第九話「水晶姫」




 注意……一度見て触れたアノマリの存在が時の流れの中で忘れ去られる、という事例はあまりない。しかし一方で、初めから記憶に残らないアノマリもいる。






“生きている亡者”


――アノマリについて、亡国の哲学者より






                ***






 レールの上を歩くだけの人生に、嫌気が差した。

 初めに『それ』の購入を決意したのは、きっとそんな気持ちからだったと思う。



 三十五歳、独身、男、大手IT系企業のうだつの上がらない経理部門平社員。

 

 親だったり、教師だったり、これまで他人の言う通りに道を進み、他人の弁に頭を下げ続けるだけの人生を送ってきた。

 

 無茶や無理を避けてきた結果か、体は健康で生活もそれなりに安定している。

 ただ、生まれてこの方、生の実感というものだけが感じられなかった。


 自分という人間の全てが、交換の利くパーツのみで組み立てられていると気づいたのは、今の会社で働き始めてから、3年目のことだった。

 

 代わりのいない“誰か”になりたい。

 

 そう思いながらも行動できず、ずるずると年齢を重ねていく毎日。

 気が付けば寄る辺ない独り身の生活を貫いたまま、アラフォーを迎えていた。


 先日、将来有望だと期待されていた若手社員が会社を辞めた。聞けば、病欠からそのまま無断欠勤を繰り返し、最後には自分から退職を願い出たそうだ。


 噂によれば、退職届を提出した日に、同じオフィスの同僚に向かって「俺は新たな人生を歩む」と豪語していたらしい。


 馬鹿だな、と思う反面、激しく羨ましいとも思った。

 

 世の中には、似た考えの奴もいるもんだ。

 今の自分を捨てて、新しい誰かに生まれ変わりたい。

 皆、多かれ少なかれそんな願望を持っている。そんなものなのかもしれない。



 …俺は、もう手遅れだ。

 年齢はもうすぐ、一生の折り返し地点に差しかかる。

 それなのに、未だ人生を一変させる何かがひとりでに起こりはしないかと、出口のない期待感を日々腐らせている。


 俺が『それ』の噂話を知ったのは、丁度、会社を辞めた若者の噂が、話のネタとして風化し始めたその頃だった。


 社会の裏側で密かにブームになりつつある、これまでにない愛玩具。


 巷では、『それ』は〝ジュエルドール〟と呼ばれていた。




 自分ではない、誰かの書いた筋書き通りに生きている。

 そんな鬱屈とした錯覚を抱きながらの毎日に、一筋の妖しい光が差した。


 気取らずに言うと、魔が差した俺は明らかに怪しいと危ぶみながらも、『それ』を購入していた。


 ネットを使って情報を漁り、辿り着いたのは、海外の聞いたこともない通販サイトだった。


 こんな馬鹿をやるのは、生まれて初めての経験だった。

 どう考えても詐欺か、ひどい誇張に違いなかった。

 宝石に閉じ込めた小人だなんて。そんなもの、現実にあるわけがない。


 自分の抱いている願望が、非日常に憧れる中学生のそれと大差ないのは分かっていた。


 だからこそ、これまで行動を起こさずに無難に生きてきたのだ。


 商品が届く前から、俺の青臭い欲求はもうそこそこに満たされていた。


 寧ろ、頼んだ品が届いてほしくないとさえ思っていた。

 実際に、『それ』を目の当たりにするその時までは。




 警戒しながら開けた段ボールの中には、想像を絶する神秘が白い綿の海の中に詰められていた。


 震える手で俺がそれを抱き上げると、少女が舞った。


 透明な水晶の中、無邪気に踊る小人の少女の姿は、まるで幻のようであり、しかし、紛れもない現実だった。



“お届けされる商品はランダムです”



 段ボールの中には、タイプ書きの取り扱い説明書が一枚だけ落ちていた。



“ジュエルドールは、我々とは異なる小さな世界の住人です。”

”宝石に触れ、呼びかけるまでは貴方に気が付くことはありません。”

”受け取り後、商品の取り扱いは完全に購入者様のご自由です。”

”この世のものではない神秘的な存在との、多様な関係性を是非ともお楽しみください”




 最初の夜は興奮して眠れなかった。

 

 手に入れたこの超常的な存在を、よほど誰かにばらそうかと悩んで部屋を歩き回り、それでも折角手にした秘密を独占したいという別の欲望から、すんでの所でそれを思い止まった。

 

 踊り疲れたのか、部屋に飾ってある掛け時計の短針が頂点を回る頃、少女は眠りについた。


 次の日の早朝、早速俺は神秘の中身を知ろうとした。


 部屋の真ん中に毛布を敷き、その上に水晶を置いてじっと少女を観察した。そして、驚くべきことをいくつも発見した。


 水晶の中には、一つの世界があった。

 どこか小高い丘の上に住む少女の周りには、緑があり、澄んだ青い湖があり、豊かで広大な自然があった。

 

 こちら側から見える像は、常に少女にピントを合わせ拡大されている。説明書には書いていなかったが、おそらくそういう仕様なのだろう。


 そのため、下層世界ともいうべき水晶内部の全貌を伺い知ることはできなかったが、幻想的な少女が送る生活を覗き見られるだけで、俺には十分刺激的だった。



 少女は小さな球体の世界の中で、家のベッドから眠そうに起きだし、歩き回り、物を食べ、風呂に入り、そして夜には、お気に入りのペンダントを抱きしめながら、ちゃんとベッドの中で眠りにつくのだ。


 一日の最後まで観終わった時、俺は体の奥底からこれまで感じたことのない熱気が湧き上がってくるのを感じ、歓喜に震えた。


 俺は手に入れたのだ。

 生きている世界、現実に在る神秘なる存在を。

 俺だけの、この上ない非日常を。




 その日から俺は、仕事を終えて家に帰るなり、水晶の中を覗きこむのが日課になった。


 日課、というより生きがいというべきだろうか。


 小さく幼い下層の少女が、懸命に一日を送るその姿を、眠くなるまで見続ける。

 それだけで、擦り減った魂が充足する思いがした。


 会社は辞めなかった。

 あてのない五里霧中を抜け出した今、もう働くことは苦行ではなくなっていた。



 朝、俺は少女に必ず「おはよう」と言う。

 勿論、水晶には手を触れないままに。


 起きだした少女は、見られているとも気付かずに外へ出かける支度を始める。

 他人の目がある前では決して見せないような油断しきった姿を、無防備に曝け出しながら。

 俺は出社する支度を整えながら、その風景を上からただ眺める。


 少女がベッドの中であくびをしたり、寝返りを打つたび、俺は狂おしいまでの耽美にほくそ笑む。

 休みの日は、一日中ずっと水晶を覗き見て、そんな風ににやにやしている。


 無垢に生きる少女を見ていると、時々、水晶に触れて語りかけ、こちら側の存在を知らせようかとも考える。


 でも、一方的な関係が終わるのを恐れ、結局、いつも途中でやめてしまう。

 そんな葛藤も、またどうしようもなく愉しかった。



 これは、神の真似事だ。

 ただ覗き見ているだけの行為に、こんなにも飽きる気のしない様々な快楽が伴うとは思わなかった。


 絶対的な立場から、微小な命を俯瞰する全能感に、俺はどんどん病みつきになっている。




 荷物が届いたあの日から一年が経った。


 今や、俺は完全に少女の虜だ。


 仕事は続けていたが、いつの間にか、周りから友人はいなくなっていた。家族とも、もう長いこと連絡を取っていない。



 おそらく、全ては水晶のせいだ。

 今、俺はどんな顔をして日々を送っているのだろう?


 何もかも、異様なのは分かっていた。でも、そんなことはもうどうでもいい。

 俺にとって最も大切な現実は、最早この水晶の中にしか存在しない。



 一年前、俺に届けられた小人の少女は、今も変わらない元気な姿を俺だけの前に曝け出している。


 水晶の中に閉じ込められた――俺だけが知る水晶の姫。


 この子は永久に俺だけのものだ。

 替えの利かない神様として、俺はいつまでもこの子を眺め続ける。



 いつまでも、いつまでも――水晶姫に、満たされる。 











 家賃の安い、薄汚いアパートの三階の角部屋。


 見るからに窮屈そうな狭い寝室の真ん中に、男が一人で寝そべっている。


 うだつの上がらないパッとしない顔をした男は、今日も毛布の上に置いた水晶をずっと見つめている。


 その間抜けな様を上から眺め、私は愉しんでいた。



 この男は、本当にのはどちらなのか、私が声をかけるまで永遠に気付きもしないのだ。


 きっと、水晶の少女に魅了されたこの小人は解っていない。


 自分の一生が、いや、自分の属する世界そのものが、たった一つの石ころの中に収まるくらい、矮小で些末なものであることに。


 そんな無知ゆえの幸せに気付かないまま、神様気取りで阿保あほづらを晒して、これだから下層世界の見物はやめられない。



 宝石の中の男が眠ると、私は手に持っていたそれをシーツの向こうに放り投げた。


 こいつを眺めるのにも、いい加減飽きてきた。

 そろそろ、新しいペンダントを買おうかな。

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