第32話 十月二日 豆腐の日

 開店前――冷蔵商品の冷たさを我慢しながら並べた豆腐。

 その、コーナーに大野君を呼び出した店長である。


大野君。今日は『豆腐の日』だから、豆腐を奉仕品にしてバンバン売ろう」


「でも店長……暑くもなけりゃ寒くもない、この季節にどんな豆腐料理を提案して売り込むんですか?」


「そうだよなぁ……冷奴にしても、鍋にしても時期じゃないものなぁ……」


「料理提案くらいしないと、安いだけでは売りにくいですよ」


 その通りである。

 八十パーセント主婦は、お店に来てから晩飯のメニューを考える。

 自分ちの冷蔵庫にからびて、転がっている残り物の食材を頭に浮かべて、いかに誤魔化し料理を作るかに頭を悩ましているのである。


 お父さんの出世には悩ましいけど、料理では悩ましくない奥さんを持つお父さん、週の半ばでカレーを食べ、週末に鍋を毎回食っていませんか? 


 そうした不幸なお父さんを助けるためにも、料理提案は大事なのである。


「いっそ豆腐の詰め放題でもするかな?」


「店長は、詰め放題が好きですね。無理に決まっていますけど……」


 頭でいったん整理してから口に出すことが出来ない店長である。

 この年代から団塊の世代にかけて多く生息する「言っタッタ族」である。


「そうだ! この売り場には豆腐が二十種類以上並んでいるよな」


「どうしたんですか。今更そんな当たり前のことを……呆けました?」


 大野君も、言っタッタ族である。


「全ての豆腐を、みんなで試食して『従業員が選ぶ豆腐食べ比べランキング』を発表しようじゃないか。そして一番になった豆腐を一週間大特価で販売するってのどうだ?」


「アイデアには賛成ですが……それは無理ですよ」


「金か? 豆腐全種類を少しずつ従業員に試食させても経費なんかしれたものだろ」


「店長……肝心なこと忘れていませんか?」


「肝心な事? 金以外にかい……」小さい男である。


「今年の夏、青果のパートさんが作ってきてくれた例の『筑前煮ちくぜんに』の事件ですよ」


「……筑前煮? あっ! あれの事か」


「アレの事ですよ」


「夏の暑い日に冷房もかけないで、食堂のテーブルに放ったらかしにしていたもんだから筑前煮が腐ってしまった……あの事件!」


「そうです。あんなに異臭を放っていた筑前煮を『美味い』『これはいける』『不思議な味付けだけど食える』『ちょっと酸っぱい香りが食欲をそそる』などと言って、旨そうに食べて……」


「たしか……それで腹痛を起こした奴が二十人以上いたんだったな」


「思い出しましたね」


 あれか? あれですよ。で始まったわりに、思い出すのに時間がかかった。


「そうだった、忘れていた。ここは日本一『バカ舌の従業員』が多い店だったんだ……」


「とにかく、この店で味覚云々みかくうんぬんを表に出すのは……危険すぎますよ」


「なんだか悲惨な店舗に思えてきたなぁ」


「そんなに落ち込まないでください、個人の資質の問題ですから」


「それが一番の問題じゃないか……」


 店長と、大野君が一番の問題であることに気づくはずもない。


「もう『豆腐の日』はそんなに気にしなくてもいいんじゃないですか?」


「なぜだ? 折角の記念日だろう」


「豆腐の日って毎月十二日にやっていますから。その日にチョット安く売れば、それだけで喜んでくれますよ」


「なんだ……やっぱり毎月やっているんじゃないか。年に十三回もある記念日だったのかよ」


 当然である。駄洒落記念日だじゃれとはその程度のものである。


 言ったもの勝ちなのだから。


「それなら毎月十三日と十月三日を『父さんの日』にすればいいのに」


「それは……」


 大野君が、何か言おうとしている。


「そうしたら、『父の日』と合わせて、年に十四回も祝ってもらえるじゃないか。お父さん大喜びだなぁ」


 やはり思いつきで口走っている。


 そう――「言っタッタ族」である。


「残念な事が二つあります」

 やっと、大野君が口をはさめた。


「一つは、十三日の『父さんの日』はもうあります」


「あるのかい!」


「そしてもう一つは……お母さん達に『父さんの日』なんか祝う気がないから、全く浸透しそうにない……ってことです」


「とにかく、従業員が腐ったものを食べないように教育をしよう……」

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