彼の手は冷たい
水谷りさ
そんなあなたが、世界でいちばん、嫌い
ダーン、ダーンと体育館の床にボールが打ち付けられて、地鳴りを起こす。身体の芯がびりびりと震えた。
「いけいけ、イッカクあがれー!」
くすんだオレンジ色のボールをキープしながら辺りを素早く見回す『彼』。バスケットシューズの滑り止めが床に擦れて小気味良くキュッと鳴って、次の瞬間には『彼』が消えていた。
ディフェンスの間をするりと抜けると、素早くゴールまで駆けて、軽くふわっとボールを上げる。その動きには無駄がなくて、ボールはそのまま軌道を描いてゴールにすんなり収まった。
コートの脇で見学していたギャラリーが一斉に湧く。
私の隣で食い入るように試合を見ていた
『彼』が。
軽く手首を回しながら、ふとコートの外に目をやった。
「えっと……ないす、しゅーと」
私はぽつりと呟いた。誰に言うわけでもない。ただの独り言。
「え、
体育館に響く歓声に飲まれて聞き取りづらいらしく、麻実ちゃんは必要以上に声を張り上げて聞き返してきた。
「あ……ううん」
「っていうかイッカクくん、すっごく格好いいよね!?」
私は少し考えてから小さく頷いた。
「うん」
「格好いいよね!?」
「うん」
「だよね?」
「……うん?」
いつまでも同じ調子で尋ねてくるので、うん? と私は首を傾げた。麻実ちゃんは「そうだよね、うん、格好いいよね」と何度も頷いている。
「でも、
「あれ?」
「……まぁ、でも、人気はあるよね、
「うん。人気者、だよ」
「いいの?」
「……え?」
こてん、とまた首を傾げる。
「なに、が?」
「イッカクくん、人気者だよ。これでまた、さらに人気が上がって」
「うん。いっくん、格好いいよね」
「だからぁ……」
麻実ちゃんは呆れたように肩をすくめた。
そのとき、試合終了のホイッスルが鳴ったので、私は深く考えずに「あ、終わったね」と返す。
「だからね美織ちゃん……!」
麻実ちゃんは少しだけ不機嫌な表情になって私の名前を呼んだ。
「わかってる? イッカクくん、人気者なんだよ? すぐに取られちゃうよ、そんなんじゃ!」
「とら……れる?」
「通じてる? ねぇ、通じてる? 美織ちゃん! なんかぽかーんとしてるけど、日本語理解できてる?」
「あ、う……うん?」
「絶対わかってないよね!」
「あ、うん」
「頷いた! 頷いたよこの子! そこ、素直に頷くとこじゃ、な……」
勢いよくまくしたてるように喋っていた麻実ちゃんが、急にぴたっと動きを止める。私は不思議に思って、じっと麻実ちゃんを見つめた。
麻実ちゃんは声に出さずに「う、し、ろ」と口を動かした。
「美織、それ、パーカー取って」
後ろからある声が降ってきて、あぁ、と思った。私は言われた通りに側のパイプ椅子に掛かっていた真っ赤なパーカーを取って、振り返る。
「いっくん、お疲れ、さま」
「……ん」
『彼』はパーカーを受け取って、真っ白な体操着の上に羽織った。
「イッカクくん、お疲れー」
麻実ちゃんが声をかけると、彼―――いっくんは一瞬彼女に視線を走らせたあと、すぐに私の方に顔を戻して、
「お茶、ある?」
と尋ねてきた。
まるで、ここには私と彼しか存在していないかのように。
無視をされた麻実ちゃんは、怒った様子もなく、ただ苦笑しただけだった。
「いっくん、ちゃんと返事しなきゃ駄目だよ」
私が注意すると、麻実ちゃんは「別にいいよー」と笑った。
「気にしてないよ、いつものことだしね」
いつもの、こと。
そう、これがいつものいっくん。
「美織、お茶」
いっくんが催促してくる。相変わらずそっけなくて、周りのものなんて視界にも入れようとしない。
「いっくん、冷えるの?」
「ん、まぁ」
「鳥肌たってるよ」
試合を終えたほかの皆は、汗だくで大きな息をしている。それに比べて、先ほどゴールを決めて、さらにその前に既に何本かシュートを入れているいっくんは、なぜか雪にまみれたうさぎみたいにふるっと身体を震わせている。
「寒い」
保温可能なマグボトルを彼に渡す。渡したときに一瞬触れた手が、ひんやりしていた。
彼は蓋をかぱっと開けると、口をつけずに器用に中身を流し込んだ。ごくごくと、まるで冷たい水をイッキ飲みするみたいに。
ボトルの口から、わずかに白いもやもやした湯気が吹き出している。実際には、中身は熱い緑茶だった。
猫舌の私は、よくそんな飲み方ができるなーって感心しながらその様子を見る。
「いっくんは……」
ボトルを口から離して、いっくんはキュッと蓋を閉める。
「いっくんは、バスケ部には、入らないの?」
「……なん、で」
今は体操の授業中。バスケットボールのミニゲーム。試合に参加していた中には確かバスケ部の人もいたはずだけど、いちばん目立っていたのはいっくんだった。
私がじっと答えを待っていると、彼はボトルを近くにあった椅子に置き、代わりにタオルを手に取った。汗なんかかいてないのにタオルを顔に当てて、
「……バスケのユニフォーム、寒そうだからいや」
と、くぐもった声で言った。
背が、高くて。
どこか、甘い顔立ちで。
運動神経がよくて、なんでも、できて。本当に、なんでも、できてしまって。
彼は人気者だけど。
でも、たったひとつ、欠点があるとすれば。
彼は、自分が嫌いで。なんでもできてしまう自分が大嫌いで。
そんな自分に群がってくる周りの人間も、心底嫌いなんだってこと。
バスケットボールは団体競技のはずなのに、彼は自分がボールを持ったら最後、敵に渡さないのはもちろん、味方にさえパスをしない。
チームプレーなんて、絶対に、しない。
ひとりで何本もシュートを入れてしまう。
それなのに、誰も文句を言わないから。
彼はそんな人たちが嫌いで嫌いでしょうがないんだ。
「いっくん」
私は彼の腕をくいっと引っ張った。
「私は、いっくんが、大嫌いだよ」
すると、彼はゆっくりと引き結んでいた唇をほどく。
「それは、めちゃくちゃ、嬉しいな」
そんな、ふうに、わらわないで。
「俺は、そんな美織がいちばん好きだよ」
手を、繋ぐ。
ひんやりと冷たい、大きな手が、私の小さな手を包み込む。
「うー、さむ」
うちの学校は登下校のときのマフラーは禁止だから、彼は校則ぎりぎりまで伸ばした髪で首筋の寒さを凌いでいる。
「もう、冬だね」
何気なく言ったら、「いや、まだ秋だから」と律儀に訂正が入った。
「これからもっと寒くなる。最悪。冬眠したい」
「来月からは防寒着が許可されるから、ましになるよ、きっと」
「効果ないし。俺にとっては」
彼の手に力が込もって、ぎゅっと強く握られる。本当に、冷たい。彼の手は氷でできているんだろうか。
彼は体温が低い。平熱がほかの人よりも少し低い、なんてレベルじゃなくて、触れてわかるほど常に身体が冷たい。
手袋とかコートとか一般に防寒着と呼ばれるものは、単に冷気をシャットアウトするだけじゃなくて、身につけている人の体温を逃がさない設計になっている。
でも彼の場合は自分の中に冷たい空気を閉じ込めてしまうわけだから、逆効果、なのかもしれない。
「本当にいつも冷たいね、いっくんの手」
私は強く握られている中から逃げ出した指を、彼の指に絡ませた。このまま握られてるだけじゃ、私の手まで冷たくなりそうだった。
少しだけ、いっくんが唇をゆるませる。
「いつもっていうほど、触ってないじゃん」
学校からの帰り道。人通りの少ない道を選ぶ。
「俺が死にそうになるまで放っとくくせに」
彼とは逆で。私の体温は、すごく高い。身体の中で何かが燃えてしまっているんじゃないかと思うほど。
だから私は彼の『カイロ』なんだ。
こうやって手を握り合って歩くのは。
ただ、彼に私の体温を分けてあげるためだった。
「本物のカイロ、使えばいいのに」
「化学カイロって……凶器」
彼を見上げると、目を見開いて珍しい表情をしていた。
「俺に大火傷を負ってほしいの? 美織は」
彼は、普通の人よりも体温が低くて。
だから、普通の人が起こす低温火傷は彼にとっては
手が冷たい人は心が温かいという。
それは、本当なんだろうか。
「ああでも」
彼の唇が薄くめくられる。チロリと赤い舌がのぞく。
「大火傷は、いいかもしれない。醜い痕が残って、誰からも忌み嫌われるようになる」
「………………」
そう言う彼の顔にはまるでどんな表情も浮かんでいない。何を考えているのか、本当は彼が何を思っているのか、私にはわからない。
「今度、試してみようかな」
「……だ、め」
目頭が、つんと痛みを伴った熱を持つ。
「いやだ、そんなことしないで」
「いやなの?」
「……うん」
「どうして?」
「だ、って、そんなことしたら、痛い、よ。苦しいよ」
「ん……俺も痛いのはあんま好きじゃない」
どこまでが本気かはわからない。でも、もしも、私が今ここで「苦しまずに殺してあげる」なんて言ってしまったら、「じゃあよろしく」って、躊躇いもなく返事が返ってきそうで、少し、怖い。
だって、私は。
彼に、死んでほしくない。彼が痛い思いをするのも、苦しい思いをするのも、いやだ。
「いっくんがもしも、自分を傷つけるようなことを、したら」
声が、張り詰めて、わずかにかすれる。
「もっと、嫌いになる。今よりもっと、いっくんのこと嫌いになる。世界中の誰よりも、嫌いに、なる」
頬を溶かすほど熱い、何かが。滑り落ちた。
「それは」
いっくんは、繋いでいないほうの手を私の頬に向かって伸ばしてきた。そのまま、そっと、触れて、堰を切ったように溢れだしてしまった私の『嘘』を拭い取った。
「嬉しいな、すごく。俺のことを世界中でいちばん嫌ってくれる美織のことが、俺は」
世界中で、いちばん。
―――好きだよ。
彼の手は冷たい 水谷りさ @mizutanirisa
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