『逸《イチ》』話「それでは、さようなら」



 僕らの隣には、いつも変わらない日常がある。

 気が付かないうちに近くにいて、でも決して触れることはできない。

 その箱庭のように小さく囲まれた世界をすべてだと思っている。

 その箱庭がもろく、すぐに壊れるものだと思いもしないで。

 頑丈で決して壊れないものだと思って大切にしている。


 だから僕は望んだ。

 壊れてしまった日常を非日常と言うのなら。

 この世界が、僕の日常が壊れるようにと願った。

――でも、今日も日常からは抜け出せない、いつもと変わらない。



     ◆     ◆



 僕の名前は伊澄いずみさかき

 萌葱もえぎ高校に通う高校一年、自称読書家。成績は中の下、つまり普通の生徒達よりは少しバカ。実は運動神経は抜群なのに、中学校の頃からずっと帰宅部に所属。そしてけっこう喧嘩好き、でもかなり小柄でそれっぽくは見えない。むしろ残念なことに護ってあげたくなるような幼い女の子みたいに見えるらしい。勿論そう見えたところで自分は身も心も完全に男の子なのだが、入学した当初は本当に女子生徒に間違われて(うちの高校の制服は上着が男女共通のデザインなので、その下に穿いているのがスカートかズボンかというくらいしか違いはない)始業式があった一日のうちに十数人の男に告白されてしまった。……しかも恐ろしいことに、その中に教員も数人混じっていた。まったく、世も末だとしか言いようがない。

 勿論すべての申し出を断った。

 当然だ、受け入れるわけがない。




 僕は別に幽霊が見えるような特殊で特異な人間ではない。

 いや、なかったはずだ。


 霊感や霊能力なんてものはこれっぽっちもないし、人魂どころか心霊写真さえも一度も見たことがない。だから中学の頃クラスでやった夜の学校の肝試しでは中々僕が怖がらないので、出てきたお化け役の人に残念がられた。残念がられても僕の責任じゃない、残念がるな。


 そもそも幽霊なんて存在は信じていない。

 人間でも動物でも、虫や植物でも生きているものは死んでしまえばそれで終わり。終わった人生に未練があろうとなかろうと続きなんて都合のいいものは用意されてなどいない。


 ありきたりな言い方をすれば、人生はゲームじゃない。

 現実の人生にはリセットボタンなんて都合のいい装置はついてないのだ。そして同じように人生にはゲームオーバーもなく、どれだけ失敗してもその失敗した人生を続けるしかない。

 ……そう、だから自分が死ぬまでそんな幽霊なんてものは信じていなかった。



     ◆     ◆



 空は夕日に染まり始め、青かった空はすでに綺麗な茜色に変わっている。

 暦の上でようやく夏になったと言っても所詮そんなものは名ばかりのもので、梅雨明け宣言が出された後も諦めが悪く週に一度は夕立が降り続いていた。そのせいか涼しいと言うよりは少し肌寒いくらいだった今年の夏。


 そんな職務怠慢気味だった夏の陽気も、今になってようやく本来の自分の役目を思い出したようにじわじわと肌を焦がすよう暑くなり始めた。

 そしてもうじき勉強するには長く、遊ぶには少し短い夏休みが生徒達を待っている。……いや、生徒達が心を弾ませて夏休みを待っている。




 そんな夏休み前の騒がしい頃、窓から夕日の差し込む教室では担任から夏休みの過ごし方や夏期講習実施の話。学校近辺で通り魔事件があり、うちの生徒が一人被害に遭って亡くなってしまったと言う悲しい話。最近はとくに世の中も物騒になっているのであまり夜遅くまで遊んでいたらだめですよ、気をつけて下さいね。……という夏休みを目の前にして恒例の余りにもあり難くない話がされていた。


 気をつけるように、という話はいいのだが。生徒が一人亡くなった、それも殺されたというのに休校にもせずに通常授業の姿勢を崩さなかったうちの高校の方がよっぽど危機感が足りていないと思う。

 そういえばこの前亡くなったその、なんちゃらさんの冥福を祈る全校集会があったけか。


 亡くなったのは……、なんて名前だっけ。結構変わった名前だと思ったけど。

 ……まあ、色々とこの不満を言ってみたところで僕の事件に対する関心の度合いなんてものもせいぜいこんなものだ。危機感なんてものはこの高校以上に足りていない。

 こんなものじゃ僕の日常は変わらない。




 ちなみにうちのクラスの担任、学校のアイドルみほちゃん先生こと本名三堀みほり保奈美ほなみ先生は、つい三ヶ月前に教員免許を取り先生になったばかり。クラスの人気者だ。


 しかし副坦をとばしていきなり担任、それどころか学年主任になってしまったからなのか、話す言葉がところどころ噛み噛みで注意して聞いていないと何と言ったのか良く分からない。舌足らずというわけじゃない、はっきりと喋っているのにだ。


 うちのクラスの特殊な男子達が言うにはみほちゃん先生の、実は私小学生なのと言われたらうっかり信じてしまいそうなほどにロリぃな体躯(先生は現在二十三歳)と、その噛み噛みな喋り方との絶妙なコンビネーションプレイが見事にど真ん中ストレートでバッターアウト必須なのだそうだ。……もはや何を言っているのか分からない。


 使用言語が本当に日本語なのかも不明だ。

 もしかしたら本当に違う次元の言葉を使っているんじゃないだろうか。


 それにしても、つい最近教員免許を手に入れたような教師になりたての新米教師をいきなりクラス担任、それどころか一年生の学年主任に指名してしまうとはいったい学校は何を考えているんだろう。ここ最近はどの学校でも教師不足だという話はよく耳にしていたが、こうまでしなければいけないほど現状は深刻な状態だとでも言うのだろうか。

 ひとまず、閑話休題。


 そんな小学生のうちに暗唱出来そうなくらい使い古された話を長々と聞かされ続けた午後のHRも終わり、部活のある生徒はぞろぞろと各自の部活へ意気揚々と向かい、部活のない生徒はだるい体を引きずりながらぞろぞろと大きな塊を作りながら帰って行く。




 それからもう少しばかり時間が経った。

 日はすっかり山裾へと隠れ、茜色だった空も今は急に暗く藍色に近く染まり、そろそろ一番星が出てきてもおかしくない時刻となった。下校時刻後に教室の明かりは付けられておらず、窓からわずかに入る弱い光だけでは顔もよく見えない。


 もう既に教室の中には、部活に出ている訳でもないのに学校で適当に話をしたりして時間を潰していた暇な数人の生徒が残っているだけとなった。

 部活もないのなら学校なんかに残っていないで早く家に帰れよと言いたい。

 まあ、かく言う僕もその暇な数人のうちの一人だけど。



 窓に映る自分の冴えない顔を見ながらボーっと座っていると、後ろから声を掛けられた。


「おーいっ、サッキン早く帰るぞ」


 サッキン、それが僕に付けられた綽名だった。

 でもこの変な綽名あだなで僕のことを呼ぶのはクラスで、いや学校でもただ一人。とどろきあきらだけだ。けど何でサッキンだなんて変な綽名なんだ。それじゃあまるで僕が消毒でもされているみたいじゃないか。僕は細菌か何かか!


 晶は飄々ひょうひょうとした薄ら笑いを顔に貼り付けて僕のそばにやって来た。そして僕の前にある机にどっかりと腰掛けた。よく僕もやるけどなぜか学校の机って妙に座るのに適してると思うんだよな。……だからどうしたって感じだけど。


「うぃー、分かった……でも、ちょっと待ってくれ」


 机の横に掛けてあった鞄を持ちながら僕はそう言う。

 さっきまでは特に何もすることがなく、暇だったというのに帰る準備も済ませていない。


 自分のことながら趣味がないことは寂しいと思う。いちおう読書が好きだからそれが趣味と言えば趣味だろうが、それもかなりの濫読だ。古書から新書、ライトノベル。ハードカバー本から紐綴じの本まで何でも読んでいる。著者とかにも特にこだわりはない。ようするにどんな本であってもそれなりに読めて面白ければ何でもいいと思っているわけだ。


 それに今日もって来た本は授業の合間にすべて読み終わってしまっていた。

 読書が趣味だという奴はただの怠け者だ。

 母親からの受け売りだが、つくづくそう思う。当の母親には特に趣味はないらしいが。


「ん、何か先に予定とかでもあったのか。……ああもしかして、あのきゃわいい彼女と一緒に帰る予定だったのかな。そりゃ悪かったな、お邪魔虫はさっさと帰りますよぉ」

「きゃわいい彼女って誰だよ。違う違う、まだ鞄に教科書詰めてないんだよ」


 晶の妙にイラつくにやにや顔と、何も入ってなさそうな鞄を見ながらそう言った。


「……ところでお前は今日、何も持ち帰らないつもりなのか。アキラは基本的に教科書は全部置きっぱなしにしてるだろ、ロッカーや引き出しの中とか結構詰め込んでるみたいだし。明日が終業式なのに大丈夫なのか。教材は全部持ち帰りってことになってるだろ」


 ちなみに僕は毎日全部持ち帰る派。学校で何かなくなったりしたら大変だし。

 だが晶は胸を張るとなぜか自慢げに笑い始めた。


「ふふふっ、大丈夫、心配いらん。教科書は明日まとめて全部持ち帰るからモウマンタイだ! だから明日はそのために特別に大きい鞄で来ることになるのかな。……しかしどうなんだろう、登山とかに使う鞄にでもすればいいのか?」


 ……いや、心配はしてないが、さすがに全部持ち帰るつもりだとしてもそこまでの大きさはいらないんじゃないのか。せめて使うにしてもボストンバックとかだろう。

しかし、晶には学校に置かれた持ち物が盗られるかもしれないとかそういう心配はまったくないらしい。ここらへんが学校というものを信頼していない僕と、学校を信用している晶との違いなのだろうか。実際、晶が本当に信じているのかは知らないが。


 だけど鞄に入れるのはいいとして、それを背負って帰るつもりなのか。選択している教科がわりと少ないならいいけど。それでも、教科書類や何やらの教材を全部合わせれば結構な重量になるぞ。……まあ、こいつならそれくらいは軽々とできるか。

 線が細いくせにやけに力持ちだし。


「ならいい、好きにしてくれ。じゃあ行くよ」

「おう、さっさと帰ろう」


 そして僕らは教室を後にした。

 これもまた、変わることのないいつもの日常の一部だった。




 車もあまり通らない静かな道。電灯の数もあまりなく、ずっと奥まで暗闇が続いている。

 この時間は歩いている人も少ない。今は二人だけだ。


「あーあ、何で隣にいるのが小さくて可愛い妹キャラじゃないんだろうな」

「寝言は寝てから言いいな。こっちだって女みたいなサッキンと並んで歩いていたら彼氏彼女の仲だと思われちまうだろうが。あーあ……、こいつがこんな乙女チックなお子様だとしても、なんか大事な彼氏奪っちゃったみたいでロリっちに悪いな」


 お互い馬鹿な軽口を言い合いながらたらたらと歩く帰り道。

 晶とは高校からと、意外と短い付き合いだ。

 高校へあがるときに中学の頃の友人はみんな県外へと出て行ってしまい、この地元の高校へ進学したのは僕とアイツだけだった。それでもアイツは持ち前の明るさと人当たりのよさで、あっという間に新しい友人を作っていった。


 対して僕は根っからの引っ込み思案なのでなかなか友人を作ることができなかった。

 それなのに晶はそんな時間の差などまるで関係なく、昔から知り合いで友達同士だったかのように接してくる。はじめに会った時からもうそうだった。何の接点もないのにいきなり当然のように遊びに連れ出され、訳も分からないうちに泥棒の片棒を担がされていた。


 今となっては苦い思いでだが、悪い思い出ではなかった。

 晶の第一印象は滅茶苦茶で、天真爛漫で破天荒。何よりも変わった奴だった。

 その印象はそれからしばらく経った今も変わることはない。

 だけど今は僕にとって、晶は時間や他のものなど関係ないくらいの親友となった。


「だからアイツは関係ないだろ。……それに、誰が女みたいな奴だって。だいたい僕とアキラだったら一緒に歩いてても彼氏彼女なんかには見えないだろ」

「そうだな、学校帰りの仲のいい家族って感じだな」

「僕が弟ってことか、その感じだと」


 だけどまあ、身長的にも晶を相手に僕が兄って設定はどうせ無理な話だから、そこらへんが妥当な線って感じか。晶はなんと言っても僕より頭ひとつ分くらい大きいのだ。


 僕がこの年代の平均身長より、……ほんの少しばかり小さい、ってこともあるけど。それを抜きにしたところで晶は周りの人から文字通り頭一つ分飛び抜けている。校内でも同じくらいの身長の奴はそういないはずだ。

 もし出来ることならその身長を十センチばかし分けてもらいたいくらいだ。


「別にこっちとしては、可愛い息子ってことでもいいけどな」

「それはさすがにない。いくら僕でもそこまで幼くは見えない」


 ……はず。力強く言えない自分がなんとも情けない。


「別に可愛い娘ってのでもいいんだけど」

「性別が違うだろうが!」


 それは強く否定する! 断じてない。あってたまるか!


「おすすめとしてはみほちゃん先生と並んで仲良し姉妹とか。結構マニアが萌えるぞ」

「そんな個人的趣味のおすすめがあってたまるか! 変なマニアなんかに萌えられるのも絶対嫌だけど、尊敬すべき担任である三堀先生をこの妙な話に組み込むな!」


 思わず一瞬思い浮かべちゃったじゃないか、みほちゃん先生と僕が楽しく手をつないで帰るその姿を。似合いすぎてて逆に気味が悪いわ!


「それにだいたい僕は下にこうしてスラックス穿いているし、この着てる服で学年はともかく性別くらいは分かるだろ。少なくとも僕の性別は女の子とは間違えられはしない!」

「いやいや、世の中にはスラックス穿いてる女生徒だって何人もいるんだ。だからその偏見は男女差別に繋がるぞ。……うーんと、だけどまあごめん。そんなに怒るなよ、お詫びになんか飲み物買ってやるからさ」


 怒る僕を適当にいなして、いつの間にか見えてきた自販機を指差してそう言う晶。


「……二本で手を打ってやる」

「ダメ、一本まで。お子様の癖に欲張らないの」


 ……なんだかずいぶんと軽くあしらわれている感じがする。

 そう言えばさっきからなぜかお子様呼ばわりされているし、僕ってそんな立ち位置なのか。財布の中身を確認しながら口笛を吹いている晶の横顔を恨めしそうに見る。


「何飲む? おすすめは無糖ブラックコーヒー。あ、サッキンにブラックは無理か」

「だから、何かあるたびに人を子ども扱いするな!」


 ブラックコーヒーくらい飲める。確かに無糖は苦手だけど、飲めないことはない。


「なんだ、サッキンは大人扱いしてもらいたいのか?」

「僕は正当な扱いをしてもらいたいんだよ」

「不当な扱いならいくらでもしてやるが」

「それこそ最低の扱いだ!」

「馬車馬のように扱ってあげようか」

「もっと酷いのがあった!」


 馬車馬のように扱うってことも不当な扱いの一つなんだけどね。

 しかし、同級生にここまで酷く扱われる奴ってのも珍しいだろう。

 ……いや、最近の世の中ならこれくらいは普通か。だってほら、学級崩壊とかって流行っているみたいだし。これくらいの苛めは苛めには入らないんじゃないか。


 まあ、これも半分以上偏見だけど。

 だから何て言うか、多聞に違わずそんな流行の波にしっかり従ってしまっている感じ。

 ……こんな嫌な流行は僕の心の平穏のために早く廃ってくれることを願うばかりだ。


「それでサッキンは何が飲みたいんだ。……おい、目が死んでるぞ」


 遠い目であさっての方を見ていると晶の声が聞こえた。


「そうだな……、コカコーラとホットココア」

「まったく逆な飲み物じゃないか。買うのはどちらか一本だけだからな」

「うーん、どっちか一本だけにしろって言ってもどっちも捨てがたいんだよな。今日の気分的にはコーラが飲みたいんだけど、最近はまだ夜道が寒いしココアもいいんだよな」


 最近ようやく夏っぽくなってきたとは言ってもそれは日の出ている間だけの話で、 日が山に隠れてしまえば今度はまるでもう秋になってしまったかのように寒い風が吹き渡っている。


 そういえば、うちのクラスで自称萌高(我らが萌葱高校の略称だ。妙にかわいらしすぎる)一の予報屋というか予想屋を名乗っている奴が言うには、今年の夏はこのまま気温がこれ以上暑くならないまま過ぎて、一足以上早く寒い冬がやってくるから早めにスキー、スノボ用品を揃えてカップルで雪上デートをするのが好ましくなるらしい。


 さすがにそんなことは起こらないと思うのだが、こうやって首をすくめながら寒い風の吹く夜道を歩いていると、あながちそれも間違っていないような気がしてくるから不思議だ。

 いや、雪上デートの話じゃなくてね。


「ふーん、あっこれにしとけよ」


――ガコンッ


 こっちがどっちにしようかとまだ悩んでいるうちに、(全然関係ないことを考えていたが)晶の方はさっさと買う飲み物を決めてしまったらしく自販機から出てきた缶を取り出し、それをこっちに投げてきた。


「おおっと。……何だこれ、ココア・コーラ?」


 ……これはアレのパロディー商品ということなのだろうか。だが、それにしてもこの二つの組み合わせはないだろう。さすがに僕もとんでもない挑戦をしていると思う。


「……お前が飲めよ」


 受け取った缶を晶に投げ返す。

 これにはなぜか嫌な予感がする。嫌な予感を感じたのなら下手な挑戦はやめておく。


「やだ、奢ってやる以上文句を言うな」


 だが、晶は僕が投げたそれを間髪入れずに片手ですぐに投げ返してきた。

こっちに向かって飛んでくる缶は速さもパワーも桁違いだ。何とか両手で缶を受け止める。

 ここは大事になる前に大人しく飲んでおいた方がいいのかもしれない。……だが、このまま何もせずここで力に屈するというのも癪だ。少しくらいは晶に抗ってやる。

 こうなれば意地だ、飲まないで済ませてやる。



「僕はいいから、アキラが飲めよ」

「断固拒否する」

「奢ってくれなくていいから」

「その提案を却下する」

「これには美肌効果があるらしい」

「その手には乗らない」

「なら口移しで――」

「論外、死ね」


――スカーンッ


 テンポ良く二人の間で飛び交っていたココア・コーラの缶が、晶の豪腕によって缶一本分の重量を持った投擲武器となり、(イメージとして『スカーンッ』という軽い感じのソフトな表現を使ったが、実際に辺りに響いた音はどちらかというと『ボゴッ』という鈍い音に近かった)榊の頭に直撃した。


「……分かった、飲むよ。飲めばいいんだろ」


 頭部に直撃を喰らい見事に道路にひっくり返っていた僕は頭をさすりながらゆっくりとした動きで起き上がり、近くの転がっていた歪に変形した缶を乱暴に掴んだ。


 一瞬で缶が変形するほどの勢いで投げた晶もすごいが、その缶が頭に当たって無事でいる僕も結構すごいのかもしれない。まあ、さっきから頭がどうもクラクラとしているし何の問題もないくらい無事ってわけじゃないけど。……軽い脳震盪くらいは起こっているかもしれない。


 頭をさすってみると小さなこぶになっている。血は出ていないみたいだ。

中身のしっかりと詰まった缶の全力投球(球ではないが)を食らって、小さいながらも頭にこぶを貰ってまでしてもらうお詫びにいったいどんな意味があるんだろう。……ありがた迷惑って確かこんなときに使う言葉だっけ。違うような気がするけど。


 そう思いながらしぶしぶ缶のプルトップに手をかけた。

 そういえばこの変わった飲み物の名前はココア・コーラだったな。

 コーラか、ってことは……。


――ブシャーッ


「………………」


 炭酸飲料を良く振ってから蓋を開ければ当然こうなるわけである。

 見事に顔面直撃だった。髪から服へと滴るココア味の雫がべた付いて結構気持ち悪い。


「あはははっ! バカだ、ここにバカがいる」

「…………他に何か僕に言うべきことはないのか」

「どんまい!」


 とびっきりの笑顔で親指を立てられてしまった。ついでに歯までキラリと光っている。

 無意味なまでにさわやかな笑顔だ。それがなんとも憎たらしい。


「………………ありがとう」もう何も期待はしないよ、そう続けたかったがやめておいた。


 手元に残された缶を振ってみる。どうやら中の炭酸もすっかり抜けて、中身も残り半分あるのかどうかくらいになってしまったようだ。勿体ないことをしてしまった。


 ――ゴクンッ……


「……あれ、意外と美味い」

「えっ、マジで」


 嘘ではない、本当に結構この組み合わせは思ってたよりあっていたのだ。けどまあ、不味いだろうと思ってたところにこの味だったから、必要以上に美味く感じただけかもしれないが。


「…………飲んでみるか」


 残り少なくなったココア・コーラの缶を晶に渡した。


 ――ゴクンッ……


「…………本当だ、結構美味い。でもこれって炭酸が抜けてたから美味いんじゃないのか」

「まあ、たぶんそうなんだろうけどね。だけどこれは正しい飲み方じゃなかったけど、これが美味しい飲み方だったみたいだ。注意事項は人に向かって缶を開けないってことかな」


 飲む前に量が半分になるってのも欠点かもしれない。


「こんな飲み物があったんだ。知らなかったなぁ……」

「世界はまだまだ広いってことだ」

「ああ、世界は広いな」


 飲み物一つで世界の広さを知った気でいる高校生がここに二人いた。


「………………でも、改めてココアのホットでも買わないか」

「……そうしようか、だいぶ体が冷えてきた」


 その二人に向かって冷たい風がここぞとばかりに吹いてきた。




「何か拭くものでも貸そうか」

「いや、いい。その気持ちだけもらっておくよ」


 正直に言えば、顔に満遍なく振りかけられたココア・コーラが滴って結構べたべたになってきてかなり気持ち悪い状態になっているのだが、家も近いことだし我慢することにする。晶に偶然勧められたココア・コーラが結構おいしかったのでこれくらいの文句は呑み込んでやろう。

 なんか本末転倒な感じがするけど気にしない。


 二人でココア・コーラを飲み終えた後しばらく、休み中の予定をどうするかなど他愛のない会話をしながら歩いていると、いつの間にか分かれ道の丁字路まで辿り着いていた。


「ここでお別れだな、じゃあまた」

「ああ、また明日な」


 いつもならこれで会話は終了のはずだった。


「……なあ、アキラ――」


でも、何故か今日はもう一言会話を続けてみたくなった。


「――お前って幽霊見たことあるか」

「なんだ、藪から蛇に」


 丁字路の壁に背中を預けながら、ふと思ったことを訊いてみた。


「この場合それを言うなら藪から蛇じゃなくて、藪から棒にじゃないのか。今の言葉は危険な発言だったのか。……いや、ただの思いつきで訊いてみたってだけなんだけどさ」


だけど、前々から晶に聞いてみようと思っていた内容だ。


「ほら、こんな月明かりもあまりないような暗い夜の帰り道だとさ。ひと気もあまりないし、何かそういうのが出たりするんじゃないかとか思うじゃん。けどそう思っても、自分は霊とか見たことがないんだよ。でもアキラなら幽霊とかも見たことあるんじゃないのか。ほら、いつだったかけっこう霊感が強いとか言ってたし」


 前にも言った通り僕は幽霊の存在を信じていない。

 それはただの意地みたいな理由からなのだが、関係ない。ただの家庭の事情という奴だ。


 これは一言会話を続けるためにふと思いついたから訊いてみただけという、ただの下らない質問だった。だからこんな一言は晶にも適当に笑い飛ばされて終わりだろう、そう思った。


「お前に霊感あるかって訊かれるのってなんか複雑な心境だけど、そうだな……」


 しかし晶の反応は、僕の予想とは違っていた。


「うーん、……見たことあるっていうか、なんていうかな」


 晶はそう言ってなぜか言葉を濁しながら足元に置かれていた、枯れた花束を見ていた。

 それは元々は白い花だったのだろう。だけど今、花瓶代わりの一升瓶に刺さっているその姿は薄汚れてすっかり茶色く枯れてしまっている。だがよく見ればさっきまで気付かなかったが、中にはまだみずみずしさのある元気な新しい花もいくつかある。

でも何でこんなところに花が備えられているのだろう。


 ……あっ、そういえばみほちゃん先生が帰りの退屈な、もとい帰りの話のときに学校の近所で通り魔事件があったとかなんか言っていたな。そうか、あの事件ってここが現場だったのか。ということは結構前からここに花は添えられていたってわけか。 

 全然気が付かなかったな。

 今まで花瓶が置かれていたことさえ気が付かなかったぞ。


「……もしかして、今も見えてたりする?」

「さあな、いつも見えたり見えなかったりだな」

「見えたり見えなかったりって、そんなもんなのか。ずいぶんと曖昧なんだな」


 いつもこんな話をするときの晶にははぐらかされる。

 ……でもそれでいいのかもしれない。霊というのは曖昧で不確かで、ここにいるようでいてどこにでもいる。でも本当にいるのかわからない、そんなようなものでいいのだ。見える人がいて見えない人がいて、見えることがあって見えないこともある、それでいいんだ。


 事実がわかってしまうよりも、わからない中で色々と考えることの方がおもしろいはずだ。


 シュレーデンガーの猫の話だな、まるで。

 閉じた箱の中身は、開けるまで何が入っているかわからない。いろんな期待で満ちている。でも蓋を開けてしまえばそれまでにあった可能性はすべて消えてしまう。その箱の蓋を開けなければ、そこにあるすべての可能性は残されたまま。楽しみは残されたままになる。

 元の意味は知らないけど、僕はこう解釈している。


「そういえば関係ないけどこんな話があったな。『霊の話をすれば霊が寄って来る。』」

「霊が寄って来る、か。なら今ここにも霊が集まっているかもな」

「…………ああ、そうだな」


 僕はそのとき見ていなかったがそのとき晶は花束でなくその上の、ちょうど僕らと同年代の子供の頭があるくらいの高さの場所を悲しそうな目で見ていた。


「所詮、うちらに見えている世界なんてものは、ほんの一部に過ぎないんだよ」

「? 何か言ったか。どうしたんだよ、急に真面目な顔して」

「んっ? 真面目な顔なんかしてたか。いつもこんな顔してるぞ」


 さっきまでの暗い表情が一瞬で変わり、いつも通りの顔に戻っていた。


「いいや、嘘吐け。いつもはもっと嫌らしい、にやにや顔だろ。……おっと、ずいぶん話し込んでいたみたいだな。それじゃあ改めて……じゃあなアキラ、また明日。おやすみ!」

「ああ、さいなら。………………明日は車に気を付けろよ。それじゃあ、おやすみ」

「車? ああ、気を付けるよ」


 後ろから聞こえてきた晶の声を聞き流し、僕は家へと足を速めた。

 今思えばこのときしっかり晶の言うことを聞いていればよかった。

 いまさら後の祭りではあるけれど。



     ◆     ◆



 晶の忠告は見事に当たってしまった。



 夏休み前日、授業内容は終業式やその他もろもろのつまらない作業のみ。それに加え今日は午前授業なので、午後からの予定も考えながらみんな浮き足立っている。そんないつもと違う日常から少しずれたような雰囲気が僕は好きだった。


 イベントが起こる前の、そわそわとしたその雰囲気が好きだった。

 思えば小さな頃から祭り自体よりも、祭りの前の方が好きな子供だったように思う。祭りの準備に忙しく人が動き回るその慌しさが好きでしょっちゅう祭りの準備に参加していた。けど逆に祭りそのものはあっという間に終わってしまうのがわかっていたからか、そこまで楽しみにはしていなかった。たまに準備だけに参加して本番は出ないこともあった。

 これもまたシュレーデンガーの猫の話と同じなのかもしれない。




 その日の朝、まだ生徒があまり集まっていない時間。

 僕は登校途中にトラックに轢かれてしまった。

 より正確に言うなら『トラックに轢かれてしまった。』ではなく、『撥ねられてしまった。』という表現の方が正しいのだけれど。今はあまりその文法的な違いは関係ない。


 車のタイヤに踏まれるのが轢くで、バンパーに吹っ飛ばされるのが撥ねる、だ。

 だが――

 事故があったことに変わりはない。

 事故に遭ったことに変わりはない。



 学校に着くまであと少し、いや手をもう少し伸ばせば校門に届くほどに近く。すぐ目の前に僕が通っている萌葱高校はあった。その外観は薄くひびの入った赤いレンガを敷き詰めて作られた古い洋風の、良く言えば古風な伝統のある、悪く言えばボロく古臭い校門。


 こんな事故の起こった要因としては、毎朝の登校中にいつもより焦って本を読んで歩いていたのがいけなかったんだと思う。どうにか夏休みに入る前に今読んでいるシリーズを読み終えて、すぐ次のシリーズを借りようと思っていたのがダメだった。やっぱり、図書館で借りる本はしっかりと余裕を持って計画的に借りなきゃいけないんだと身をもって痛感した。

 ご利用は計画的に。


 その日の朝、僕はいつも通り朝早く起きて自分で作った(母親は朝に滅法弱く、そうでなくても寝起きの様子は壊滅的。そして今は珍しく出張中)簡単な朝食を食べた。その後、洗い物をすると同時に弁当におかずとご飯を詰め込み出掛ける支度をした。それから自前の本から好きな一冊を選んでお手製の真っ赤なブックカバーをかぶせて、いつも通り家の玄関を出る。

 これが僕の日常だった。



 家を出るのは僕が最初だ。今日は珍しく出掛け際にまだパジャマ姿の妹に見送られた。その頭は寝起きだからだろうが、重力に逆らうように空中に髪がうねうねと漂っている。


 確か妹も今日が終業式だったはずなのだが、たぶん今日も妹は『風邪引いちゃったのぉ』と担任の先生に甘い声で言ってずる休みをするつもりなのだろう。そうやって休む妹も妹だが、妹の言うことを素直に聞いて毎度都合よくインフルエンザや麻疹ということにして出席日数をごまかしてくれる先生も先生だ。


 社会に出ればそんな甘えたことは出来ないんだぞ。そう言ってやりたいが、この妹だったら社会に出てもうまく立ち回れそうな気もする。妹は生まれながらの悪女だ。


「今から出掛けるの? いってらしゃーい」

「行ってくるよ。お前も朝飯はテーブルの上においてあるから、さっさと食べて学校に行け」

「インフルエンザとおたふく風邪の併発で登校禁止中です」

「…………ほう、そのわりに元気そうだな。顔も腫れてないし、どこが悪いんだ」

「都合が悪いんです。……それから今日はいちおう何か気を付けた方がよさげですね。寝起きでもはっきりわかるくらい死相が出てます。たぶん今日あたり死にますね」

「それ昨日も言ってなかったか。何に気をつけるのか知らんが、死なないようにするよ」


 それからどうでもいいが、ドクロ柄のパジャマはないだろう。まだ水玉のようにデフォルメされたイラストだからまだいいが、もしこれがリアルタッチのドクロだったら完全にアウトだ。……さすがにそんな柄は着たりしないだろうけど。




 これは自慢と言うわけではないのだが、僕は今まで本を読みながら歩いて危ない目に遭った記憶はない。(もっともそれは、一度本を読みだしたら周りのことがまったく見えなくなるからだけど)たとえ広辞苑を読みながらでも、学校から家までの道筋を無事に帰る自信がある。


 何の根拠もないけど、無事に帰れる自信があった。

 でも結局、危ない目にどころか車に撥ねられてしまったのでそれは自慢にはならない。

 だから、撥ねられた時はあっけなく思った。


 僕は今まで普通に平和な日常を過ごしてきた高校生だ。人が撥ねられるところなど、間近で見たことはない。中学にいたときにあった交通安全運動中の衝突実験の時には、お気に入りの本を片手にしっかり眠っていた。それからせいぜいあるそれの知識というのは映画やドラマ、アニメなんかの二次元の中で起こった出来事に対してだけ。そのせいなのか人が大型トラックに撥ねられたときは冗談みたいに大きな音がするものだと思っていた。


 けれど、実際は辺りにブレーキの耳障りな甲高い音がしただけだった。

 だから僕はその音を人が撥ねられたときの音だとは思いもせずに、ただ何気なく本から眼を離して音のした後ろを振り向いた。



 そこには僕が倒れていた。



 僕が唖然として立ち尽くしているうちに、フロント部分をうっすらとへこませたトラックがその場から走り去っていってしまった。まるでF1レースでのスタートダッシュ時のような、凄まじいスピードを出してそのトラックは道路にタイヤの熱いマークを残していった。


 明らかな轢き逃げ。それとも撥ね逃げだろうか。

 犯人にとっては幸いというか都合良くというのかこちらとしては都合の悪いことに、辺りに他の人の姿はなかった。目撃者は僕一人だけ。犯人の乗っていたトラックはコンテナの側面に竹と月、それからかぐや姫のかわいらしいイラストが描かれたタケトリ製薬会社のものだった。


 そしてトラックに轢かれた、いや撥ねられた被害者は――


「………………」


 この、僕だった。

 ただ僕にそっくりで、ここの学校に通っているというだけの赤の他人かと思った。思いたかったけど、そのうつ伏せ倒れている人のそばに落ちているあの本に被せてあるのは紛れもなく僕の手製の真っ赤なブックカバーだったし、こっちから見える白目を剥いてあわを噴いているあの顔は毎朝顔を洗う時に鏡で見かける僕の冴えない顔だった。


 冗談じゃない。

 むしろ冗談だと言ってくれ。

 いや待て。落ち着くんだ。もしかしたら、この人はただのドッペルゲンガーかもしれない。もしもドッペルゲンガーだったら寿命がいくらか縮むことになるらしいけど、それくらいなら関係ない。こんな僕にそっくりな人が白目を剥いて倒れているところを見てしまった時点で、既に十年くらいは寿命が縮んでしまっている。


 そんな無茶苦茶で無理矢理かつ、意味不明で支離滅裂な言い訳を頭に滔々と浮かべながら、僕はゆっくりとそのうつ伏せに倒れる僕のドッペルゲンガーに近付いた。警察を呼ぶにしろ、救急車を呼ぶにしろこのまま道路の上なんかに倒れたままにしていたら危ない。とりあえずはこの人を安全な場所にまで運ぼう、そう思ったんだけど――


 ……僕の手がその体をすり抜けた。


 まるで水か煙を掴もうとしているようで、僕はその人には触れられなかった。

 違う、そうじゃない。その人が僕に触れられないんだ。

 でもなんで、この人が僕に触れられないんだ。まるで姿形のない霊にでも触ろうとしているかのように手が通り抜けてしまう。そして、ふと思い出す昨日の帰りに晶とした会話、


『霊の話をすれば霊が寄って来る』


それはつまり、話をした人が霊になるってことなのか……。



――それは、もう、僕は、この世に、いない、って、こと、なのか?



 そう分かった途端、

 周りの世界が震えた。……違う、震えているのは僕の体だ。

 周りの世界が歪んだ。……違う、歪んでいるのは僕の心だ。

 周りの世界が白んだ。……違う、白くなったのは僕の頭の中だ。

 目の前が真っ暗になった。…………違う、真っ暗になったのは僕の、未来だ。

 足元がぐらぐらと揺れる。


 今までに起こった出来事が早送りのように、巻き戻しをするかのように思い出されてくる。

 砂嵐ばかりの荒れたつぎはぎの映像。これが走馬灯と言うものなのだろうか。


 それからやっと僕は思うことが出来た。

 僕は死んでしまったのだと。


 僕の日常が。あれほど変わる事を望んでいた、変わらない日常が……。

 元に戻らないほど、崩れ去ってしまったのだと知った。

 閉じた箱の蓋を開けてみてはじめて知った。


 猫が入っていると思っていた箱は、開けてはいけないパンドラの箱だったのだと。



     ◆     ◆



 十数秒、僕の時が止まっていた。

 僕は危うく立ったまま気絶してしまいそうになっていた。

 だが、幽霊が気絶なんかしていてもしょうがない。


 どうせ死んで幽霊になってしまったのだ、いまさら何かと悩んでいてもしょうがない。それなら今を受け入れてたっぷり幽霊生活を満喫するしかない。ポジティブシンキングと現実逃避が僕の得意技なのだ、死んだくらいでうじうじなんてしてられない。


 ということで、さっそく僕にできる範囲で現状確認をしてみた。

 その結果、どうやら空を飛んだりは出来ないみたいだが壁や鉄柵なんかをすり抜けたりなどは出来るみたいだ。僕はさっきから面白がって、校門のレンガ壁の中に出たり入ったりを繰り返している。これがやり始めると結構はまってしまう。


 うーん、なんていうかあれだ。CGで作られた映像を触っているような感じ。

 他にも生きているときには見えていなかったが、夜中でもないのに小さな人魂らしき明るい光がそこら辺をふよふよと漂っているのが見えたりする。まるで蛍が飛んでいるかのようだ。


 これは幽霊には幽霊が見えるということなのだろうか。

 それにしても、今まで散々否定していた幽霊の存在をこうあっさりと認めるってのは、僕の決意も所詮はその程度ってことなのだろうか。……まあ、誰だってこんな状況に立たされたりしたらどんな理不尽なことだって認めざるを得ないとは思うけど。

それから僕の隣には、僕と同じように後ろ半分をレンガの壁にめり込ませるようにして本を読んでいる女生徒がいる。体が透けて見えているということは、つまり彼女も僕と同じように幽霊だということなんだろう。幸か不幸か(確実に不幸だろうが)これで僕も、幽霊が見えるような特殊で特異な人間の仲間入りをしたと言うことだ。


 ちなみに隣にいる彼女は細長い銀縁のメガネに、髪は染められておらず頭の上の方でひとつにまとめられた侍のようなポニーテール、制服は規則通りのひざ下一〇センチと少し長めだが、結構可愛い。どうも着ている制服からして同じ学校の生徒だろう。


 しばらくしてこちらに気付いたのか、彼女が本から顔を上げてこちらを見た。

 僕は少しぎこちなかったが、笑顔を浮かべて手を振ってみた。すると彼女も同じように少し微笑んで、本を持つ反対側の手を小さく振り返してくれた。


 やったね! 死んでから一人目の知り合いが出来たよ。

 僕の中では、こっちが手を振って相手が振り返してくれたらそれで知り合いで、挨拶をして楽しそうに挨拶を返してくれればそれだけでもう友達だ。とても簡単な友達の基準だけどこれに当てはまってくれる人が僕の周りにはなかなか少ない。


 なぜかみんな僕が笑顔で手を振ったり、挨拶をしたりしようとすると露骨に顔を背けられてしまうか、酷いときは全力で走り去られてしまうのだ。他にも一人で道を歩いていて、ふと背中に熱い視線を感じて振り向いてみるとクラスにいる女子の一団がいて、何か用でもあるのかと声をかけようとしたらその女子たちに奇声を上げながら蜘蛛の子を散らすようにバラバラに走り去られたという悲しい出来事もある。


 このことを晶に相談したら笑いながら『いいや、それは別に嫌われてるってわけじゃない。気にするなとは言わないが、諦めろ。これは仕方のないことだ』と言われた。腑に落ちない感じがするけど、僕も晶が言うように嫌われているわけじゃないと思う。

 それはともかく、これからどうしよう。




 それからしばらくの間、二人で壁に埋まりながら本を読んで待っていると(僕はさっきまで歩き読みしていた本。どうやら生前身に付けていたものには触れるらしい)ようやく一般生徒も登校してくる時間になり、周りに人がぽつぽつと集まって来た。


 そこに横たわっている僕は、今集まっている野次馬達の中の誰かが呼んだ救急車で運ばれていくことになるだろう。でも、それでももう手遅れだ。


 だからここに呼ぶべきなのは、救急車じゃなくて霊柩車だろう。

 絶対に助かることはない、何故ならここに死んだ僕がいるのだから。

 でも事故現場に直接霊柩車が来ることはないか。


 僕は壁から出ると本を閉じ、倒れている僕から目を逸らして前へと向き直った。

もうこの場所に用はない。

 今見知った顔を見たりしたら、きっと死んでしまったことを後悔してしまうかもしれない。それは出来れば避けたい。死んだ人は生き返れない、そんなことはわかりきってる。だったら下手な未練など残したくない。


 そしてそんなとき、僕は運悪く今一番会いたくなかったアイツと、


――人垣の中にいる彼女と、


 目が合ってしまった。

 僕の幼馴染みで、大切な親友の交路まじろ里子さとこだ。



 遠くからでも分かる。

 やっと夏が本格的に始まったばかりと言うのに、すでにその肌が小麦色に焼けている小柄な体躯。短い髪を無理にまとめた小さなポニーテール。それから、その小さな顔に収まった獲物を探す獣のように挑戦的につり上がったその大きな瞳。


 どれもよく知っている。

 僕は、たとえ彼女が災害並みの人ごみに紛れたとしても見つけ出せる自信がある。

 ……でも実際に僕と目が合ったわけではないと思う。

 そのはずだ。彼女に今の僕の姿が見えてるはずがない。彼女の目線の先にあるのはきっと、この僕の体を通して後ろに見えているアスファルトの上に倒れ伏している僕であって、彼女の目の前に立っているこの僕なわけではない。


「あれ、さっちゃん? どうしてこんな……」


 さっちゃんというのは里子が僕に付けた綽名だ。……僕を親しげに綽名で呼んでくれるのは別にいいんだけど、さっちゃんって言う綽名だとまるで女の子の名前みたいだ。


 でも彼女の声に答えられるはずがない、僕の声はもう誰にも届かないから。

 今のこの僕の声はまるで、ずっと一方通行で掛けられている電話のようでしかない。受話器から聞こえてくる声に応じることも出来ず、ただひたすら耳を傾けて相手の言葉を聴いていることしか出来ない。だけど耳を塞ぐこともできない。


 僕は里子に背を向けて、アスファルトに横たわる僕の上を跨いで歩いていった。

 レンガの壁に半分以上埋まっている彼女が心配そうにこちらを見ていた。

 もう本は栞を挟んで閉じている。


 結局君の名前を訊くことはなかったけど、ありがとう。ほんの少しの短い間だったけど君と一緒にいられてよかったよ。そしてさようなら、たぶんもうここに来ることはない。

 ここには思い出が多すぎるんだ、悲しすぎて泣けてくる。


「……ちょっと、さっちゃんどうしたの」


 ……ごめん、僕の声はもう里子には届かない。だけど、もしも僕の言葉を君に届けられるのなら伝えたいことが山ほどある。多すぎて伝えられないけど、君に伝えたいんだ。


「返事をしてよ。無視しないでよっ!」


 僕は奥歯が砕けるくらい強く噛み締めた。

 でも本当にごめん。……僕はもう死んでしまったんだ!



「…………だから人の話聞けって言ってんだろうがっ、この野郎っ!」



 里子の回し蹴りが僕の右側頭部へ綺麗に炸裂した。

 僕の体が壁を突き抜け、地面に刺さる。

 ………………えっ、何で?



     ◆     ◆



 僕は結局死んでいなかった。

 僕は地面に刺さった後しばらくの間意識が飛んでいて、気が付いたらここにいた。

 たぶん、アイツが意識を失っている僕の首根っこを掴んで引っ張って来てくれたんだろう。


 症状的には極度の昏睡状態というかちょっとした脳死状態の植物人間みたいな状態で、今は学校近くにある市立病院に入院している。この病院はこんな中途半端な田舎にあるくせにやけに設備が充実していて、首都のほうにある病院の設備にも引けはとっていない。


 少し他の地元の病院より値段は張ることになるが、この近所で僕のような重体の患者を入院させるのにここ以上の場所はないだろう。

 でも、それは地面に倒れていた僕の方だ。あの後無様に里子に回し蹴りを喰らった僕の方はこの通りぴんぴんとしている。……正直に言えば精神的な別のダメージがあるのだが。


 ……早とちりして、この世の全てを悟った気でいた僕が恥ずかしい。

 あのとき、いったい僕は里子に何を伝えようとしていたんだ。山ほどある伝えられないことって何だよ。伝えられないようなことなら伝えようとするなよ、僕!


 ああ、思い出しただけで恥ずかしい。穴があったら墓穴を掘ってでも入りたい。

 ということで病院の壁に埋まってみる。……ああ、なぜか少し安心した。

 そういえば墓穴を掘るといえば、とっくに掘った後だった。


「……何だか、とてもややこしいことになっちゃったね。さっちゃん」


 どうやら、本当に途方もないくらいややこしいになってしまったらしい。

 里子はあれから毎日僕の病室に来てくれている。僕の交通事故によって終業式が延期されたので代わりに今日、学校で終業式があるらしい。ただし休みの日数は変わっていないらしく、貴重な休みが少し削られたみたいだ。

 ……全校生徒の皆さん、本当にすみません。


 予定をこう変更するためにどんな配慮がされたのか知らないが、どうやら学校や他の各機関からなにかしらの特別な配慮があったらしい。今日のことに関しても、今日が終業式だというのに一般生徒がサボって見舞いに来られるわけがないだろうから。こうして里子がお見舞いに来られるのも、同じように学校から何か配慮があったからなのだろう。


「…………ああ、本当にややこしいことになった」


 それにしても、前回の殺人事件に続いて今回の交通事故とはこの高校も災難なことだ。



 この体はとても不安定で不明瞭、奇怪で奇妙な体らしい。

 里子には僕の姿がしっかり見えているし、触ることもできる。それに声だって普段と変わりなく聞こえている。それどころか里子だけじゃなく他の人にも僕の姿は普通に見えているし、声も聞こえているらしい。


 まったく、何が僕の声はもう誰にも届かないだ。

 あのときうだうだと言ってないで、声を出していればしっかり相手に届いたんじゃないか。一方通行で掛けられている電話の例えなんかして恥ずかしい。お前は悲劇の詩人気取りか! 僕なんか、せいぜいが〝喜劇の死人〟止まりだろ。


 何やってたんだろ。……あー、本当に笑えない。

 でもそのまま何も問題がなく僕は無事だったのかといえば、どうやら違うらしい。

 僕は物に触れることができないのだ。


 学校や病院で壁に潜ったりしたときのように物に触れたところから。いや、触れたりすらもできていないんだけど、すり抜ける。そして、そのまま反対側へ突き抜ける。人にはこうして触れられるのに壁は通り抜ける。……これはどういうことだろう。


 今の医学や化学、物理学、生物学に心理学、いや現在の科学では僕の体に何が起こっているのかまったく分からないらしい。そりゃ、突然体が二つになって片方は死に損ないの植物状態で、片方は中途半端な幽体離脱をしているという変な症状のオンパレード状態なんだ。こんなわけの分からない問題がそう簡単には解決したりはしないだろうな。


 そしてこの面白体質のことが病院の医者に知れ渡ったことで、入院一日目にしてすでに僕の入っている病院の個室が数々の訳の分からない器具達で埋まってしまっていた。これ以上個室に器具を入れないでくれ。狭い個室がさらに狭くなる。

 面会は基本的に謝絶という体制をとっているが、医者や学者連中は関係者にあたる、ということで次々といろいろな医者が入って来るのであまりこの面会謝絶は意味を成してはいない。


 ちなみに里子も同じように病院側からも特別な配慮がされたらしい。

 本当に学校といい、病院といい、どんな配慮がされたのだろう。




 入院も二日目となり、妹の神楽かぐらが僕の学校とクラスの皆から渡されたお見舞いの千羽鶴と、入院中の僕の着替えを持ってやって来た。家族は病院の謝絶対象の中には含まれていない。


 今まで千羽鶴というものをもらったことはなかったが、千羽鶴というからにはさぞかし色々とカラフルな鶴たちが並んでいるんだろうなと思っていた。……だが、妹が持ってきたそれは見事に僕の予想を裏切ってくれた。


 鶴は全部黒と白だけだった。

 しかもよりにもよって、暖簾みたいに一列ずつで鶴の色が分けられているので。千羽並んで二色の鶴が連なっている様はまるで、お葬式のときに掛けられているあの幕の模様みたいだ。


 縁起でもない、僕はまだ死んでないぞ!

 そんなことを思いながらも、口に出したりはしない。

 その白黒の縁起の悪い千羽鶴は、僕の寝ている簡易ベッドのパイプの柱に付けられた。……これで顔に白い布でも掛けてあったら完璧に死人だ。お坊さんを呼んでお経を唱えてもらえばすぐにでも葬式が開けるぞ。もっとも家は仏教じゃないけどな。


「…………兄ちゃん、一人でぶつぶつと何か言ってるとかなり気持ち悪いよ」


 バッチリ口に出してました。

 ひとまず、閑話休題。


 妹が言うには、本来終業式があったはずの日に僕はトラックに撥ねられたのだが、奇跡的にどうにか一命は取り留めて怪我が完全に治るまでは病院で長期入院中をしている、ということになっているらしい。……そう、表向きには。


 病院が面会謝絶にするような患者がただの長期入院中であるはずがないのだが、それでうちの学校の生徒はいちおう納得したらしい。この前の通り魔事件のときもそうだが、この高校はあまり起こった事件を大事にしたくないらしい。まあ、それがいたって普通の対応か。


 対面を気にするのはいいが、あまりその成果が見られていないのが現状だ。

 どうやら今回起こった事故のことは、辻褄が合うよう秘密裏に処理されたらしい。もちろんこの僕の体のことは報道陣達に漏れないようにしてあるみたいだ。そのおかげでこんな状況に立たされていても、カメラのフラッシュに目を焼かれることもない。


 誰がやってくれたのかは知らないが、直接会って感謝の言葉を言いたいくらいだ。

 欲を言えば、この病室に毎日のようにしつこくやってくる医者や学者連中のこともどうにかしてもらいたかったが、そこまでの贅沢は言わないようにしておこう。


 ……それはともかく、この千羽鶴の配色センスは絶対に奴だ。

 後で会うことがあったら文句を言ってやる。さすがに、入院している間は無理だろうけど。


「おい兄ちゃん、いちおう着替えを持ってきてやったぞ。……とは言っても、持ってきたことにあまり意味は感じてないんだがな。……今は、着替えようにも着替えられないんだろ」


 残念だが妹の言うとおり、着替えを持って着てもらったことにあまり意味はない。

 こんな幽霊みたいな体をしてる癖に幽霊と違って足も付いてるし、服もしっかり着ている。もっとも、今着ているのは撥ねられたときに着ていた学校の制服なのだが。この制服も僕の体と似たような性質を持っているらしい。……けど多分それは違う。この体と制服はひとつの、同じ体の一部になったんだ。


「……だから気をつけろって言ったのに。バカだねぇ」

「バカで悪かったな」


 久しぶりに会った兄に対してずいぶんとつっけんどんな態度をとるが。まあ、それはいい。これが妹のデフォルトだ。正直兄としてはもっと愛想がよくなってもらいたいものだが、今更これを変えられないだろう。それに、兄に対して愛想のいい妹ってのもなんだか気味悪いし、とりあえずはこのままでいい。

 それに二日じゃ、久しぶりも何もないか。


「それよりもおい、妹よ。兄ちゃんがいなくても規則正しくとは言わなくとも、しっかり生活は出来ていたのか。入院中の心配事ではそれが一番の心配だったんだが、大丈夫だよな」


 その兄の問に対して妹は、不敵な笑みを浮かべ、


「いったい兄ちゃんは誰に向かってその台詞を言っているのかな? まさか兄ちゃんは俺が今までどうやってこの退屈な人生を過ごしてきたか知らないとでも言うのか」と言った。


 ……できることなら知らないままでいたかったがな。

 黙っていさえすれば妹は結構かわいい。多少兄目線な多少の|贔屓(ひいき)というのもあるだろうが、長いウェーブの入った髪は腰元まであり、そのやる気のなさそうにとろんと垂れた大きな目は少し天然の入ったどこぞの国のお嬢様かお姫様って感じだ。


 まあ、その通り学校では天然のお姫様キャラで行っているらしい。

 だが、決してぶりっ子ではない。妹は純粋にわがままなお姫様を演じている。

 妹はいわゆる猫かぶりってやつだ。


 たぶんこいつは普段の生活で、百枚くらいは猫を被っているんじゃないだろうか。たぶん猫の皮だけじゃなくて犬や狐なんかも。ひょっとしたら熊も何枚か被っているのかもしれない。そんなにいっぱい毛皮を被っていて疲れないのだろうか。


 その被っている毛皮の半分でも売れば家計はとても潤ってくれることだろう。……もっとも、妹なら普段一番上に出ている外面だけ残して、被っている他の獣の毛皮を叩き売りする勢いで一番大切にしなきゃいけないはずの人肌まで売ってしまいそうだ。


 家族のために人肌脱いで金を稼ぎます。……冗談じゃねぇ。

 だがこんな風にずいぶんと偉そうな態度をとってはいるが。それはつまり、ぜんぜん大丈夫じゃなかったということを言っていることに等しい。相変わらずの生活力のなさだ。


 それからほんの十数年くらいしか生きていない小娘が退屈な人生とか言ってんじゃねえよ。そういう台詞ってのはな。研究を続けた末真理へと辿り着いてしまった賢者とか、何百年もの長い人生を生きた吸血鬼とかがさりげなく言うから格好いいんだ。

この僕の妹ごときが適当に言って決まるような台詞じゃない。


「……って言うか、若い女の子が自分のことを俺とか言うんじゃない」

「それはどうでもいいんだけど、俺はどっちを向いて話をすればいいんだ」


 だが妹は兄の言葉を当たり前のように普通に無視し、いつの間にか面会者用のパイプ椅子を引っ張り出してきて腰掛けている。……何故か椅子の上に|胡坐(あぐら)で。

 女の子がスカート姿で胡坐をかくな。


「とりあえず今のところベッドに寝ている僕の方には意識はないから、目の前にいるこの僕の方を見て話せばいい。それからさっきから言っているが一人称で俺って言うな」

「善処します」


 そう言いながら見ている先は、ベッドにいる方の僕だった。

 この妹は本当にいい性格をしている。この病室に入ってきたときからずっと変わらずにその能面のようなと言うか人形のような無表情でいるところが、特に妹の性格を現している。


 そういえば。ここの医者は家族にすでに僕の体がどうなっているのか伝えたって言うけど、それを聞かされた妹は僕がこんなわけのわからん状態になっているということについて、何か思うところはないのだろうか。


「……なぁ――」

「それで兄ちゃん――」


 僕の出掛かった疑問は妹の一言で遮られた。

 何か意図的だった気がするけど。ん、まあそれは別の機会でもいいか。


「これはさっきの質問に対する答えだけど。いちおう今のところは大丈夫だけど、たぶん後々結構やばくなるかもしれない。今はお、……私がいつも家に引き籠っているときに食べる食事を三食、今日の分も入れてすでに二日間も続けているし。健康面ではまあそれほど問題はないとは思うんだが、いかんせん食料と金の蓄えがそろそろなくなってきそうなんだ。ほら、あの母親は今珍しく出張中だし、いても使いものにならないし。だからどうにかしてくれ兄ちゃん」

「つまりそれを要約すると。手作りケーキとカップラーメンばかりの食事が続いていて、今のところは大丈夫だけどそろそろそんな生活も危なくなってきそうだから兄ちゃんどうにかしてくれ、ってことか。とりあえず、話の途中で俺と言いそうになって言い直したことは見逃してやろう。……けど、おかしいな。三食食べているとは言え、たった二日間で家にある非常食が全部なくなりそうになるってのはどういうことなんだ」


 ついこの前非常食用(うちの家族の場合非常食とは、僕の帰りが用事などで夜遅くなったりして家に食べ物がないときに食べる食品類のことだ)のカップメンやお菓子やらを買い足したところなのに。それがもう底を尽きそうとはどういうことなんだ。


 と、そんな疑問を投げかけると、妹からさらりと答えが返ってきた。


「ああ、それは前回私が買い出し当番だったときに荷物をたくさん持つのが面倒だったから、買う数を減らして高いのをいくつも買ったからだと思う」

「………………」


 悪びれもせずにさらりと言いやがった。

 釈明の余地は一切ない。どう考えても、これは妹の自業自得だ。

それなら、このまま何もしなくてもいいんじゃないか。自分で引き起こした事態なんだし。


 ……そうは言っても、兄として何もしないわけにもいかないだろう。

 いや、それにしても。ジャンクフードばっかりの食生活ってのは人的に見ても健康面の問題は大有りだと思うんだが、妹的にはOKだってことなんだろうか。……まったく、そんなことだからいつまで経ってもちびのままなんだぞ。と、同じちびの兄が言ってみる。


 言ってみたけど空しくなっただけだった。

 ……うすうす気が付いてはいたけどこれは食生活がどうとかというだけの問題じゃなくて、もしかしたら遺伝的な問題かもしれない。母親もかなり幼……、じゃなくて小さいからな。


 ……そうか、何の連絡もないっていうことは、まだあの母親は息子がこんなわけのわからんことになっていることを知らないってことか。出張は海外だって言ってたし。泊まるホテルがどこなのかどころかどの国に行くのかすら聞かされていない。

だけどあの母親だからな。知っていたとしても、この妹みたいに平然としていること間違いなしだろうな。良くも悪くも似たもの親子だ。自分のことは含めずにそう思う。


「いや、ケーキだけじゃなくて他にもクッキーやプリンなんかも作ったりしていたんだけど、まあズバリそういうことだ。どうにかしてください、もってあと三日なんです」


 一人称をあっさり俺から私に直して、こっちにその頭を下げてくる。

 こういうとき妹が僕の言うことに素直に応じるようになってくれるのはいいんだけど、これが元に戻るのもまた同じくらい早いんだよな。1か0しかないって感じ。


 だけど金と食事のことをどうにかしなきゃいけないってのは確かにそうだ。

 食事のことはともかく金がないのは首がないのと同じだ。……まあ、あの母親に言わせれば別に金なんかなくても生活はできるんだからもしかして首もあんまり必要ないんじゃないの? とのことなのであまりこの例えは使わないようにしてるけど。


 そういえば関係ないかもしれないけど、金のある人って印象的に太って首がなくなっているイメージがあるな。それって金があっても同じように首はなくなるってことなのか。……何かこの言い方は屁理屈くさい感じがするな。そもそもイメージが古すぎだ。


「よし分かった、金と食事のことはどうにかしてみるよ。……けどな、いくらそれくらいしか作れないからって甘いお菓子とジャンクフードばっかり食べていないで、普通のコンビニ弁当とかでもいいからちゃんとした食事を食べてくれよ。家の近くに新しい総菜屋もできたんだし、ご飯くらいなら炊飯器で炊けるだろ」


 妹はお菓子作りは一人前以上にできるくせに、料理の方はからっきしダメだからな。やはり兄ながら妹の将来が心配だ。パティシエにでもなるというのならまだいいのだろうが、料理の下手な妹に嫁の貰い手などいるのだろうか。確かに最近はうちの母親のように台所に立たない母親も増えているって言うし、大丈夫か。それにまだまだ先の話だし。


「コンビニなんかに買いに行ってたらずる休みだってことがばれちゃうじゃん」

「………………」


 安心しろ、お前が風邪で毎回休んでるんだろうと思っているのはあの担任だけだ。


「それじゃあ俺はもう帰るけど、他に何か欲しいものとかはない。出来れば未成年でも買って来られるものだけにしてもらいたいんだけど。……だけどもし、兄ちゃんがどうしても欲しいって言うなら法に触れそうなものでも少し裏から手を回して買ってみるけど、どうする?」


 あっという間に普段の口調に戻りやがった。っていうかそんな物騒なことを言うな。


「いったい僕は妹にどんな危ないものをもの買わせようとしてるんだよ。……だが兄としてはそれよりも、むしろ自分の妹に裏から手を回せば何でも買ってこられるだけのツテがあるってことの方が驚きだよ。……けどそうだな、今特に要りようのものはないけど、最近出た新しい文庫本を買えたら買って来てくれないか」

「文庫本? それは何ピーナッツで買える代物なんだ」

「何かの隠語じゃない! そのまんま小説の文庫本のことだ」

「冗談冗談、半分はいちおう冗談だ。単行本でしょ、最近出たあのよくわからないシリーズ。それじゃあじきに来ると思うけど、ロリ子お姉ちゃんによろしく言っといてね。……だけど、お願いだからあの人を変なことに巻き込んだりしないでね」

「ああ、わかってるって」


 そう言うと無表情のままパイプ椅子から立ち上がり部屋から出て行った。

 半分冗談ってことは、半分は本気ってことだよな。


 僕は妹の言うことをどこまで本気にしていいのだろう。出来れば、危ないツテのところから冗談であってもらいたい。妹には幸せな人生を、とまで贅沢なことは言わなくとも、できれば極力普通の人生をおくってもらいたいのだ。

 ちなみに着ていた服の背中にはリアルタッチの大きな赤いドクロが笑っていた。

 パンクファッションでもないのに、そんなにとんがった格好をするな。


 妹が病室を出ると、そのタイミングを狙っていたかのように入れ違いに里子が入ってきて、今の二人きりの状態に至る。



     ◆     ◆



 毎日も僕の病室は騒がしい。

 医者や学者連中はなんだかんだと理由を付けて僕の体を検査や実験をしたがっている。


 学者も論文なんかを書くのに僕以上の逸材はないだろうから仕方ないことだと思うが、この僕の存在とはつまり貴重なモルモット、いいところで珍獣扱い。どちらにせよ、まともな扱いはされない。このまま同じような扱いが続くなら見物料でも取ってやろうか。


 だけどあの学者たちなら冗談じゃなく、それくらいは払いかねないけど。

 そしてまだ入院してから二日しか経っていないというのに、どこからこれを嗅ぎ付けたのか海外の有名らしい医者や研究チームまでもがやって来て。あいかわらず同じように何をしたいのかよくわからない意味不明な質問や無意味な実験をしていく。


 ……まったく、本当に暇な人たちだ。頭がいいのか悪いのか、こんなことをしている時間があるのならその頭を使って他にやることがもっとあるんじゃないだろうか。

だが、その地道に続けられたその無駄な実験によって分かったことがいくつかある。




 まずは、自然界にそのままの状態で存在していなかった物、つまり人工物に対して僕は何も干渉できないということ。触れることも出来ないし、テレビなんかでよくあるような物を自在に浮かす、ポルターガイストって言ったっけ? そういう超能力紛いの不思議な力を使うことなどは出来ない。けどそのかわり人工物をすり抜けられるので、学校でやってみたように幽霊にとっては定番とも言える壁や扉のすり抜けは出来るらしい。


 つまり、物に触れない以外は普通の人と同じということだった。

 しかしこれじゃあ、何のために幽霊になったのか分からない。

 人に見られないってことが幽霊の一番の利点だというのに普通に昼間でもばっちりと見て、触ることができるなんてどんな幽霊だよ。幽霊になりたくてなった訳じゃないけど、せっかく手に入れた僕の楽しい幽霊ライフはどうなるんだ。


「……とは言ってもこんな状態じゃあ、これからどうやって生活すればいいんだよ。毎日人を新種の生物かなんかみたいに扱いやがって。この国に人権ってものはないのか」


 ……まあ、ここの患者である僕がなんやかんやと文句を言ったところで、医者や学者連中に『これも原因解明のため、問題解決のため。つまりは君のためなんだよ』と言い包められれば結局断れはしないんだけど。

 あー、大人って汚い。



「……しかしよく考えてみると、人工物が持てないってことは想像するよりもかなり不便だぞ。家にある大事な本達はもちろん、飯を食うための箸や茶碗も、ノートに落書きするためのペンも持てないし朝の目覚まし時計も止められないじゃないか。どうするんだ、きっと長々と鳴り続けることになるぞ! それよりも食べ物はどうなんだ。食事は今まで通りに出来るのか? あれ、もしかしてこれからは飯は抜きなのか、マジでっ! いやいや、それより人工物に触れないってことは銀行のATMにも触れないじゃん。どうやって金下すつもりだよ。……うわぁ、ついさっき妹に金と食事のことはどうにかするとか何とか珍しく偉そうなこと言ったくせに、このままじゃあ何も出来ないじゃん。どうすりゃいいんだよ!」


 他にも悩まなければいけない問題が山ほどあるはずなのに、そんな日常の普通な悩みに頭を抱えながら床と壁をすり抜け、転がり続ける僕。どこにもぶつからないのでいつまでも転がり続けてしまう。まさに怪奇現象。いや、怪奇現象と言うよりお笑い番組のワンシーンだった。


 こんな姿を新聞に載せられでもすればその日のトップ記事になることは確実だが、現在は何とか病院側のすばらしい配慮で関係者以外立ち入り禁止になっているので安心だ。


 だがこの姿は、はっきり言ってものすごく情けない。

 そんなとき、里子が転がり続けていた僕の肩にそっと手を置いて言った。


「……だったらさ、さっちゃん。その体がどうにかなるまでうちに泊まりなよ、昔みたいに。今度はさっちゃんだけじゃなくて妹の神楽ちゃんも一緒にさ。お金のことならともかく、食事なんかの家のことなら私が何とかしてあげられるしね」

「えっ………………。いいのか、ロリ子」


 今度は首にローキックを喰らった。しまった、これは失言だった。

 なんだよそれくらい別にいいじゃないか。だって名前を続けて読むと、マジロリコって感じにも読めるんだから。それに体も僕の見た目に負けず劣らず勝ってる幼児体型なんだし。僕と二人で萌黄高校のロリロリカップルって言われてるの知ってるんだからな。


 ちなみにこう言われている事実を教えてくれたのは晶だ。僕達はロリロリでもカップルでもない、普通の幼馴染の親友同士だ。


 そこに他意などはない。……多分ないはずだ。…………ないのかなぁ……。


「痛いよ。里子」

「当たり前だ。痛いようにやったんだから」


 それはともかく、今回も里子の蹴りは痛い。……でも、僕はすごく嬉しかった。

 勿論蹴られたことについてじゃない。僕には蹴られることで快感を覚えるような特殊な性癖はない、断固としてないと言う。――だからそうじゃなくて。

 それを言ってくれたときの彼女の顔が、ずっと昔妹と兄妹喧嘩して道端で泣いていた僕に声を掛けてくれたときと同じように、きらきらと無邪気に期待を込めて輝いていてくれたからだ。


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