第3話 灰と幻想のクオリア

私がかつて抱いた、憂鬱な思いを、少しでもお判りいただけたでしょうか。


これは、「中国語の部屋」、「5分前仮説」、「バーチャル世界仮説」、「テセウスの船」、「スワンプマン」等の仮説あるいは哲学的問いかけ(※要ググ)とは異なるダメージを、私に与えたのです。

なぜなら上記の事柄について不愉快な結論は得たとしても、結局、私個人としては諦観して生きる他ないのですから。


「受動意識仮説」と「哲学的ゾンビ」という考えのタッグが、いかに私を憂鬱にさせたか、という問題を整理するために、「クオリア」(※要ググ)という言葉を付け加えます。知っている方には今さらな知識ですが、とりあえず簡単に言うと。

「クオリア」とは「自意識の実感」のことです。自分で感覚的に定義できる自意識と言い換えることもできるでしょう。「受動意識仮説」を批判する人たちが、判断の拠り所にする感覚でもあります。


しかし。


自分とは、自意識クオリアとは、すべて幻想なのだ。


ここまではいいとして。いや、本当はそれほど良くはないが。

私にとっての問題のポイントは。


受動的に意識しているに過ぎないものなら、

人間的価値として、あってもなくても、

いや、むしろないほうが良いものなのだ。

この嫌な気持ちさえ幻想ならば、なおさら不要だ。


という結論を、私自身が得てしまったことなのです。


それはまさしく、思考の迷宮でした。

「ある事実」に気付かなければ、私もまた「受動的意識仮説を信じた人間のモラル低下」(※要ググ)、あるいは、「自分というモノの安楽死」を願っていたかも知れません。

若い! 若いねえ! 50過ぎてるのに。


では、「ある事実」とは。


このような説を生み出したのは、私と同じ人間です。人間であるということは、それは無意識から生み出されたロジックだということです。

そう、私の無意識は、他人の無意識が外部刺激というインプットになって、悩まされているのです。


なんとマヌケな!


そんなふうに、私が私自身に呆れたとき。

私はようやくとなる事実に気付きました。


もし自意識クオリアが、自分そのものではない要素に過ぎない、別に必要ではない存在であるとしたら、私が気付いたその事実は、自明の理だったのです。


私の無意識をコントロールできる、最大最強のの存在が、そこにあることを。


そのとは……

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