第2話 ゴースト・イン・ザ・カンパニー

「受動意識仮説」を、私的に解釈すれば。

それは、「優秀なロボット従業員しかいない会社の、傲慢な社長」です。


その社長は、会社活動をすべてコントロールしていると思っています。自分あってこその会社だ、自分イコール会社だ、と思っています。しかし実際は違っていて、決済書類が社長のデスクに届いた時点で、すでにプロジェクトは無断で開始されています。ロボットたちによる会議が行われて決議が出ると、社長は、自分の考えた通りだ、と都合よく思いこむのです。


そんな社長、いらないですよね。

そんな自分、いらないですよね。


いなくても会社イコール自分は、完璧に動くのだから、いる意味なんてないですよね。


会社的価値と人間的価値は違う、と反論されるかも知れませんが、ある価値を生み出すことが重要な存在である、という方向性のロジックを持つ限り、このアナロジーは成り立ちます。

価値など関係ない、生きてるだけでよい、という方向性のロジックなら、なおさら自分である必要はありません。


さて。

貴方は「哲学的ゾンビ」という考えをご存知ですか。

知っている方には今さらな知識ですが、とりあえず簡単に(※要ググ)まとめます。


自意識が無い以外、すべての要素が本物の人間と変わりがない存在(哲学的ゾンビ)がいたとしたら、その存在が自意識を持つ本物の人間であると証明できるか。


という考えです。


「哲学的ゾンビ」という考えを初めて知ったときは、なんじゃそりゃ、と思ったものですが、「受動意識仮説」を知ってからは、すぐ自分なりに理解できました。


「哲学的ゾンビ」は「社長のいない会社」です。


なのに、会社がうまく回っているから、誰も気にしない。社長への連絡も、メールや秘書の言葉で代理になるから、まさか社長がいないなんて、誰も思わないでしょう。

また、全然関係ない他人が社長になったとしても、会社イコール自分であるなら、自分じゃなくても自分だということになる。いや、むしろ、会社として見るなら、高給取りである社長なんかいないほうが、会社のためになるんじゃないの?


哲学的ゾンビのほうが、人間らしいってことじゃないの?


自分なんてないほうが、自分らしいってことじゃないの?


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