山の声

小野 大介

本文

 職業柄、色々な話を収集するのが癖である。

 その中でも収集率が良く、個人的に楽しみにしているのが“怖い話”だ。

 これは、たまたま立ち寄った居酒屋で知り合った、山田さん(仮名)という年配の男性が教えてくれた出来事である。


 山田さんの趣味はドライブで、なにかと時間を作っては、海や山へと車を走らせていたそうだ。と言っても、車が特別好きなわけではなくて、遠出をし、見知らぬ土地を訪れるのを楽しみにしていたのだった。

 そのときも、着の身着のまま、これといった目的地も決めずに都会を離れ、山を目指して走っていた。

 ナビによると、山の中腹あたりを走っていたときだ、登山道を見つけた。

 せっかくだから山登りでもしようかと気まぐれを抱かれた山田さんは、その近くにある、駐車場とは名ばかりの更地に車を停めた。

 山田さんが気まぐれを抱かれるのはいつものことで、車にはあらかじめ山登りに必要なものを入れてあった。登山用の服やブーツ、リュック等々。食料の類いも準備してある。

 山田さんは素早く準備を整えると、軽快な足取りで登山道へ向かわれた。


 頂上に到着したのは、だいたい二時間後のこと。

 アウトドアに慣れている山田さんにとって、なんということもなかった。

頂上は見晴らしのいい展望台になっていて、平日ということもあり、登山客の姿はほとんど見られず、途中、数人と挨拶を交わす程度だったそうで、その場には山田さん、独り。なんだか貸切のようで、気分がよかった。

 他の人がいれば控えるが、今は山田さんただ独り。せっかくだと思い、展望台に身を乗り出して、見晴らしのいい景色に向かって声を上げた。


「ヤッホーッ!」


『ヤッホーッ!』


 やまびこが答えてくれた。

 とてもきれいに聞こえたので、何度か試してみたが、やまびこはその都度、答えてくれたのだそうだ。

 満足した山田さんは、展望台を離れようとした。

 そのとき、聞こえたのだそうだ。


『気をつけて』


 その声は確かに聞こえたそうだ。だから、山田さんは思わず、「え?」と、後ろを振り返ってしまったという。けれど、後ろには誰もいない。いままで見ていた景色があるばかりだった。

(空耳だろうか?)

山田さんは自分の耳を疑いながらもまた前を向き、登ってきた道を下り始めた。

登山道は一本道だった。

 一本道のはずだった……。

 けれど、気づいたときにはもう、そこはどこかもわからない森の中だったそうだ。

 看板を目印にして歩いていたにもかかわらず、いつの間にか迷い込んでいた。

「あれ、おかしいぞ……」

 登ってきた道を逆に下っていたはずなのに、気づけば地面は平坦になっていて、あるはずの道も見失っていた。

 山田さんはすぐにおかしいとわかった。ふと余所見をすると、そこはもう森の中だったからだ。まるで、夢でも見ているような気分だったそうだ。

「これは……キツネやタヌキにでも化かされたかな?」

まだどこか余裕のあった山田さんは、辺りの様子をうかがいながら、苦笑いを浮かべていたという。

 だが、すぐに笑えなくなった。

「あるものを見た……」

そう言うと、山田さんは言葉ではなく、手近にあった紙ナプキンに、アンケート用にと置かれてあった安っぽいペンを取り、ある絵を描いてくれた。

黒く塗り潰された人影のような形に、白い二つの眼のようなものがあるそれは、例えるならば、黒いテルテル坊主のようだった。

「必死になって逃げたよ」

ペンを元あった場所に戻しつつ、山田さんはまたぽつりと呟いた。

そして仕切り直すように、再びその出来事を話し始めた。


木々の間から現れたそのなにかを見たとき、山田さんは、直感的に逃げなければいけないと感じたそうだ。

 気づけば走り出していたらしい。

 道を見つけられず、どこへ逃げればよいかもわからず、しかし、そんなことなど気にもせず、ただひたすらに走っていたそうだ。

 時々、後ろを振り返ると、また例のが、木々の間から現れたそうだ。

 気づけばひとつではなかった。いつの間にか、それはたくさんいた。

「本当に、たくさんいたよ」

 山田さんは少し俯いて、何故か力強くそう言った。

 それは自分を追いかけている。だから、捕まってはいけない。

 山田さんは自分の直感を信じ、必死に逃げ続けた。

 すると、どこからか声がしたそうだ。


『逃げて』


声は地面の下から聞こえてきた……いや、空から聞こえた……いいや、違う。すぐそばから聞こえてきた……いや、違う。どれも違う。あのときのあの声は、頭の中から聞こえてきた気がする……

山田さんはそう、何度も、一番正しい表現を探し、言葉を繰り返した。


『捕まってはいけない』


 また声がする。

 山田さんは走る。

 例のが、後ろから大群で追いかけてくる。

 そんなことが何度か続いたあるとき、また声がしたそうだ。


『あの光。あれが出口です』


その声の言う通り、行く手に光が見えた。

 光の向こうには森ではない景色が見える。出口だ。これで助かる。

 山田さんは後ろを振り返り、例のが、すぐ後ろにまで迫っているのを知った。

 すでに事切れそうだった気力を振り絞って、全力でひた走った。

光はもう目前。

光に届いた。

助かった。

 山田さんが光の彼方に手を伸ばしたそのとき、景色はふいに開けた。


『ご苦労さん』


 その声が聞こえた後のことはよく覚えていない。覚えているのは、写真にとって残したような、一瞬一瞬の光景だと、山田さんは言った。


 見晴らしのよい風景。

 自分の右足が崖を踏み抜く瞬間。

 遥か彼方に見える地面。


 気づいたときには目の前が薄暗くなっていて、全身がひどく痛んだ。いっそ殺してくれと叫びたくなるほどの苦痛だったそうだ。

身体は動かず、声も出せず、かすかに見えるのは、赤く濁った地面の映像だけだった。けれど、その中で、耳だけは不思議なほどよく聞こえた。


「また止められなかった……」

「お願いだから、生きてくれ……」

「もう、私たちのようなものを増やさないでくれぇ……」


 いくつもの声が聞こえた。すると、不思議と身体が動いたそうだ。

 まるで、なにかに操られるようにまず首が動いて、次に身体が動き、気づけば、自分が落ちたと思われる崖を見上げていた。

断崖絶壁がそこにはあり、その上では、あの黒いテルテル坊主のようなものが、崖下の自分を見下ろしていたそうだ。

そのときは不思議と怖くなかった。何故か、かわいそうに思えた。

それで気づいた。

(ああ、そうか、彼らも、あの声に騙されたんだ……)

 すると、目の前が真っ暗になったそうだ。

 次に覚えているのは、病室の白い天井だったそうだ。

 それからしばらくして、見舞いに来てくれた当時の恋人に教えられたそうだが、医者がこぼしたそうだ、奇跡だと、あの高さから落ちたら普通は助からない、どうして生きているのか不思議でしょうがない、と。

 そして、これは病室を訪れた警察の方が言っていたそうなのだが、今までにも何度となく、あの場所で人が死んでいる。てっきり、今回も自殺かと思った、と。

「きっとねぇ、彼らが助けてくれたんだと思うんですよね」

 酒の肴をつまみながら、山田さんはそう呟いていた。

「いいかい、山に語りかけちゃいけないよ。目をつけられるからね」

 去り際にそんなことを言い残した山田さんは、慣れた手つきで車椅子を操り、独り、夜の街へと消えていった。


【完】

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山の声 小野 大介 @rusyerufausuto1733

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