深海オペラ:prototype
カムリ
第1話 シーラカンスはかく語りき
「あなたはさしずめシーラカンスかな」
「藪から棒になんですか」
そりゃああなた、と言わんばかりに先輩は顔を綻ばせた。
「
「一応理由は聞いておきますけれど」
「聞きたいの?」
時刻は放課後、五時半頃だろうか。腕時計を家に忘れてしまったので定かではないが、先輩が暇に飽かせてこんな掴みどころのない話を俺に振ってくるのは、大抵部活が始まってから三十分ほどだ。そんなことを思う程度には、俺と先輩の付き合いも長い。
部室には掛けられたアナログ時計がある。
俺が卵を茹でるために持ってきた砂時計がある。
先輩が深海水で作った水時計もある。設計段階の無茶のお陰で壊れたが。
この上、三十分しか計れない先輩時計まで増やしてどうするつもりなのか。
「まずシーラカンスはタフだろう、四億年前のデボン紀から今の今までしぶとく生き残って」
「寿命は百年以上でしたっけ」
「ええ、あなたそっくりだ」
「どこがです」
「しぶといじゃない」
確かに、部活の合宿で取り残され否応なくヒッチハイクで帰宅したり、とある事情で先輩の代わりにアルバイトに行き、何とか騙しおおせたりと、俺は傍から見れば厚かましい、もとい生命力溢れるように見えるのかも知れない。
だがそれはむしろ害虫に向けての賛辞と言った方が適切ではないだろうか。
俺とて望んで厚かましく日々を過ごしているわけでもない。
「ひょっとしてゴキブリじみてるって言われてるんですかね、俺は」
「これでも褒めているつもりなんだけれどね。それに、私は海棲生物以外の比喩表現はなるべく乱用しない主義なのだよ」
「滅茶苦茶なポリシーですね、であればもう少しソフトリィにお願い出来ませんか」
「相馬君がシーラカンスに似ている次の点はね」
「聞かないんですか」
溜め息を付く。俺と先輩の属するここ深海同好会は、こんなぬるま湯じみた先輩との会話が六割、先輩のフィールドワークに付き合うのが一割、深海同好会としての体面を保つためにたまに取り組む真面目ぶった研究活動が二割だ。
「食べたらまずい」
「そりゃあ美味しい物では無いと思いますけど」
「可愛い後輩だと思ってたら実は食えない後輩だったってことだよ」
「あんまりです」
「食えない物を作る後輩と言い換えても差し支えないかも知れないね」
「はぁ」
「さっき私たちの分の温泉卵作るの失敗したじゃないか」
「あっ」
俺は理科準備室の机上の、家から持ち出した鍋と、その中の、恐らくハードボイルドを通り越して、好み以前の段階まで堅くなっているであろう温泉卵...になるかも知れなかった、ゆで卵のことを思い出した。
先輩が今日は暑いので温泉卵が食べたいと言い出し、そして俺も軽率にその提案、と言うか願望に乗り気になってしまったのが間違いだったと思う。
実験等で使うガスバーナーを用いて、持参した卵を半熟加減まで茹でると言うことが、こうも難しいとは思わなかった。
俺が火加減を失敗して、先輩の要望に沿えなかったのは事実である。
俺は素直に謝罪した。
「ともかく」
「はい」
「相馬君は何か夏休みの予定は立てているの?」
またしても藪から棒の会話の方向転換に、一瞬だけ面食らった。
だがすぐに、先輩はこう言う人だったなと思い返す。
脈絡などこの人、
小笠原先輩はこの深海同好会の長である。
そもそも同好会も先輩が作ったものである。
つまり、端的に言えば彼女は何故か重度の深海オタクで、三度の飯より水深200mを愛す、と言う変わり者であり困り者なのだ。
深海魚、水質、地形、その他諸々と言った具合に、「深海」に関したありとあらゆる事象を愛してやまない人間で、俺の一つ上の先輩にあたる。
「計画ですか」
夏休みといえ、宿題と勉強以外は特にすべきこともなく、そして残念ながら今の所したいこともそう見つかってはいないと応えた。
彼女はそれを聞いて満足げに頷く。
先輩の、肩口まで切り揃えた黒髪が、ふぁさ、と揺れた。
「私と一緒にアルバイトをする気はない?」
「いつ、どこで」
「沼津の深海水族館で2日間」
少し考えてみた。
沼津は俺の住んでいる街からそこそこ遠い。
電車を駆使することになるから、当然交通費も掛かるし、かと言って100Km以上離れているわけでも無いので、学割も申請出来ない。ともすればバイト代より交通費の方が高くなっていました、という間抜けな事態も十分にありうる。
懐事情を鑑みて、俺は泣く泣く断ろうとした。先輩と共に働けるのは確かに魅力的だが、世の中は世知辛い。
「もうしわけ」
「バイト代は確か日給一万五千円くらい」
「げえっ」
驚きのあまり、締められたニワトリのような珍妙な叫びが出た。
あまりに不自然な高給だ。
ひょっとしたらそのバイトは、何か法に抵触する感じの仕事ではないのだろうか。
だがしかし、それならば電車代を鑑みても差し引き二万円以上のお釣りだ。
先輩の提案は魅力的だった。
先輩と二日間過ごすのも悪くはないかも知れない。俺は先輩が嫌いではなかった。
にべもなく、同行の旨を告げる。
かような事情で俺は、高校二年の夏休みを、深海少女と過ごすことに決めたのだった。
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