第25話 六月某日 父の日

 せっせと本日の特売品である牛乳を陳列している大野君の後姿を、腕を組んで見下ろしている店長である。

 手伝う気はまったく無さそうである。


「大野君。今日は父の日だけど……正直、何のイベントも考えていないんだよなぁ。何か思い浮かばないか?」


 腕を組んで人を見下ろしている態度が、物を訪ねる姿勢かどうかが分かっていないようである。


「父の日は今日ですよ。今頃イベントはないか? と言われても……」


「そうだよなぁ。俺も今日が『父の日』だったなんて……今朝気づいたくらいだからな」


 こんな二人が、この店の店長と副店長であり、家庭に帰ればおとうさんなのである。二人の置かれている家庭事情がよく分かる。


「じゃあ……こんなのはどうです? おとうさんが、普段は食べさせてもらえない『ご馳走だ!』をタイムバーゲンしませんか?」


「やっぱりタイムバーゲンしかないよな。しかし……おっさんが思う『ご馳走』って何だろな?」


「父親がおっさんとは限らないでしょう。焼肉なんてどうです? 黒毛和牛のロース肉なんて喜びますよ」


 自店で売っているにもかかわらず、一度も肉を買った事が無い大野君である。

 憧れるように宙を見つめている。


「おい、おい。目をキラキラさせるんじゃないよ。あくまでも、嫁さんが買ってくれる価格じゃないと駄目だろ? いくらご馳走でも、高級すぎたら高嶺の花。絶対に買ってくれないだろう」


「じゃあ……刺身にしますか? 鯛とマグロ、カンパチにカニも入れて『贅沢四点盛り』なら、お父さんも喜んでくれるでしょう」


 また、憧れるように宙を見つめる大野君である。


「月に一回、給料日にイカとタコ、エビにサーモンの『お手頃四点盛り』がご馳走として食卓に並ぶのが精一杯なのに……そんな豪華な刺身を買い物かごに入れてくれる訳がないだろ! 嫁からしたら、カンパチもイカも同じレベルなのだからな」

 話が、だんだんと身近な話題に変わってきている。


「それでは、ビールでも安くし目が下にますか?」


「ここ数年は第三のビールといわれる『雑酒』しか飲んだ記憶がないぞ。今更、ビールが飲みたいって言っても『これでも十分美味しいって言ったでしょう』と逆襲されるのがおちや。晩酌を取り上げられるよりはマシだから……我慢する」


「さっきから、愚痴ぐちと。無理なのは店長の家庭だったら……でしょ」


「じゃあ大野君の奥さんなら、買ってくれるのか?」


「…………」


「何か言えよ!」


 黙り込んで考えている大野君の額に、自分のおでこを擦りつけて突っ込む店長の姿を周りのパートさんが気持ち悪そうに見ている。

 完全に違う世界を堪能たんのうする人たちだと思われたのだろう。


「僕の妻も……まず買ってくれません……」


「ほらみろ! じゃあ、大野君なら何が食べたいのかを言ってみなよ」


「そうですね。キンピラゴボウや、肉じゃが……温かい料理なら何でも幸せです」


「なんか……寂しい答えだな」目頭を押さえる店長である。


「そういう店長はどうなんですか?」


「俺は、そうだな……塩サバや味噌汁……温かい料理かな」


「なんか、世のお父さんの家庭事情を垣間見たみたいで……むなしいですね」


 二人の会話に感極かんきわまった店長が大野君と握手をしようと手を伸ばしたが、牛乳の陳列を始めた大野君の視界には入らず、虚しく空をつかんだ。

 家庭でも大方このように空振りをしているのだろう。


「父の日のイベントはやめよう……か」


 新しい店長が赴任してくるまで――ぬらり屋で《父の日のイベント》が開催されることはなかった。

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