『仁《ニ》』話「退院」



 なんだかんだで、入院五日目。

 この五日で僕に分かったことは、この体には食事も睡眠も必要ないということだった。


 この体には物理的な肉体と呼べる部分がない。ゆえに、結果として肉体的な疲労は溜まらず休息も栄養の補給も要らないということらしい。疲れがないことは実に助かるのだが、睡魔にも空腹にも襲われることなく、休憩時間も必要ないということなので、毎日時間が余りすぎてやることがない。毎日本当に暇なのだ。


 これで体が健全なままだったら、一日中でも本を読み続けているところだが、今はそういうわけにもいかない。暇つぶしに本を読もうにも、本を持つことが出来ないのだ。だから、妹が約束通り新しい文庫本を買ってきてくれてもただ溜まっていくだけなのだった。

 そのことを、文庫本を買ってきてくれた妹に話してみると。


「まあ、始めからそうなるとは思ってた」と、そっけなく言われてしまった。


 ……それなら始めから何か言っておいてくれよ。




 さすがに入院五日目ともなると部屋に運び込まれた怪しい器具たちは以前にもまして多めにコードをのたうち回しているし。そして医者や学者連中もだんだんと遠慮というのか、容赦がなくなってきたのか危険な実験をするようになってきている。


 こうなってくると僕もそろそろ命の心配をし始めたほうがいいのかもしれない。病院で命の心配をするのは結構普通のことなのかもしれないが、その行間に含まれている考え方の違いでこうも意味合いが変わってくるというのはなんとも変な話だ。


 だけど現実なんて所詮そんなものだ。とまあ、少しばかりの現実逃避をしてみる。

 所詮一度は死を想った身だ。……とでも言えばかっこいいかも知れないが、その程度のもので死の根本的な恐怖から抜け出せるはずがない。どんなすごい体験をしていようと、僕はまだ十数年の時間をのほほんと自由気ままに生きてきた、ただの普通の若造だ。元から命の危険と言うものに現実感がないのは確かだが、本来ならこう安穏ともしていられはしない。


 この体に命というものの定義が当てはまるのかは分からないが。とりあえず、このベッドで静かに眠っている方の僕には命の心配がある。ここに眠っている僕だったら、濡れた布を顔の上に置いてやるだけでも十分殺せるだろう。この僕にはその濡れた布すら掴めないのだから。


 さすがに医者や学者がそんなことをするとは思えない。

 ……するとは思えないが。このまま実験を進めていく過程で、ベッドに眠っている僕とここに立っている僕との関係性を調べるためそういう荒事な実験をしないという保証などはない。いや、このまま新しい発見もなく現状が変わらなければやる可能性の方が高くなるだろう。


 下手すればじきに、ベッドで眠っている僕の心臓が止まったらここにいる僕はどんな反応を示すのか、という滅茶苦茶な実験が行われかねない。その実験でもし心臓が止まってそのままだったらどうしようと言うのだろう。このままだと正真正銘実験台モルモットだ。

 やはり達観などはしていられない。冗談ではなく僕の命もそろそろなのかもしれない。


 ……さて、里子が来たら遺書の代筆でもしてもらおうかと半ば本気で思いはじめていた頃、病室の引き戸が音もなく開いた。そもそも病室の引き戸は開けるのに力がなくてもいいようにできてるものだから音はあまりでないけど。いつもの見舞いにしては早いな、そう思いながら振り向いたのだが、そこには予想外の人物が立っていた。

だがその人物の来訪は完全に予想外だったというわけではない。たぶんいつか来るだろうと予想はしていたが、でも僕はここに来るとしてももっと遅くなるものだと思っていた。しかし、こいつのやることに予想をたてようとしたこと自体が間違ってるのか。


 さて、どうしよう。まだどんな文句を言ってやるのか決めてない。


「よう、サッキン。元気そうだな」


 というわけでやってきたのは晶だった。



「いやはやもう、なんて言うかね。サッキンのかねてからの願いの通りずいぶんと面白いことになったみたいだな。人のありがたい忠告をしっかりと聞かないからこうなるんだぞ。いや、それとも事前に聞いたからこそこうなったのか? ま、そんなのどっちでもいいか」


 引き戸を開けて病室に一歩入ったところで晶は立ち止まった。その片手で今さっき取った、着ている服と同じような黒いつば付きの帽子を指で回している。晶がその顔に浮かべている表情は最後に見たときと変わらず飄々とした薄ら笑いだった.

ゆっくりと音もなく静かに閉まる引き戸の白い色を背景にして立っているので、晶がいつものように着ているその黒い服が病室の白さを引き立てている。相変わらずの趣味だ。こいつは学校指定の制服も勝手に改造して真っ黒に染めてしまっている。


 だが――


「……………………」

「? どうした、サッキン。顔になんか変なモンでも付いてたか」

「顔というか、お前の頭に変な物が付いてるような気がするんだけど」

「アタマって、……これのことか?」


 晶の頭の上には、かなり変な物が付けられていた。

 その姿はあまりにもこの部屋にそぐっていない。だがそれを付けていて違和感がない場所は自分の知る限りではどこかのパーティー会場やカジノくらいしか思いつかない。

 そう、晶が頭の上に付けていたものは。


――――ぴょこん


 黒いウサミミだった。


「……ぶはっ! なんていうかそれは反則だろ。いくらなんでもハマりすぎだ!」


 殺傷能力が高すぎて即退場モノの反則技だ。

 これはすでに笑うしかない。


 晶が着ている黒い服に、頭に付けた黒いウサミミ。これで身長一七〇越えの特大黒ウサギの出来上がりだ。……似合わない。いや、むしろこれは似合いすぎている。

 もしもこいつが、不思議の国でアリスの前に現れたウサギだったなら。アリスが辿り着いた先はハートの女王の前じゃなくて、マフィアの幹部の前だっただろう。

 こいつは黒ウサギと言うよりも、黒い詐欺って感じだ。


「……面白いなら、せめて普通に笑ってくれよ。病室の壁に頭を埋めながら、腹を抱えて笑い転げ回っている図って、はっきり言ってかなり怖いぞ」


 晶が素で引いていた。さすがに、これは笑いすぎだったか。


「ああ、ごめんごめん。その格好がツボに入っちゃって、ちょっとばかし人には見せられない顔になっちゃってたからさ。……はあ、久々に腹から笑った。ええと、それでアキラもアイツみたいに何か病院側の特別な配慮って奴があったのか」

「ああ、もちろん。しっかり人目を避けて裏口からこっそり入って来たぞ」

「………………」


 おいおい、この病院の警備体制はどうなっているんだ。えらそうなこと言って、面会謝絶になってないじゃないか。と言おうかと思ったが、そこでひとつ妙なことに気が付いた。


 できればもっと早くこの違和感に気付いておくべきだった。

 晶は医療関係者でもなければ学者でもない、ただの一般人のはずだ。それなら他の生徒たちのように僕はただの交通事故で入院していると知らされているはず。

 晶もたぶん僕のお見舞いに来たんだろう。だけど、入院先がここの病院であるということは公表していない。入院をするならここの大きな病院にではなく他の小さな病院に入院することが地元の常識だ。加えて言えば、この病室にも普通の道順ではやって来れないはずなのだ。


 ……知られていた。でも緘口令が布かれていたはず。

 いや、でも人の口に戸を立てられはしない。あの現場にいた誰かが話したのかもしれない。でも仮に、晶がこのことを小耳に挟んで聞いていたのだとしても、どうしてだ。


 どうして、この二人いる僕の姿を見て。そして、壁に埋まる僕を見て驚かないんだ。


「……………………」

「なんだ、まだ気になることがあるのか」


 あくまで平然としたまま、晶は尋ねてくる。


「大有りだ。…………どうしてアキラは、この僕の姿を見て驚かないんだ」

「どうしたんだ、何か驚くようなことでもあったか。サッキンが突然本物の女になったりとかそんなハートフルでマイッチングなことでもここであったりしたら、驚いて歓喜の声を上げてみせるけどな。ははは、水を被ったら女になったりして」


 晶はそうにやけた顔で茶化してみせてから答える。

 まるで当たり前のことを、信号機の停まれの色は赤だ、とでも言うように言った。


「それはこの轟晶がここの関係者だからだろう、当たり前のことを言うな」


 晶にとってそれは当たり前のことだったのだろう。




「アキラが、この病院の関係者だって?」


 あっけにとられて突っ立っていると、(まあ、初めから突っ立っていたんだが)晶が靴の底をカツカツと鳴らしながら、近くにやってきた。


「あと、ついでにさっきの質問に答えると。二人に増えたサッキンを驚くも何も、ここの病院に連れて来たのがこの晶なんだから、今更見ても改めて驚くはずないだろう。これでも他の人に見られて下手な混乱が起こらんように緘口令を布いたりして、色々と注意したんだぞ」


 その緘口令自体が晶の出したものだったのか。

 それからわざとらしく溜息を吐いて晶は、里子が見舞いのときによく座っているパイプ椅子をベッド横の隙間から引っ張り出して腰掛ける。昨日里子が届けた見舞いのかごの中に入っていたリンゴにかぶりついている。どうせ僕は食べられないけど、勝手に人のもの食うなよ。


「そりゃ、どうもありがとう。今回のことを秘密裏に処理してくれた恩人に、直接お礼を言いたいと思ってたからちょうどよかったよ。……でも、まさかこんな身近な人間がやってくれていたとは思ってなかったけどね」

「恩人だなんて大げさな。面倒なことを面倒になる前に片付けただけだよ」


 だが晶は僕が頭を下げているというのにろくにこちらを見ようともせずずっと手元のリンゴを見ている。器用にリンゴの皮だけ先に食べて、これから中身を食べようとしているようだ。


「でも病院の関係者ってことは、ここの病院にアキラの家族か親戚が勤めていたりしてるってことなのか。聞いたことなかったけど、お前って医者の家系だったんだな」

「いや、近所で神社の神主やってる。まあ、バイトみたいなもんだけど」


 ……はい、神社の神主だって? だったらここの病院とどんな関係なんだよ。


「…………そういえば、まだロリっちは来てないんだな。……あとそうだ、ロリっちが特別に終業式を休めるようにしたのと、ここの病院に特例で出入りできるようにしたのも、実はこの晶が手回ししたおかげなんだよ。晶ってば、なんて恋のキューピッドだろうな」

「神社の神主がギリシャ神話の神になんかになれるかよ。それにせめて言うにしても、日本にいる神を名乗れよ。まあ、どのみちアキラじゃ恋愛の神様にも縁結びの神様にもなれないな。なれたとしても、相手に放つ矢はどうせ破魔矢か鏑矢ってとこだ」

「それで船の扇でも撃ち落とすってか。それじゃあ源氏物語だ」


 リンゴを芯まで食べ終わり、(だから、勝手に食べるなよ)かごに手を伸ばして次の食べ物を探し始めている。次はバナナか、まさかとは思うがこれも皮ごと食べるのか。


「それは平家物語だろ。……いやそうじゃなくて、それが言いたいんじゃなくて。どうして、ただの神社の神主が学校や病院なんかに手回しできるんだよ。ここの町は門前町じゃなかったはずだ。神社がそんなに権力を持っているなんて話は聞いたことがない」

「あれ、そうだったのか? 古典は嫌いなんだよ。でもサッキンの言う通りここは門前町じゃないな。ていうか、勘違いしてるみたいだから言っておくけど門前町ってのは神社じゃなくてお寺を中心に発展した町のことを言うんだぞ」

「そうだっけ? 日本史は苦手なんだよ」

「あれ、苦手なのは日本史だけなのか。他にももっとあった気がするけど」

「他に苦手なのは数学と英語と、……物理と科学と生物と地理、あと世界史だけだ!」

「……それは、国語科目以外はほぼ全滅と言う意味じゃないのか」

「情報だってあるぞ! そう言うアキラだってほとんどの教科嫌いじゃないか」

「嫌いでも点数は一応取れてるぞ。嫌いなのと苦手なのは別物だぞ」

「そういっても、古典の成績は最悪じゃないか」

「…………アレは先生が嫌いなんだ」


 お互いに頭の悪さを示しながら会話が進んでいた。

 ……そういえば晶と同じ授業を受けたことはないな。

 うちの高校の授業は選択制になっている。さすがに高等教育として絶対に必要な単位と言うものがあるが、基本的には受ける科目を自分の単位に合わせて選ぶことができる。ようするに専攻しているのが文系か理系かで選択する科目が分かれているようなものだ。

 一つくらいは被っていてもよさそうなものだけど……まあ、いいか。


「ほぉ、そうか。それじゃあ問題、大阪城を建てたのは誰だ」

「豊臣秀吉だろ。そんな常識問題を出すなよ」

「はっずれー、引っかかったな。正解は大工だ」

「うわっ、せこい。それじゃあ、ただのなぞなぞだろ」

「なぞなぞも問題の一種だ」


 屁理屈を言ってみたが結局は、事実を言われたことに対する現実逃避だ。

 だけど事実から話を逸らそうとしているのは晶も同じだ。


「……って、そうじゃない。だから何でアキラがそんな裏から色々なところに手を回すようなことができるのか、それが知りたいんだよ。アキラお前は――」

「――サッキンがそれを知る必要はない。……だから今はただ、自分の親友はそんなことができるっていう認識でいてくれ。黙っていてもどうせすぐにわかることだろうからさ」


 人差し指を口に当てて静かにさせるっていうのならともかく、その指先を口の中に突っ込んで黙らせるってのはかなり嫌だ。けどそれは晶にとって、そうまでして僕に詮索されたくない内容だってことなんだろう。そう言えば、晶は事故に遭う前夜僕に、別れ際に明日は車に気を付けろよって言ってたっけ……。


「…………………」


 こいつはどこまで知っているんだろうか。


「……まあとりあえず、だ。それでどうする? 医者や学者連中がうるさいって言うんなら、奴らを追っ払ってやろうか。何ならサッキンを今すぐ退院させてやってもいいし」


 晶はかごに入っていた食べ物をすっかり食べ終えて(バナナの皮はさすがに食べなかった)、今はベッドに寝かされている僕の顔をじっと眺めている。そして何を思ったのか、おもむろにどこからかペンを取り出した。しかも、黒の油性ペン。


「そりゃ出来ることなら退院したいけど、その体のこともあるし。……って言うか、おいこら。お前はその手元にあるペンのキャップを開けて何をする気だ」

「体の心配はしなくていい。それよりここにずっと置いておく方が心配だ。……気にするな。サッキンの口元にダンディーな巻きひげを描こうとはしてないから」


 そう言いつつ、油性ペンの先を寝ている僕の顔へ近づけていっている。


「なら描こうとするなよ。……それで、今の僕はいったいどんな状態なんだ」

「はっきり言って、用済みだね」

「え、……よ、用済みだって!」

「あ、ごめん言い間違い。様子見だって」

「嫌な間違えするなよ! 一瞬心臓が止まったかと思ったじゃないか」


 用済みと様子見じゃ、意味が正反対に変わってくるだろうが。


「その体で心臓が止まることなんかあるのかよ。……けどまあ、そうは言っても。さっきのは言い間違えではあるけど、あながち間違いってわけじゃないんだよなぁ……」


 晶はそんな不吉なことをぽつりと、服の裾に隠れていたウエストポーチの中から油性ペンの代わりに赤い口紅を取り出しながら言った。


「なんか今、すごく重要なことをぽつりと言わなかったか」

「気のせい気のせい、木の精霊」

「木の精霊は関係ない。今、あながち間違いじゃない、って言ったよな」

「んー、そんなこと言ったかな?」


 まるで話を逸らそうとするかのようにこっちに目を向けようともしない。


「いいや、確かにそう言った。……どういうことだ、間違いじゃないって。それは実はもう、僕は用済みにされたってことなのか。どうなんだ、教えてくれ!」


 思わず怒鳴って、晶の肩を強く掴んで椅子から押し倒してしまう。

 その拍子に晶の持っていた唇紅の線が大きくずれ、その伸びた口紅の跡はまるで口裂け女の化粧みたいになっていた。……そのベッドの上に寝ていた、僕の口が。

 油性ペンの次は口紅でかよ。


「あちゃあ、失敗しちゃったじゃん。……そう熱くなるなよ。用済みだっていうのはサッキンのことじゃなくて、ここに勤めているスタッフ達のことだよ。このままずっとここにいても、サッキンは奇跡でも起こらない限り、いや奇跡が起こったとしても元には戻れないよ」


 押し倒された晶の表情はそのままで、いや呆れたような冷たい表情で僕を見上げた。


「元に戻れない。……でも、あの学者達だって――」

「成果は出してるって? 鬱陶しそうにしていたくせに、ずいぶんと連中の肩を持つんだな。でもさ、それってわざわざ調べなくてもそのまま体に起こっていることを言っただけだろ」

「それは……」


 晶は僕に押し倒された格好のまま起き上がろうともせず、その腕を伸ばして僕の首筋へと触れる。その、赤い血が流れ、脈打っているはずの頚動脈の位置に。


「……いや、まさかとは思うけど。サッキンは科学だけで世の中に起こっていることすべてが証明できると思ってるんじゃないだろうね? そんなことできるわけないじゃん。医者なんかはともかく、学者っていう生き物は何でも自分の知っていること、誰かがすでに証明したモノに当てはめてから答えを導き出そうとするもんなんだ。だから誰も知らないこと、誰にも証明できていないことが起こったりしたら何もできなくなるんだよ」


 反論できない。

 僕だって幽霊を信じていなかったけど、科学だけですべてが証明できるだなんて安易なことは思っていなかった。今も世界を形作っている真理がそんな簡単にわかると思ってはいない。


 だけど――


「科学の力だけじゃわからないこともある。わからないことの方が多いくらいだ。だいたい、人工物には干渉できない、それ以外は普通の人間と同じ? この体には肉体がない? なら、ここでこの首を掻き切っても血は流れないはずだよな。だからそのまま首をねじ切ったとしても死んだりしないはずだよな。……そんなわけないじゃん。サッキンはしっかり言ったのか、自分は幽霊が見えるようになったって。人間の残留思念が、エクトプラズマが見えるんだってあの連中に言ったの? 言ってないっしょ、言ったって医者や学者が信じるわけないし。……けど、サッキンにはその姿がばっちりと見えてる。そうだろ?」

「なんでそれを……」

「見えている人と見えてない人の差。それは、信じている人と信じてない人の差なんかよりもよほど決定的な差だよ。科学にできるのは目に見えていることまで。その先は専門外だよ」


 その晶の目は、僕に押し倒されて下にいるはずなのに、僕の遥か上に立って見下ろしているかのようだった。こいつは僕と同じ場所に立っていない。初めから立場が違ったんだ。


「なんてな」


 さっきまで僕を押しつぶしていた威圧感が、ふっと軽くなった。晶はその硬く冷たい表情を崩していつもの飄々とした薄ら笑いを顔に貼り付けていた。


「そう深く考えないで安心してくれ。お前の親友は結構すごい奴だ」


 そこにいたのはいつもの晶だった。

 ……まったく、勝手な奴だ。いいさ信じよう、お前は最高の親友だよ。




 ――ガラッ……


「………………………………………………………………………」


 突然病室の扉が開いた。

 その扉の開いた先にはいつも通りの時間帯にお見舞いに来た里子が、昨日と同じ果物入りのかごを持って立っていた。だが、その顔に浮かべている表情は無表情のままで固まっている。いつもの太陽のような満面の笑みではなく、怖いくらいに冷め切った氷のような表情だった。


「……………………………………………………………」

「………………………………………………………」




 僕達の置かれている状況を説明しよう。

 場所―面会謝絶の病院の個室(ベッドしかないような部屋)

 人物―伊澄榊(入院患者)、轟晶(見舞い客その1)、交路里子(見舞い客その2)


 状況―ベッド脇の椅子が倒され、榊が晶を押し倒している。その現場を里子が目撃

 つまり、面会謝絶で他に誰もいない個室で僕(幼馴染の男)が晶(ウサミミを付けた女)を押し倒している現場を里子(お見舞いに来た幼馴染)が目撃してしまったということだ。


 要するに、絶体絶命。もしくは、絶対に絶命。

 逃げ場はない。




「………………………………………………………」

「…………………………………………………………………」

「……………………………………………………………」


 三人が沈黙する。

 そして、一人が動いた。


「えーと、これは。サッキンが嫌がる晶に変なことをしようと……」


 晶は乱れた黒いゴシック&ロリータ(いわゆるゴスロリ)風のふわふわドレスと、曲がった黒いウサミミを直すようにしながら立ち上がり、僕を押し退けて里子の方に向かおうとする。伸ばしたその手を里子の肩に置こうとするが、するりと避けられる。


 晶が取ってくれた行動はありがたい。だが、その言った台詞がまずかった。

 晶が台詞をすべての台詞を言い終わる前に、すでに里子は行動していた。……つまり、結構かわいい女の子である晶を押し倒した姿勢のまま、何もできずに固まっていた僕の方へと。



 ――ダンッ



「……言い訳があるのなら今のうちに言いなさい、ないのなら神に祈りなさい。そして今度は、今度こそはまともな人間に生まれ変わらせてくださいって、心から願いなさい」


 一歩で距離を縮め、僕の前に仁王立ちになる。その眼は赤く攻撃色に染まり、口からは黒い瘴気が漂っている……ような気がする。そしてその手にはかごの中から取り出された鋭い刃先のナイフ。果物ナイフではなく、艶消しに黒く塗られた大振りのサバイバルナイフだ。

 うわぁ、怖えー……。



     ◆     ◆



 結果として起こったことを言えば。

 いくら鋭いサバイバルナイフで里子に何度か斬りつけられたところで、ナイフの刃はぜんぶ体を通り抜けるのでなんてことはなかった。ついでにその間に、さっき起こったことの次第を里子に話をすることができた。結果オーライってこのことを言うのだろうか。



「何だそうだったんだ。私はてっきり……」

「てっきり、なんだよ。僕がアキラを襲っているとでも思ったのか」

「まあ、そういうこと……」


 今はもう一つパイプ椅子を出してきて、三人で僕の寝ているベッドを間に囲むようにして座っている。さすがにこの僕は椅子に座れず立ったままだけど。


「はじめ見たとき、その黒服の女の子があきらさんだと思ってなかったから。私はてっきり、何の変化もない退屈な入院生活に疲れ果てていたさっちゃんが、その内に秘められた欲望の丈を晴らすためにたまたま病室を通りかかった見ず知らずの女の子を病室の中へと連れ込んで、ついに犯罪に手を染めようとしていた現場を偶然目撃してしまったのかと……」


 目線を僕と合わせないようにして、少し気まずそうに答える里子。


「……何だ、そのできの悪い昼ドラみたいな滅茶苦茶な修羅場の展開は。退屈な入院生活ってのは確かだけどさ。その内に秘められた欲望の丈って何だよ。僕は将来何を間違ったとしても晶を手にかけるような愚行はしないと神とうちの母親に懸けて誓う」

「愚行とは何だ、愚行とは。女性に向かって失礼だぞ」


 その姿はともかく、言葉遣いはまるっきり男だ。

 だけど、里子がはじめ晶を見たときに、それが晶だとわからなかったのも無理はない。

 僕だってこうして実際に目にしてる今でも、このゴスロリウサミミ娘が晶だとは思えない。……そういえばこいつの女の子らしい服装を見るのって今日が初めてかもしれない。


 晶は男子と比べてみても背がずいぶんと高い方だし、学校にいるときはめったにスカートを穿いたりせずにスラックスを穿いている。それに髪形も男子で言えば少し長めの、女子で言えば少し短すぎるくらいの長さをしているのだから。それに加えて普段のしぐさなんかも、学校では男っぽいと言うかどことなくおっさん臭い感じだからな。里子に男子生徒だと間違われていても不思議はない。


 そう言えば里子も学校内では何度か一緒にいるときに会っていたけど、私服姿の晶に会うのは今日が初めてだった。まさか晶の私服がこんな服だったとは夢にも思ってなかっただろう。僕だってこんな格好で来るとは思ってなかった。



「それにしても、このベッドに眠っているサッキンはまるで眠り姫みたいだな。この晶がもし白馬の王子様だったら、このベッドの上のサッキンを見かけた瞬間に襲っているな」

「襲うなよ。定石通り目覚めのキスで起こせよ」

「キスのひとつでサッキンが元に戻るってんなら一度といわずに何回でもやってやるけどな。……えっと、この場合はどっちにすればいいんだ? ベッドに寝てる方か」

 茶化すように晶がベッドに寝ている僕に顔を近づけていく。

「……冗談はそこまでにしておこうか、あきらさん」


 里子が晶の肩に指の爪を立てるようにして止めた。また若干その眼が攻撃色に染まっている……ような気がする。さすがの晶も少し表情を強張らせていた。


「いやいや、冗談だって。ロリちゃんの彼氏を奪うつもりはないって」

「さっちゃんは彼氏なんかじゃない」


 里子はさらりと言ってのける。

 あれぇ? これってもしかして僕、今里子に振られちゃってたりする? 今さりげなく彼氏なんかじゃない宣言されちゃったけど。これって告白する前に振られたってやつ? うわぁ、正面切って玉砕するよりも辛いんですけどこれ。


 二人の知らないところで打ちひしがれていた僕は見ていなかったが、それを言ったとき里子の顔はほのかに赤く染まっていた。勿論その里子の赤く染まった顔は晶がいつもの飄々とした笑い顔でしっかりと見ていた。


「それで、さっきの話だけど。さっちゃんをここから出せるって話、本当なの」


 晶の肩から手を離すと里子は、椅子に座りなおしてそう話を切り出した。


「ん、ああ本当だよ。……まあ、さすがにこっちのベッドに寝ている本体っていうか体の方はこのまま生命維持装置を付けて病院に置いておかなきゃいけないんだけど、こっちのサッキンは退院できるようにしてあげられる。もちろん合法的にじゃないけどね。」

「こんな非常識な事態が起こっていると言うのに、合法も非合法も関係ないでしょ」

「さすがロリちゃん、話がわかるね」

「そのロリちゃんって言うのはやめてよ。体型のこと気にしてるんだから」

「まあいいじゃん、ロリちゃんはロリちゃんなんだし。それじゃ、いつ退院させる?」

「できるだけ早く。やれるのならもちろん今日、今すぐで」

「ずいぶんと急ぐな。わかった、それじゃあ……」

「おいっ! あまりにも話が急展開だったからいまいち付いて行けてなかったけど。ちょいと待て二人とも。肝心の本人の意見はどうしたんだ。僕を退院させる相談だったら当事者放っておいて勝手に話を進めたりしないでよ」


 やっとのことで二人の会話に割って入ることができたが、時すでに遅し。

すでに二人の話は僕を今日、今すぐ退院させる方向で大方まとまってしまっていた。

 二人はこちらを振り向くとじっと僕の方を見た。


「な、なにかな」


 パイプ椅子からすっと立ち、それから僕の両肩に片手を乗せて二人で声を揃えて一言。



「「男なら黙って女について来い」」



 うわー、二人とも頼もしい。

 何かさっきから僕二人に圧倒されてばっかりで抵抗らしい抵抗ができてないような気がする。そんな気がするだけじゃなく、実際にそうなんだけど。チビで女顔だったとしても、男としてこれでいいのかと悲しくなってくる。

 負けるな僕!




 退院は思ったよりもすんなりと済んだ。

 晶が裏口から入って来たと言っていたので、てっきり医者たちの目をかいくぐって病院から脱出でもするものかと思っていた。けど現実は僕達は晶に連れられるまま普通に病院の窓口に行って何か分厚い書類を渡して、この後はそのままめでたく退院ということだった。


「……ずいぶんとあっさり済んだね」

「そう言ってもまあ、書類を揃えるのが大変と言えば大変だったんだけど。退院するのが大変だなんていつ言ったかな。刑務所から脱獄するんじゃないんだから、そんなに気張るなよ」

「だってさっきアキラが人目を避けて裏口からこっそり入って来たって、言ってたから。……あれってもしかして、話の流れで言っただけのただの冗談だったのか」


 先行していた晶がこちらを振り向き、裏口と言うか非常口を指差す。


「冗談ってわけじゃないよん。だってこれから正面入り口を通らずにそこの裏口からこそこそと逃げ出さなきゃいけないんだし。裏口に車が用意してあるからそれに乗り込んでいくよ」


 僕と里子は晶の後ろを付いて行きながら「車?」と、二人して首をかしげた。


「ここの病院って実は設備もそれなりに整ってるから、どこぞの有名人なんかも使ったりしているんだよね。だから報道陣なんかに見つからないように専用車両出口っていうのが用意されてるわけ。これから見つからないように、うちの車に乗ってそこから出ようってわけなのよ」


 なるほど、人目を避けてってのは報道陣の目ってことだったのか。


「その車って普通の車か?」

「? タイヤが四つ付いてる普通の車だけど。普通じゃない方がよかったか」

「普通じゃない車がいいっていうか……」


 下手に護送車みたいな厳つい車を使ったりすると逆に報道陣のいい的になるか。


「いや、個人的にちょっとそれっぽい感じのを期待っていうか予想してたってだけ。普通の車を使った方が目立たないってのは確かだしね。でもそれならのこといっそ怪しまれないように一般の通院客に紛れて正面から堂々と出て行った方がいいんじゃないのか」


 怪しまれないようにするなら、有名人専用みたいな特別な出口を使用するより、正面入り口を使った方が絶対にいいはずだ。ここを使ったらかえって怪しまれるだろう。

 だけど晶はその意見に反対した。


「確かに正面から堂々と出た方が怪しまれはしないだろうけど。でも、それだと正面入り口の前で見張ってるあの黒服さん達にバッチリ見つかっちゃうと思うよ」


 そう言って晶は窓の近くで立ち止まると。細い腰に巻かれていた黒いウエストポーチの中を探って双眼鏡を取り出し、外を指差した。勿論外から見えないように隠れながら。


「ロリちゃん、あの植え込みの辺りを見てみ。前に出過ぎないようにしてこっそりと」


 晶から双眼鏡を受け取った里子は、窓近くの柱に隠れるようにして外を覗いていた。里子は植え込みの辺りをざっと見回すとすぐに双眼鏡から目を離した。


「……へぇ。うまく隠れてはいるけどあの黒服はあからさま過ぎるくらい怪しいわね。ざっと八人。いや、そこの植え込み以外に隠れている人達も合わせて十二人ってところかしら」

「そこの植え込み以外も見つけるとはさすがロリちゃんだね」

「下手なお世辞はいらないわよ。……それであの人たち何者? 植え込みの中にわざと見つけやすい囮を使ってるところを見てもまったくの素人って感じじゃなかったけど」

「あそこの人たちが囮だってことにも気付いたとは、ロリちゃんはやっぱりさすがだね。……えっと、サッキン。子の前トラックに轢かれたとき、撥ねられたときだったっけ、まあどっちでもいいけどその相手がどんなのだったか覚えてる。正確にはどこのトラックかだけど」


 里子から双眼鏡を受け取るとウエストポーチにしまった。そして晶は僕と里子の方に体ごと向けて話した。顔は相変わらず飄々としてはいたが、口調は若干真剣なものへと変わっていた。


「……確かあの時僕を撥ねたトラックにタケトリ製薬のロゴが入ってたけど。……それじゃあもしかして、あの正面入り口の外にいる黒服たちの正体って――」

「やっと気付いたのか。そう十中八九あの黒服達はタケトリ製薬の関係者だろうな。おそらく会社で起こした不祥事を何とかして他言しないように取り計らってもらおうとでもしていたんじゃないか。始めは病院の手配もわが社がするとかって言ってたからな、轢き逃げした癖に。勿論そんな勝手な申し出は断ってやったがな。その撥ねた相手がこうなってしまっているとも知らずに身勝手な奴等だ。……いや、だけどもしかしたらそう見せかけて今回の事故の唯一の目撃者っていうか被害者であるサッキンを秘密裏に消そうとしたのかも。……うーんとまあ、さすがにそりゃないか。漫画じゃあるまい」


 まあ、いいやの一言でその話は終わったのか、晶は窓際から戻って再び歩き出した。

 晶は笑ってごまかしていたが、そうだった可能性も捨てきれないんじゃないのか。



     ◆     ◆



 場所は近所にある大型ではないが品揃えの豊富さと安さに定評があるスーパーマーケット。その駐車場に二人の学生が呆けたようにぽつんと立っていた。


「…………普通の車ってあれのことだったんだね」


 裏口から晶の車に乗って我が家の前まで来たのだが、その車が――


「あれが普通の車だったら、ここら辺に走っている普通の車が普通じゃなくなるけどな」


「あれってなんて車だっけ。よく知らないんだけど」

「ランボルギーニ・ムルシエラゴ。……二人乗りの車なんて用意するなよ」


 ……ぜんぜん普通の車じゃなかった。


 あの後晶の後ろをついて行き、例の有名人専用出口みたいな開けた場所についてみると。そこにはスーパーカーが停められていた。はっきり言って、思いっきり目立ちまくりだった。


 いまだに街中で公衆電話の電話ボックスが撤去されることもなく現役で活躍しているような中途半端な都会だぞ。そんな町の道をランボルギーニなんかが走ったりなんかしたら、そりゃ目立つに決まっている。

 道端で振り向く歩行者の中には興奮してケータイで写真を撮りまくる人までいた。


「正確な価格とかはよく知らないけど、……あれって新車なら三千万から四千万はするよな。中古だったとしても一千万は下らないと思ったし」

「見た目によらず、いや今日のあの私服を見た後だと印象は結構変わってるけど、あきらさんって実はすっ……ごいお金持ちだったんだね。……でもそれより私が驚いたのは、あきらさんがその車を運転したってことだね。……高校生って免許取れるんだっけ?」

「取れるはずないだろ。……何者なんだアイツ」


 その場でしばらく動けずにいると、車からいかにもボディーガードって感じのサングラスを掛けた女性が降りてきた。服は黒いスーツ姿、腰の辺りにまで伸びた髪を軽くまとめている。

 女性ならそれくらいの身長の人がいてもそう珍しくはないがその彼女の身長はやけに小さく、晶の腰のあたりまでしかなかった。その彼女は晶に二、三何か言ってから車の鍵を渡すとそのまま別の車に乗ってどこかへ行ってしまった。


 不覚にも完全に不意打ちだったため、まったく反応できなかった。

 つっ込みどころ満載の状況でつっ込みのひとつも入れられなかったことが少し悔しい。

 だが本人に直接話を訊いてみようにも、さすがに運転中は下手に話し掛けられる雰囲気じゃなかったし、ここに僕達二人を降ろした後もこれで用はもう済んだとばかりにさっさとドアを閉めて帰ってしまった。


 だがその派手な車で出てきたことが功を奏したのか、黒服さん達にも報道陣にも警戒されることなく病院を出ることができた。木を隠すなら森の中とは言うが、むしろ木は公衆の面前に出してこそ疑われないということだろうか。怪しすぎて逆に疑われない、っていう。


 晶は普段から掴み所のない性格をしているが、今日のあいつの行動はいつにもまして捕らえ所がなかった。まるで、ふらふらと歩き回っているばかりでなかなかそのしっぽを掴ませない野良猫のようだった。ただ付けているのは残念ながら黒いウサミミだったけど。

 ……いやはや、何が残念なんだろ。




 僕達は元の体に戻るために、とりあえず何か行動してみることにした。

 ……だが、そうは言ってもまずは早急にうちの家計の問題を解決しなければならないので、里子に頼んで銀行の口座から当面の生活費を下ろしてもらい、その後色々と買い物を手伝ってもらったりした。……そういえばこうやって里子と買い物をするのもずいぶんと久しぶりだ。


「本当なら銀行から金を下ろしてもらった上に無理に買い物に付き合わせた立場だし、こっちが全部荷物を持たなきゃいけないはずだけど。……本当にごめん」


 里子の両手には食材や生活用品がいっぱいに詰まったエコバックとビニール袋。対して僕は何も持たずに手ぶらでその横に並んで歩いている。物を持てないからといって、何も持たずにいるのは。ある意味荷物を持ちすぎることよりもきつい。


「何で謝るのさ。始めからさっちゃんは荷物は持てないだろうってことはわかっていたことだし。それから私言ったよね、お金以外のことなら私が何とかしてあげられるって。だから気にしないで。これは私がやりたくてやってることなんだから」

「……本当に申し訳ないっす」

「だから謝らないで」

「…………はい」


 そうは言うけど、当分は里子に頭は上がらないだろうな。

 感謝しても感謝し切れない。




 買い物の後しばらく店の近くをぶらぶらと歩いてから家に帰ると、玄関に入ろうとしている神楽に会った。口には食べかけと言うか、食べ始めの長いフランスパンがあった。


「ふぁんふぇひーふぁんふぁふぉふぉひひふほ?」

「おい、妹。何でお前の方が後に帰宅するんだ」

「ふぁふぉひひひっへははは。ふぉへふぉひ、ふぁんふぇふぁふぉふぉひ――」

「それはいろいろと説明するのが面倒だから後で」

「ふぇんほふふぁふぁはふぁほへほはふぁんふぁ!」

「面倒なもんは面倒だからだ、後でしっかり説明はしてやる。それから当面は里子のおかげで食事の心配をしなくてよくなったので、お礼をちゃんと言うように」

「……へっほふふぁひほんへふはん」


 小さな口をもぐもぐと動かすと少しずつフランスパンが短くなっていく。これなら直に食べ終えるだろう。うちの家族はみんな小さいくせによく食べるからな。しかし、何も付けないでよくそんな乾いたものを食べられるよな。水なしで食べる素のフランスパンなんてぼそぼそとしていて食べられたもんじゃないぞ。


 でも今はそうじゃなくて。話をするときに口にパンをくわえたままで喋るなよ。行儀が悪いとかもあるけど、ぷっちゃけ人間の言語に翻訳するのが大変だ。


「……ねえ、全然わからなかったんだけど。神楽ちゃんは何て言ってたの?」


 両手に荷物を下げたまま立ち尽くしていた里子が不思議そうに聞いてきた。

 変なことに興味を持たないでくれ。


「えっと、さっきのを人語に訳すと『なんで兄ちゃんがここにいるの?』『遊びに行ってたから。それより、なんでここに――』『面倒だから後でとは何だ!』で、最後のやつは『……結局――』……いや、とまあそんなところだな」


「へぇー、さすが兄妹だね」


 正確には最後は『結局巻き込んでるじゃん』と言ったのだが、そこは省略させてもらう。

 あまり本人にそのことを知ってもらいたくはない。


「ふぉふぉひゃほー! ふぁほー!」

「今のは『高射砲! 発砲!』って言ったんだな。別にそれほどってわけじゃないけど。ほらお前もいつまでもパンをくわえてないで、さっさと食べ終えちまいな。あと、これから里子に食事作ってもらうから手伝ってくれよ。いくらお前が極度のめんどくさがりやだと言っても、自分の食事の手伝いくらいはしてくれるよな」


 たぶん本当は『このヤロー! アホー!』って言ったんだろうけど、無視だ。


「…………んぐっ、里子さんがいるからって、急に態度がでかくなりやがって。ムカつくな、……ああそういえば今、兄ちゃんは何も食べられないんだったっけ」


 最後の方は無理矢理のどの奥に押し込むようにして残りのパンをすべて食べ終えた神楽は、苦しそうに胸をさすりながらこっちに明らかに何かをたくらむ目線を送ってきた。


「………………ああ、そうだな」

「そうかそうか、それは残念だね。……それじゃあ一人分少なくて済むわけだから、里子さんには張り切って美味しい昼食と豪勢な夕食を作ってもらおうかな。なに、大丈夫心配するな、兄ちゃんの分まで食べたりなんてひどいことはしないさ。……兄ちゃんの分のお供えは仏壇にしっかり焼香と一緒に供えてあげるからね!」


 今日一番の笑顔で言いやがった。


「だから死んでないっての!」



 昼食を食べ終えた後、三人で話し合った結果。里子にはしばらくの間この家に泊まっていてもらうことになった。里子の両親は二人で海外に勤めている。中学の頃は違ったのだが、里子が高校にあがってからは学生寮に一人暮らしをするようにしているのだ。


 その学生寮に二人が押しかけるわけにもいかないので、この一軒家に一人が来てもらった方がはるかに楽だ。それにちょうど部屋は出張している母親の部屋が空いているので心配ないし、今は夏休み中だから泊まる事に関しては特にさしたる問題はないだろう。

 話をしている最中、妹に信じられないものを見るような目で見られていたような気がするが……たぶん気のせいだろう。




 話し合いを兼ねた食休みの時間を少しばかり取った後、現状の確認をしない分には打つ手がないので、いったんあの病院まで戻りこの僕に何が起こっているのか自分達なりに一度改めて調べてみることにした。

 だがいざ病院に着いてみると、正面入り口付近にまだ黒服さん達が立っていた。


「……けっこう警戒厳しいな。どうしようか」

「茂みに隠れて囮を一人ずつ襲い、それに気付いて出てきた残りを一気に仕留める」

「…………やるなよ。できるだけ穏便に済ませようとしてくれ」


 やる気満々でガッツポーズしないでくれ。

 冗談で言っているのならともかく、里子がそれを言うと十分それを実行してしまいそうだ。……いや、おそらく実行して難なく成功してしまうことだろう。……できればそれは勘弁してもらいたい。成功すればいいという問題じゃない。その後が問題だ。


 そこで僕達は、まず先に里子に院内に入ってもらい僕は後から黒服の目を盗んでこっそりと別の場所から壁に潜って中に入った。まさか扉も窓もない壁から入られるとは思うまい。

 やっぱり、壁抜けこそがお化けの真髄だ!




 こっそりさっきの病室に入り色々と試してみた結果、この体というかその体に起こっていることは何となくわかったのだが、すでに病院で教えてもらってあった内容以上のことはわからなかった。やっぱり、このあたりが科学で調べられる限界ということだろうか。


 この体に何が起こっているのかわからない以上自分たちにできることは他にないので、僕と里子は二人で片っ端からこの僕の体に起こったことに似たような事例がないか探してみることにした。調べるにしてもその程度はたかが知れているけれど、何もしないよりはマシだ。

 僕は手分けをして探した方が効率もいいし早く済むと言ったのだが、里子が断固として二人で協力してやる案を推し続けたため、最終的に僕の方が折れることになった。

 あと、晶にはこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかないので、始めから人数にはカウントしていない。そして神楽にいたっては始めからやる気なし、協力する気など欠片もないらしい。


 あいつがいれば探し物とかは楽にできるのだが、肝心なときにサボりやがって。

 行動開始はとりあえず明日から。まずは学校に行き、図書館で古い文献や資料を調べてみることにした。晶が前に言っていたのだが。うちの高校、萌葱高校はその古い見た目通りに結構長い歴史があり、重要な文献や珍しい書物もたくさん保管されているらしい。

 ここならもしかしたら似たような事例を見つけられるかもしれない。

 ……これも晶からの受け売りなのだが、萌黄高校は怪奇現象や超常現象がよく起こることで有名な、知る人ぞ知る絶好のミステリースポットでもあるらしかった。そしてなぜその知る人しか知らないはずの情報を晶は知っているのだろう。

これも考えるだけ無駄な話だろう。


 ちなみに今日の昼食は特大オムライス、夕食は出前の特上寿司だった。

 …………畜生!


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