第24話 六月某日 衣替え

 女子更衣室にゴキブリが出没する――と、パートさんから苦情を出てきた。

 大野君と二人で掃除している店長である。

 パンくず、菓子くず、惣菜くずがいたる所から出てくる。


「女子更衣室を掃除する時は変な疑いを掛けられないようにしないといけないから、大変だなぁ」


 店長が下心を押さえて掃除をしているが、その顔からは決して嫌がっていない事が手に取る様に伝わってくる。

 新たに「人間のクズ=店長」を心に追加した大野君である。


「大野君。今日から『衣替え』だというのにパートさんのほとんどが冬服の長袖のままじゃないか。ちゃんと伝えたのか?」


 みんなが、少しでも薄着になる事を期待していた店長は、スケベ心を隠そうともせずに愚痴っぽく言った。


「伝えましたよ――でも『こんな寒い店内なのに、夏服で作業するなんて、風邪ひくだけよ! 馬鹿じゃない!』って声が大多数で。とにかく、今のままの長袖で一年間通すそうです。別に問題ないでしょ?」


「問題はないこともないけど……」


「どんな問題があるんですか?」


「そんな事……恥ずかしくて言えないよ」


 両手で顔を隠して恥ずかしがる店長。

 短い指が五本付いているてのひらだけでは、自慢の顔がデカすぎて眉毛から上とアゴが隠しきれていない。


「こんな、場所で変な声出すのは止めてください。掃除が終わるのをみんな外で待っているんですから」


「すまん……つい……滅多めったに入れない場所に来たもんで興奮しちゃって」


「滅多も何も……僕も二回しか入った事ないですからね。とにかく早く終わらせましょう」


「何か……ココに長居したくない事情でもあるのか?」


 なぜか、秘密の花園に来ているにもかかわらず、早く外に出たがる大野君を不審に思った店長である。


「店長は聞いていないですか? そこの奥……壁に囲まれた薄暗い場所が有るじゃないですか。そこに……時々……出る……らしいんですよ」


「出る? 何が?」


 四十人は有に収容できる広さの更衣室である。

しかし、四方の壁のどこにも窓というものが見当たらない。

 この部屋の明るさを保証しているのは天井に据えられた二本の古ぼけた蛍光灯だけだった。

 数十年に渡り増改築ぞうかいちくを繰り返して増床されたこの店舗には、こうした照明設備がアンバランスな部屋が他にもいくつかあった。

 その中でも二階廊下の一番奥に位置する、この女子更衣室は特に不気味で暗い場所だった。


「髪が腰まで伸びて、古ぼけた緑のブルゾンを着た女性の霊が……出るんです」


「本当か? 俺はそんな噂を聞いたことないぞ」


臆病者おくびょうものの店長は、霊的な話をすると、直ぐにワァーワァ言って聞こうとしなかったからですよ」その行動には記憶があった。


「それなら、それをここで話すなよぉ。もう遅いけど……聞いちゃったし」


 急に逃げ腰になる店長である。

 手に持った塵取ちりとりをその場に置くと、外に逃げようとした。掃除が終わっていないこの状況で逃がすわけにもいかない大野君。

 ホウキで足を引掛けて店長を転がした。


「痛いじゃないか! なんてことをするんだ。怪我でもしたらどう……」


 床に手をついた状態で大野君に振り返った店長。

 一瞬言葉が詰まった。腕を組んで見降ろしている大野君の肩越しから有りえない光景が飛び込んできたのだ。


「……大野……君」


「なんですか? 何処を見ているんです?」


 店長が怒るだろうと思っていた大野君にとって肩すかしの行動だった。

 しかし、すぐさま店長の視線が自分の後ろを凝視ぎょうししていることに気がついた。

 背中にゾクッとする悪寒おかんが走った。


「後ろ……大野君の後ろに……誰か居る……」


「えっ。嘘ですよね? 僕を脅かそうとしているんでしょう」


「…………」何も言わないで、後ずさりしている店長。


 恐る、恐る振り返ろうとする大野君。

 なかなか首が後ろに回らない。

 心のどこかで「振りむくな」と言っている声が聞えているのだ。

 それでも眼だけは肩越しから後ろの光景を視界にとらえた。


「ムッ……グッ! ガハッ……」声が出せなかった。


 叫ぼうとした大野君の口を、何か陰湿いんしつな力で塞がれたような感覚に襲われた。

 そこには古ぼけた緑色のブルゾンを着た女性が立っていた。

 顔に垂らした長い髪の隙間から片目だけが浮き出るようにクッキリとのぞいていた。

 その瞳は、ほとんどが真っ黒だった。

 ただ、眼球の真ん中に小さく浮かぶ点のような白い瞳孔どうこうが、大野君の震える唇を上から下へと、下から上へと無軌道にキョロョロと追ってきた。


「出たー!」


 やっとの思いで絞り出した声に後押しされた大野君。

 脱兎だっとのごとく入り口に向けて踏み出した。

 しかし、数歩で動きが止まった。

 腰が抜けてへたり込んでいる店長が障害物となって足元をすくわれたのだ。《ガッシャーン》二人の身体が揉み合いながら勢いよくロッカーにぶつかった。

 金属のドアが潰れる音が更衣室の外まで響いた。


「大丈夫ですか……」


 更衣室から響いた音に驚いた数名のパートさんが飛び込んできた。


 彼女たちは更衣室の奥に、折り重なるように床に転げて動かない店長と大野君の姿を見つけた。

 なんとか助け起こされた二人。

 肩を支えられて事務所まで帰ってくると魂が抜けたように椅子に座りこんだ。

 少し前に高齢者雇用で採用した優しそうなシルバーパートさんが冷たい麦茶を入れてくれた。

 それを一気に飲み干した店長は、大野君の肩をさすりながら言った。


「とにかく……今日は帰ろう。気分が悪すぎる。頭の中を整理したい」


 力なくうなずく大野君を抱き起した店長。


 心配そうに見送るパートさんを尻目に事務所を、そして店舗を後にした。

 更衣室の出来事は誰にも、一言もしゃべらなかった。

 話してしまうと、今後更衣室を利用する者が居なくなってしまうことを懸念けねんしたのだ。

 店舗の運営をまかされた管理責任者としての思考は残っているようだ。

 ただ、何もしゃべらない事がかえって「女子更衣室伝説」をまたたく間に独り歩きさせてしまい、その日から誰も入室しなくなった事は言うまでもない。

 店長達が帰った後、更衣室内に放置されていたホウキと塵取ちりとりが何故か更衣室の入口に立てかけられていた。


 二十年前――まだ、ぬらり屋の制服が緑色のブルゾンだった頃の六月某日。

 当時の店長が指示した「衣替え」を無視して一人の中年のパートさんが、夏の制服である半袖のポロシャツを嫌がり、長袖のブルゾンを着続けた。

 普段は真面目で几帳面きちょうめんな彼女が、店長の再三の勧告かんこくにも従わずかたくなに拒み続けた。

 当時はパワハラだのセクハラの概念がいねんが薄く、彼女に対する嫌がらせは陰湿なものだったという。

 ある日、若いパートが彼女のブルゾンをロッカーから盗み出すと、更衣室奥の使わなくなった古ぼけたロッカーに隠してしまった。

 就業時間がせまり制服が無い事に焦る彼女に、その若いパートは「半袖の制服を支給されているんだから、早く着替えて仕事場に出て来なさいよ!」と、投げ捨てるように言うとサッサと更衣室を出て行った。

 悔しさで涙を浮かべていた彼女だったが、決心したように唇をギュッと噛みしめると、その制服にそでを通して売場に出て行った。

 朝の陳列作業で全従業員が右往左往している所に彼女が現れた。

 その瞬間全員が凍りつくようにある一点を凝視ぎょうじしたまま動かなくなった。

 その一点とは――彼女の半袖シャツからあらわに伸びた両腕に広がる、蛇がとぐろを巻いたように赤く腫れあがりケロイド状になった火傷やけどの跡だった。

 かろうじて腕と認識できるのは、火傷を負っていない手首から先で、指が動いているからだった。

 数秒後、ざわめく従業員を不審に思った店長が、彼女の存在に気づいた。

 そして彼女の置かれている今の状況を把握した。

 大慌てで彼女を事務所に連れてきたが――彼女は何も言わないでその場を立ち去った。

 そして二度と戻ってくることはなかったという。


 その後分かった事だが――彼女には幼い娘と息子がいた。

 聡明そうめいそうな男の子と、目のクリッとした可愛い女の子を命より大事に育てていたそうである。


 ある日の夜、彼女の不注意で自宅が火事になってしまった。

 火はアッと間に広がり子供達の寝室を襲った。

 彼女が子供部屋に飛び込んだ時は手遅れだった。

 彼女は火に包まれた我が子を両腕に抱えると、気が狂ったように泣き叫びながら外に飛び出してきた。

 その光景を見た者は、まるで彼女が燃えあがる火の塊を抱えているようだったと証言している。


 二人の幼い命は失われ、命を取り留めた彼女の両腕には子供の「遺影いえい」ともいえるやけどが残った。

 それは悔恨かいこんいつくしみに取りつかれた火傷だった。

 彼女がその火傷の跡を治さない事も容易に想像できた。


 あの事件の後、彼女がどうなったのは誰も知らない。


 ただ、数日後に綺麗に洗濯された半袖の制服が店舗に届いたそうである。

 

 店長と大野君が力なく帰って行く姿を見送りながら、先ほどの優しそうなシルバーパートさんが、長く伸びた髪を隠すように三角巾の中に押し込んだ。


 店長も大野君も知らなかった。

 今回の衣替えを一番反対したのは、あのシルバーパートさんだったことを。

 そして……あの二十年前の事件。

 子供を亡くした彼女の制服をロッカーに隠したのが大野君の奥さんだったことを。


 越えられない悲しみを、ひと時でも忘れたいなら――


「イタズラ」にかぎる――。

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