限らない。まさに一か八かの大博打。成功すれば逆転のチャンス、失敗したらお陀仏だ。
そうこう考えているうちに、ついに部屋の隅へと追い詰められてしまった。僕は冷たい石壁に背中を預けるようにして、下へとゆっくり座りこんだ。
……成功しても失敗してもこれが終わればやっと終焉だ。
「…………随分時間が掛かってしまいましたが、これで終わりのようですね」
彼女は僕の正面に立って長刀を両手で大きく振りかぶり、その冷たい氷のような視線で僕を射抜いた。視線で人を殺せるのなら、今ので僕は致命傷を負っただろう。
だがそんなことはない。いくら鋭くても視線は視線だ。
「……まだ終わりじゃないさ。飛車角金銀だけじゃなく桂馬香車、歩も何枚か取られたけど、王が生きてりゃまだ積みにするには早い。
彼女は呆れたように。むしろ哀れむように僕の方を見て、長刀を持つ両手を振り下ろした。
……かに、見えた。
「…………貴女もそういえばいましたね。失礼とは思いますが、すっかり忘れていました」
振り上げられた彼女の両手は姫子自慢の黒髪によって拘束されていた。
よく見るとその髪の毛は一本ではなく何本もの髪を寄り合わせて編まれた三つ編みだった。
『忘れられては困ります。……私は、私はあなたに殺されたんですから!』
「……貴女も今は仮にも我が坂木家の守り神です。どうか私の邪魔をなさらないで下さい」
未奴子さんは振り向かないまま後ろに立つ姫子に話し掛けた。
『私は神じゃない! 私はどこにもいる普通の女子高校生です。自分勝手な理由で殺されて、勝手に知らない家の守り神に仕立て上げられて。そして死に切ることもできずに見世物なんかにされる筋合いはありません!』彼女は声を荒げて言う。
『だから私はあなたの人生を破壊する、破壊し尽くして再起不能にしてあげる!』
「……僕は第三者だからそこまで言わないですけど。あなたがやってきたことに見合うだけの償いを姫子と、彼女の家族にしてください。それがあなたのするべきことのはずです」
僕が立ち上がると彼女の顔を正面で見る形になった。……本当に泉さんとそっくりで綺麗な顔をしている、二十代だと言われてもまったく疑わないだろう。だけど……二十代でこんな、地獄を何百回も見てきたような顔をする人はいないだろう。
その顔に張り付いている表情は人形のような、よくできた仮面のようだ。
「……私は坂木家の現当主を務めています。ですから立場上、守り神である貴女を手に掛ける様な事はしたくないのです。お願いですからどうか私の邪魔をなさらないで下さい、姫神様」
そう言うと未奴子さんは拘束されていた両腕を更に傾け、刀の切っ先をずらして三つ編みを切った。束ねて強くなる代わりに、金縛りの利点であった見え難さが失われてしまったのだ。そのせいで彼女は素早く拘束から抜け出す事ができた。
「どうかお引きください、もう貴女に私の動きを止める事はできません。これで
僕の喉もとに刀の鋭い刃が向けられ、皮一枚のところで止められている。あと少しその刃を動かされれば、僕の喉が瞑れるどころか首ごと切り落とされてしまうだろう。
こうなると確かに積みだ。下手に動く事もできない。
――いや、動く事はできる。それが作戦だった。
「……将棋とかチェスとかすべてのボードゲームってそうなんだけどさ。そこが囲まれた場所だからこそ、追い詰めて積むってことができるんだよね。――そう、ボードの外に駒が逃げるなんてことは考えないんだよね!」
避けられた。
僕は突き出されたその切っ先を壁の中に逃げてかわした。
突き出された切っ先はそのまま石壁に当たって弾かれる。霊体が切れる大層な妖刀だか神器だと偉そうなことを言っても、斬鉄剣みたいに何でも切れるってわけじゃない。いくら霊的な特殊効果があっても、物理的に考えればただの真剣に石の塊を切れるわけがないだろう。
僕は壁の中で右手だけを未奴子さんに突き出して言った。
「これで僕達の積みだ」
彼女は訝しげに僕の突き出した右手を見る。
そして僕の手に握られた、この灯りの少ない暗い地下室では目をよく凝らさなければ気付くことすらできないだろう、黒くとても細い一本の髪の毛を見つけた。
その後の彼女の反応はとても素早く、まったく無駄がなかった。
恐らくそれは彼女にできる最良にして最善の対応だったと思う。……でも、ただ気付くのが遅かった。この石壁に追い詰められたときにはすでに、僕等の積みだったのだ。
彼女は長刀を構えながら姫子の方を振り向いた。
振り向いたところを姫子が刀を持っている腕ごと蹴り飛ばした。
刀は部屋の奥へと石畳を滑っていった。そうして出来た一瞬の間。
その隙を僕が見逃すはずがなかった。僕は未奴子さんの口を塞ぎ首筋へ手刀を喰らわせた。
あとあまり知られていないが、ただ延髄に手刀を当てるだけだとなかなか人は気絶しない。それだと気絶させるよりさきに死んでしまうだろう。気絶させるだけなら、相手の口を塞いで首筋を強く打って息を吐かせ、酸欠状態にして堕とす方がよほど安全で楽なのだ。
意識が途切れ、崩れ落ちる彼女の体。
「……幽霊を半霊化させるのに必要な条件が体の接触ってことなら。たった一本の細い髪の毛でも体の一部として条件は満たしているんだよね。細くて丈夫で、どこまでも長く伸ばすことのできる姫子ちゃんの髪だからこそできた裏技だったんだけど、成功してよかったよ」
石畳に横たわる未奴子さんに向かって僕は言った。
この人は本当に最後までその綺麗な顔に張り付けた無表情の仮面を剥がすことはなかった。気絶している今ですらもその顔は無表情だった。
「それより、早く里子さんの容態を診ないと。さっきから少しも動いてませんよ」
「えっ、うそ! ええっと、じゃあ姫子ちゃんはしばらく起きる心配はないと思うけど、念のために未奴子さんを拘束しておいて!」
そう言うが早いか、僕は姫子のもとへと駆け寄った。
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