第36話 十一月三日 文化の日 プラスα

 椅子に座り、新しく買ったスニーカーに紐を通している店長である。

 出っ張った腹が邪魔をして結び目が見えないようである。

 蝶々結びが、片結びになっている。

 それを見ている大野君から間違いを指摘する言葉は出てこない。


「大野君。文化の日にちなんだイベントを考えていたけど……何も浮かんでこないな……」


 真新しいスニーカーの強度を確かめるようとしたのか、座ったまま勢いよく右足を前に突き出した店長だった。

 しかし、片結びで長く伸びた靴ひもを左足で踏んでいたために身体ごと引っ張られると、椅子から滑り落ちてしまった。

 慌てて大野君が手を伸ばして助けようとしたが、間に合わなかった。《ゴツン!》椅子の角にしこたま頭をぶつけた。


「痛てって~!」


 後頭部を摩りながら痛がる店長。


「大丈夫ですか? 文化に何の貢献もしない店長から名案なんか浮かぶはずないじゃないでしょ。変な事聞くからこんなことになるんですよ」


 大笑いしながら、助け起こすことも無く毒を吐き続ける大野君である。


「じゃあ大野君は文化に貢献したことがあるのか?」


 睨みながら言い返す店長。


「僕は……ないですよ。でも親父の三人目の奥さんは東南アジアの人ですから」


「それがどうしたんだ? 世界を又にかけたスケベ親父だろう」


「これは、国家間の文化交流といって立派な『文化の貢献』ですよ」


 何故か、家庭の事になると脳ミソが異次元に吸い込まれていく大野君である。


「もういい。君の家の事情には介入したくないし……聞きたくない」


「でも、今日は祭日ですから、何かしないと……」


「仕方ない。精肉部門が発注ミスで大量に仕入れた鶏肉があっただろう?」


「あれは『賞味期限が過ぎて臭いが出ているから捨てる』って……」


「勿体ないだろう。惣菜で唐揚げにしたら売れるんじゃないか?」


「それは、違反でしょう」


 呆れる大野君である。

 以前に本社でコンプラ担当をしていた店長の言葉とは思えなかった。


「かまうもんか。売っちゃえよ」


「……」


 大野君は、悪魔の顔になっている店長を無視した。


「そう言えば、今日は『ゴジラの日』『手塚治虫の日』と知っていました?」


 話をすり替えた。


「日本のSFに金字塔を立てた巨匠だぜ。知らないはず無いだろう」


「……実は、今日の日にちなんで――僕が発明したSF装置を持ってきたんですよ」


「SF装置? 何を言っているんだ。大丈夫か――大野君……おい!」


 不思議な事を言いだした大野君である。

 制服のブルゾンを脱ぎ捨てると、いつから着込んでいたのか、下から白衣が現れた。まるでお茶の水博士のようである。


「何だその格好は? 本当にどうしちゃったんだ」


 大野君から返事は無い。


 大野博士は、おもむろにふところから柔らかそうなビニールを取り出すと、天頂にある突起物に口を付けて息を吹き込み始めた。

 胸の盛り上がりとへこみが交互に繰り返される度にビニールは徐々に膨らみ、ついには大きなゴムボールになった。

 見た目は――そう、完全にバランスボールらしく見えた。

 いや、それにしか見えなかった。


「大野君……それは、バランスボールじゃないのか? いや、バランスボールだろ!」


 店長銀色のボールを右手で器用にドリブルをしている大野君である。


「そうです……これが、僕の開発した『異次元バランスボール』です」


「異次元バランスボール?」


 心配を通り越して、怖くなってきた店長は、軽く首をすくめた。


「このボールにまたがって、二度、三度とジャンプすると『異次元の世界』を覗くことが出来るんです」


 勝手に説明を始めた。


「誰か、隣の中川内科の先生を呼んで来てくれ!」


 マジで危ないと判断した店長は、事務所から隣の食堂に向って声を掛けた。


「信用していないですか? だったら、論より証拠で座ってみてください」


 食堂からは返事が返ってこない。〈ここは逆らわない方がいいかな〉と考えた店長はシブシブとバランスボールにまたがった。

 座ってみても、やっぱりバランスボールだった。


「これでいいのか? なんだかバランスがとりにくいな」


「その状態から跳ねてみてください」


「こうか?」


 お尻を少し持上げ、そして軽く降ろしてみた。《ブン!》小さな機械音が聞こえたと思ったら、降ろしたと同じような力で押し返してきた。


「お! これは……なかなか難しい……」


「絶対にボールから落ちないでくださいよ。異次元の世界に落ちますよ。ただ、万が一落ちても……十回クリアしたら帰って来られますからね……店長……」


 大野君の声が急に遠くなった。


「え?」驚いて振り返った拍子にバランスを失いボールから滑り落ちてしまった。


「大野君が、急に声を掛けるから転んでしまったじゃないか。結構難しいぞ……これは」


 お尻を摩りながら起き上がろうとする店長である。


「店長、早く起きてください。もうすぐ惣菜から試食が届きますよ」


「試食? そんなもの……いつの間に頼んだ――ウガッ!」


 店長の息が詰まった。

 振り返った店長の目に飛び込んできたのは――顔全体が固いウロコに包まれた大野君だった。

 口は耳まで裂け、赤くて長い舌がニョロニョロと出たり入ったりしている。

 でも、その顔は紛れも無く大野君だった。


「大野君? なんだ……その姿は。ヘビ――いや、トカゲじゃないか。爬虫類だぞ!」


 しどろもどろで言葉にならない。額から脂汗が吹き出している。


「店長こそ、どうかしたんですか? 脳梗塞じゃないでしょうね」


 心配して差し伸ばしてくれた大野君の手には、水かきがあった。


「冗談はやめてください。ほら、惣菜が今日の特売の試食を持ってきましたよ」


 事務所のドアを開けて入って来たのは、ぬらり屋の制服を着ているが、剥き出しの顔と腕をウロコに覆われている女性パートさんだった。

 歩くたびに床をドンドンと叩く大きなシッポに違和感は無かった。

 本物のワニのシッポに見える。


「なんの……特売だ……」


 店長は、この場から逃げ出したかった。


「店長が言ったでしょう。古くなった食材を捨てるのは勿体ないから『唐揚げ』にして売れって」


「鶏の唐揚げ……それは、止めようと……」


「何を言っているんですか? 鳥は我々の天敵……殺しても、食べたりはしませんよ。これは、大量に仕入れすぎて期限が切れた『蛾』と『クモ』ですよ」



 近づいて来るパートさんが持つトレーから、蜘蛛の長い足と、蛾の羽が飛び出していた。


「問題ないかどうか……食べてみたいんでしょう?」


 大野君の瞳孔どうこうが縦長に伸びた。

 トカゲの目と呼ばれる「有鱗目」を目の当たりにした店長の背筋は完全に凍った。


 その時、ある記憶が蘇った。

〈バランスボールを十回クリアできたら、帰って来られますからね〉人間の大野君の言葉である。


 脂汗が目に入り視界がぼやけていたが、店長席の横に転がる銀色のバランスボールを見つけると、脱兎のごとくボールに飛び乗り――勢いよく跳ねた。

 一回、二回、三、四、五、六――七回目を跳ねる前にバランスを崩して倒れてしまった。

 運動神経が鈍くなる年齢とはいえ、早すぎる落下である。


「しまったぁ! 落ちたぁ」店長が叫んだ。


「大丈夫ですか店長? どうしたんです急に大きな声を上げて」

「その声は……大野君か?」


 辺りは真っ暗で何も見えない。

 手探りで手を伸ばそうとしたが、手が前に伸びない。


「コレはどうした事だ。大野君ここは何処なんだ?」


 すがる気持ちで大野君に訊ねた。

 目が慣れて来たのか、薄ぼんやりと周りが見えてきた。


「何処って? どうかしたんですか? 脳梗塞じゃ無いでしょうね」


「それは、さっき聞いた……とにかく手が使えないんだ」


「手も何も、我々『ミミズ族』に手なんて最初から無いでしょう。それより今日の特売は古くなった『アリの糞』で……本当にいいんですか?」


「アリの糞を食べるのか?」身も凍る会話である。


「我々の主食である腐葉土なんてもったいないから、古くなったアリの糞と混ぜて『揚げたら』大丈夫だろうって。今、惣菜のパートさんが試食を持ってきますから」


 暗闇に目が慣れた店長。

 穴の奥からゴヨゴヨとうごめきながら近づいて来る、のっぺらな巨大ミミズが見えた。

 店長の背筋は音をたてて――凍った。


 後ずさりする足元(足が無いが)にバランスボールの柔らかい触感を感じ取った。

 大慌てボールまとわりつく店長――クネクネしながら――跳ねた。

 一回、二回、三、四、五、六、七、八――九回目を跳ねる前にバランスを崩して倒れてしまった。

 運動神経が鈍くなる年齢とはいえ、身に付かなさすぎる落下である。


「しまったぁ! 落ちたぁ」店長が叫んだ。


「大丈夫ですか店長? 急に大きな声を上げて」


「九回! あと一回で十回なのに、九回でこけたぁ」


「球界? 野球の話をしているのですか? それなら、今年も『エンマ・カマユデーズ』が優勝ですよ」


「『閻魔の釜茹で』……ここはどの異次元なんだ?」


 大野君らしき声の主に振り返った店長。

「グッハ!」意識が飛んでしまいそうになるのを必死で押さえた。


「お・お・鬼じゃないか? 大野君がどうして……角が二本も生えて……」


 そこには、頭から大きな角が二本生え、口からは長い牙が剥き出しになったまま、充血して吊り上った目で店長をにらみつける大野君が立っていた。

 異形でも何故だか大野君だと分かるのが、異次元世界の摩訶不思議さである。

 ちなみに「虎のシマシマパンツ」は穿いていないようだ。


「僕は角二本族の鬼ですけど、店長は希少種の『角五本族』じゃないですか」


「五本? なんだ……この数は……どうりでさっきから頭が重いと思っていたんだ」


 頭に生えている卒塔婆そとばのような角を両手で確かめた。


「五本族は、二本族を馬鹿にしていると聞いたけど……店長もそうですか?」


「待ってくれ。俺は決っしてそんな気持ちは……」


 横目で睨まれると凄味が増す。

 弱気な店長である。

 鬼に対して強い態度を保てる人間など居ないから――当然ともいえる。


「とにかく、もうすぐ開店ですよ。まだ『地獄文化の日』の特売を何にするんですか?」


「ここは――地獄なんだ。え! 特売って?」


 地獄と聞いて、生きる気力が抜けていく店長である。

 地獄だから当然ともいえる。


「大丈夫ですか? 五本の角に守られているんだから脳梗塞は無いでしょう。今日は『何国人』の亡者を販売するんですか?」


「何国人? 亡者? 人間を売るなんて……」


「賞味期限の切れた人間は廃棄処分にするけど『勿体ないから揚げて売っちゃえ』と言ったのは店長でしょう」


 異次元世界は微妙に重なっているようだ。


「なら……アメリカ人で……」


 恐怖のあまり思考回路が、言いなりモードになっている。


「アメリカ人は、肥満で脂肪が多いから、唐揚げには向きませんよ」

 この世界の大野君は案外と食通の様だ。


「なら――ドイツ人で……」


「折角ビールを飲んで、美味しい肉になっているのに唐揚げには勿体ないでしょう。生で食べないと」


 和牛を育てるのと同じ方法である。


「牛肉のサシみたいですね。なら……中国人で……」


 大野君に対して敬語になっている。


「それはだめです。汚染されて……」(これ以上は書かない方が良いと判断した)


「じゃあ、日本人で……」身体中が凍りそうだ。


「日本人が一番使えませんよ。何を言うかと思えば……」


「どうして日本人が使えないんだ?」


 少し反骨した。日本男児である。


「日本は、超高齢化社会で年寄りばかりでしょう。ガラにしかなりません。ヒトガラは出汁を取るしか使い道がありません」


「そんな……」鶏ガラ扱いである。


「日本人の亡者は、やっぱり……すり鉢に入れて、スリコギで……」


 その時、大野鬼の後ろに、バランスボールがコロコロと転がり出てきた。

 今までの店長には見たことも無いような素早い動きで、ボールに飛び乗ると――勢いよく跳ねた。祈りながら跳ねた。

 一回、二回、三、四、五、六――十回目を跳ねた途端、目の前が急に明るくなった。


「店長! 店長、大丈夫ですか――起きてください。救急車呼びましょうか?」


 短時間で凄すぎる情景を目の当たりにした店長の視点は定まらない。

 それでも、ぼんやりと映る情景は見慣れた大野君の顔だった。


「大野君――俺は……いや、ここは何処だ?」


「何処も何も……事務所に決まっているじゃないですか」


「ぬらり屋の事務所か? 事務所なんだな……」


「大丈夫ですか? かれこれ強く頭を打ったから……馬鹿になっていませんよね?」


「頭を……打った? 強く?」


「そうですよ。靴をいじっていて、何を思ったのか急に足を上げるから転んで、椅子に頭をぶつけたんですよ」


「確かに頭が痛い……」


「そりゃぁ、痛いでしょう。凄い音がしましたから。気絶していたんですよ」


「気を失っていたのか? じゃあ、今までのは夢だったのか……」


「夢? またスケベな夢でも見ていたんでしょう」


 怪我をしているかもしれない店長に対して毒を吐く大野君を見て、ホッとする店長である。顔に安ど感が滲み出てきた。


「ところで、バランスボールなんか……無いよな」


 笑いながら訪ねた。


「なんですかそれ? やっぱり病院に行きますか?」


「大丈夫だ……なんか、酷い夢を見ていたようだ」


 使い慣れた店長椅子に手を掛けてゆっくりと立ち上がった。


「そうだ、店長。文化の日の特売はどうするんですか? やはり古い――」

「いや、駄目だ。まっとうに良い商品を提供しよう。誤魔化しや、だましは止めよう」


 心が入れ替わった店長である。


「それでこそ、店長ですよ。それじゃ今日入荷した新鮮な『松ぼっくり』を特売にしますね」


 そう言いながら、事務所のドアに向い歩き出した大野君である。


「松ぼっくり? それはなんだ? おい、大野君!」


「何って……僕達みんなの大好物じゃないですか……」


 手を振りながら立ち去る大野君の「ズボンのお尻」が大きく空いていた。

 そこからは強い雄を誇張するように――真っ赤なお尻が――突き出ていた。

 そして、そのお尻から伸びる長いシッポが手を振るように揺れていた。


 そういえば――大野君がサル顔だった事を思い出した店長だった。


 呆然と見送る店長の横を、銀色の玉に乗った曲芸サルのパートさんが通り過ぎて行った。

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