第八話「狩り初女」 後


「先生、どう思います?」



 忙しなく作業員が行き交う発掘所の最奥、一組の男女の化石の前で、専門家のジョン教授とウド博士は互いに意見を交わしていた。



「うむ…考えている最中だ。しかし、とりあえずこの男と女が婚姻関係にあったのは間違いないだろうな。この洞窟で共に暮らしていたのだ」

「はぁ、まぁそれはそうでしょうが……。そう言えば、先生は奥さんと休暇中なんでしたね」

「娘も一緒だよ。気の進まない、家族旅行という名の義務納税さ。居場所がないんで、丁度抜けて来れて助かったがね」



 ジョン教授の奥方が中々の恐妻であることを知っているウド博士は密かに教授の身を心配したが、表情にはおくびも出さなかった。



「…ウド博士。どうやら、よい仮説を思いついたようだぞ」

「本当ですか? では、ぜひお聞かせを…」

「無論だ。よく聞きたまえ。ゴホン」




                ***




 時間を遡り、太古。吹雪に包まれた洞窟の中。


 一旦ケンカが止むと、笑顔になったマルが、また壁に落書きを始めた。


 私はため息をつくと、ケダマに手を伸ばした。



「槍貸して、ケダマ。今からあのイノシシを狩りに行く」

「えぇ!? 無茶だよ、ユキ! 外は吹雪だってヒゲが何度も…」

「大したことないわ。それとも、あんたがこれ使うの?」



 そう言うと、ケダマは黙った。そして、逡巡した末に私に槍を渡した。



「それじゃ、行くわよ。さ、ヒゲ、ケダマ、準備して」

「え!? 僕らも!?」



 ケダマがびっくりしていた。ヒゲもだった。これだから、うちの男共は…もう。



「もちろんよ。今、そういう話になったじゃないの」

「そんな話、聞いてないぞ」

「待ってよ、無理だって! どうしても狩りに行くなら、ユキ一人で行ってよ。僕ら吹雪の中で、狩りなんて出来ないよ!」

「あれだけ言って、私一人にやらせる気? いい加減にしなさい! 男を見せてよ、さぁ!」



 私はあえて、きつく言った。

 

 いきなり無茶なことを言ってるのは分かってる。

 でも、これくらい言わなきゃ、こいつらと来たら、いつまでも私に頼りきりかもしれない。


 そんなのはゴメンだった。だって私は、そろそろここを離れるつもりなんだから。


 私が消えた途端、三人揃って凍え死になんかされたら寝覚めが悪い。



「わ、分かったよ…」



 私に退くつもりがないのが分かったのか、ケダマが観念したように自作の罠と道具を手に持った。



「一緒に行くよ。ユキ一人で行って、帰ってこないのも嫌だし…」



 渋々立ち上がったケダマに対して、ヒゲは引きつった表情で立とうとしなかった。



「い、いやだ。俺は行かないからな」

「なに言ってるの? ケダマは行くのに、あんただけ残るつもり?」

「マルもだろ。俺はマルと留守番をする」

「マルはいいの! あんた、この期に及んでまだ他人頼みをやめないの? そんなに、外に出るのが怖い?」

「あぁ、怖い、怖いさ。吹雪がどれだけ冷たいか、ユキは知らないんだ。だから、吹雪が止むまでは俺は絶対出ていかないぞ。狩りなんて馬鹿げたこと、ごめんこうむる。ケダマも考え直した方がいいぞ」



 ヒゲは一気にまくし立てると、壁の端で胡坐をかいた。


 呆れた。

 私が吹雪の冷たさを知らないですって?

 吹雪の中、積もる雪の上で力尽きていたところを、あんた達に拾われたんじゃないの。


 あんまりにも呆れ果てて、私は決めた。


 よし、あのイノシシが獲れたら、もうここには帰らない。

 

 マルと、おまけでケダマは連れていってもいい。

 でもヒゲ、あんたは置き去りよ。


 大好きな草だけ焼いて食べて、いずれ勝手に野垂れ死ぬといいわ。いくじなしのネアンデルタール人め。

 決めた、もう決めた。絶対に出て行ってやる。



「行くわよ、ケダマ」

「え? でも…」

「ヒゲは女の子みたいだから、置いてくわ。期待した私の方がバカだった。私とあんたでイノシシを獲るわよ。さぁ、早くいかなきゃ、お腹が空いて骨になる」






 夕闇の中、肌寒い風が吹いていた。でも、雪はそんなでもない。



「ユキ、罠を仕掛け終わったよ」

「分かった。終わるまで隠れてて」



 ケダマは指示した通りに、罠から少し離れた茂みの裏に身を潜めた。私はその反対側だ。

 完璧。これならいける。私という歴戦の狩人の勘が、そう告げている。



「ユキー!」

「なに?」

「本当に上手くいくと思うー?」

「大丈夫よ、任せなさい! …あんた、あったかそうね」



 槍を持つ手が少し震えていた。


 寒い。


 こういう時は、ケダマやマルを羨ましく思う。

 私の場合、いくら寒くても、毛をぼうぼうに生やしたり太ったりは出来ないのだ。



「ユキ、寒いよー」

「黙ってて。獲物が来ないでしょ」



 森全体が風にざわめいている。


 照準のブレに気を付けないといけないのは面倒だけど、この風に乗って罠に仕掛けられた餌の匂いも森中に広がっているはず。

 そろそろ獲物がやって来てもいい頃合いだ。


 槍を構えて待っていると、微かに地鳴りの音が聞こえた。

 どこか遠くで氷河が崩れたらしい。

 少しずつ、空模様が変わってきている。


 その時、森の向こうで何かが動いた。

 私は指を下に向けて、顔の見えていたケダマを引っ込めさせた。


 がさがさがさっ、と茂みを分け入る音のあとに、フゴッ、と遅れて鼻息が聞こえた。


 …きた。木と木の向こうにイノシシの姿がちらりと見えた。

 昼間取り逃がしたアイツに違いなかった。


 私とケダマに見られているとも知らずに、イノシシはゆっくりと罠に向かっていった。自然と、槍を構えた手に力が入る。



 フゴッフゴッ。



 もう一度荒い鼻息を吹かして、イノシシが仕掛けた罠の中に入っていった。


 まだ、まだよ。焦っちゃだめ。 

 慎重に、慎重に狙いを定めて、3、2、1――


 気配を殺した私の目と鼻の先で、遂にイノシシが餌に食いついた。

 

 その瞬間、木の上からケダマの作った獲り網が、獲物のイノシシに被さった。



 今だ!!



 怒号とも悲鳴ともつかないイノシシの叫び声と同時に、私は構えていた石の槍を投げつけた。


 投げた槍は風で軌道が少し曲がって、角度計算バッチリ、狙い通り哀れな今晩のご馳走の首筋に突き刺さった。


 網を引き裂き暴れるイノシシ。でも、最期の悪足掻きも長くは続かない。すぐに、ペタリと動かなくなった。


 一撃で致命傷を負い、息絶えたのだ。南無。



「やった!」



 私より先に、ケダマが飛び上がって歓声を上げた。



「ユキ、すごいよ!」

「ふふ、とーぜん。昼間は予行演習だったのよ」



 捕らえた獲物に近寄って、私は得意げに槍を引き抜いた。



「すごいよ、ユキ。まさか本当に一発で倒しちゃうなんて!」

「まぁね、惚れ直した?」

「すごい、流石は僕の作った槍だ! 苦労して改良した甲斐があったよ!」

「…………」



 やっぱり、こいつは置いていこうか…。

 地鳴りの音がして、また少し、足元の地面が揺れた。






「ただいま」

「ユキ、重いんだけど…少し手伝って…」



 私とケダマが新鮮な肉を抱えて洞窟に戻ると、なぜかヒゲが火の回りを行ったり来たり、落ち着きなく歩き回っていた。

 マルはいつも通り、壁に絵を描いている。



「ヒゲ、帰ったわよ」



 ヒゲがこっちを向いた。顔が外にいたケダマより青白い。



「どうしたの? 感謝の一言くらい、言ってみてよ」

「ユキ…あぁ、狩りは成功か。それは、よかった」



 ヒゲは、とってつけたようにそう言った。何だか、様子がおかしい。



「ヒゲ、どうしたのさ? 風邪でも引いた?」

「ケダマ…」



 ケダマの心配の声も、素通りしているみたいだった。

 肩に残っていた雪をはらい、私はマルに聞いてみた。



「マル、何かあったの?」

「なにも、ないよ。早く、肉、食べよ」



 マルは何も知らないみたいだった。


 ヒゲったら、どうしたのかな?


 狩りを終えた私は、この時、皆を許す気になっていた。

 もちろん、ヒゲも含めてだ。

 狙っていた獲物を無事に仕留められて、気分が良かった。


 もう少しこの洞窟暮らしを続けてみてもいいかなとか、そんな風にすら思いかけていた。


 だけど――次の瞬間、信じられない事件が起こった。


 立ち止まって何かブツブツと言っていたヒゲが、いきなり引きずっていたケダマの腕から、イノシシの肉を奪い取ったのだ!



「!?」

「ヒゲ!?」

「近寄るな!」



 突然の事に狼狽える私とケダマ。


 ヒゲは、そんな私達の前で、石で出来た刃…ケダマが洞窟に用意していた、槍の穂先の替えを手に振りかざした。



「ヒゲ、それは僕の作品だぞ!」

「ヒゲ! あんた何やって――!」

「うるさい、ち、近寄るなっ! これは俺の肉だ!」



 ヒゲは怯えたように刃を振り回し、私達を遠ざけた。



「ヒゲ、みんな、お腹へった。肉、みんなに、分けて」



 マルの呼びかけも無視して、ヒゲは片腕で肉を引きずり、洞窟の出口へと後ずさり始めた。



「ちょっと、どこ行くのよ!? それは私が獲ったごはんよ!」

「悪いなユキ、今は俺のだ。これがないと生きていけない。この洞窟はもうすぐ崩れてなくなるんだ! だから、俺にはこれがいるんだ!」



 洞窟が、崩れる?

 私は傍にある壁を見た。

 すると、コケが生えた岩の壁には、大きなひびが入っていた。

 

 出た時には、こんなのはなかったはずなのに…!



「氷河さ。氷河が崩れて、この洞窟は飲み込まれる。ここら辺全部丸ごとだ。絶対に、間違いない。だから俺は、逃げるんだ」

「そんな、嘘だ…」



 ケダマが信じられない、という顔で呟いた。


 信じられないのは、私も同じだった。

 

 そろそろここがダメになるのは知っていた。

 でも、だからって、人の肉を横取りして一人で逃げようなんて!


 信じられない。最低すぎる。

 私だって、そんな酷いことは考えなかったのに!


 祝いのムードはどこへやら、私はさっきまで抱いていたちっぽけなあわれみなんかどこかに忘れテ、ヒゲヲ爛々ト睨ミツケタ。



「ヒゲ、私の肉を置きなさい」

「嫌だね…! こいつがなけりゃ、奴らの仲間には入れてもらえない。渡すもんか、俺は絶対に生き延びる」



 ヤツラ。

 ソレハ、私ト同ジ進化シタ次ノ人間ノコトダ。

 

 ヒゲハ、一人デ逃ゲタアト、私ノ肉ヲ使ッテ、彼ラニ助ケテモラオウト、考エテイルニ違イナイ。キットソウニ違イナイワ。



「一人で逃げることないじゃないか! 氷が崩れてくるなら、皆で逃げようよ!」

「うるさい! この肉は俺が一人で獲ったんだ! そういうことにしなけりゃ、あいつらの仲間になんか入れてもらえない! 俺は誰も連れてなんか行かないぞ、お前らもついてくるなよ!」



 ケダマノコトモ無視シテ、ヒゲハ肉ヲヒキズッテイク。私ノ肉ヲ、ヒキズッテ…。



「ヒゲ、肉、置いて。どうせ、最後。皆で、食べよ?」

「くそ、重いんだよ、くそっ…!」



 ヒゲハ重クテ、ノロカッタ。怒リ、タクサンノ怒りヲワタシハカンジタ。


 私ノ肉。私ノ肉…!

 ヨクモ、私ノ、肉ヲォォォ、ヲォォォオオオオオッ!!



「そうだ…ユキ。お前だけなら連れてやってもいいぞ。どうだ? 肉を運んで、俺と一緒に来――」

「ヒゲェェェッ!!」



 ワタシハイキナリ肉ヲモッタヒゲニ、飛ビカカッタ!



「うわぁっ!?」



 ヒゲハ腰ヲヌカシテ、刃ガ手カラ転ガッタ。



「フザケンジャネェェェ! コノ玉ナシ野郎ォォォッ!!」



 ワタシハヒゲノマタノタマヲツカミ、チカライッパイフリマワシタ!



「ぎゃあああああああああああああああああああああああ」



 フリマワシタッ! フリマワシタッッ!! フリマワシタッッッ!!!



「うわぁ、ユキっ!? やめるんだ!」

「ユキ、やめて、ユキ!」

「ニクヲカエセェェェッ!! ワタシノニクヲォォォッ!!」



 カエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセ!



「カエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセェァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」

「ユキ、だめだよ、ユキっ!!」

「いぎぁああああああああああああああああああああああああ、あ、あ、あ、ああっ、あっ、あっ、ああああああっっっ」

「タマナシヤロォォォォォォォォォォォォォォォッッッ!!!」

「ユキ、穴、崩れる!」


「ああああああああああああああああああああああああああ」

「ンナッシャルァァァァァァァァァァァァァァァッッッ!!!!!」

「うわあああっ――?!」



 ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラッ――




                ***




 モダンにあつらえた、橙色のランプの明かりの下。

 回答を待つウド博士と二体の化石を前に、ジョン教授は喋り出した。



「それにしても状態の良い骨だ…。ウド博士、君はこの男女が何をしている最中か、見当がつくかね?」

「性行為では?」

「馬鹿者。そんなわけがあるか。こいつらが、行為の最中に氷に埋まったとでもいうのかね? それに見ろ、あの男の方のまたぐらを。あれじゃきっと可哀そうに、男の睾丸は完璧に破裂しているぞ」


「それもそうですね…。では、一体何なんでしょうか?」

「男の坐骨が砕けている以上、偶然この格好になっだけとは到底思えん。おそらく、何かの儀式だろうな」


「儀式? この頃から、この地域に偶像崇拝以外の宗教が?」

「男女の脇をよく見てみたまえ、ウド博士。古い種の猪の骨格と思われる骨が、近くに埋まっているだろう? しかも、首の辺りの骨が欠けている。男が女の前でイノシシと戦い、見事勝利したもののアソコを食い千切られたのだ」

「えぇ?」


「女が股間を握り潰しているように見えるのは、男のその傷口に、薬草か何かを塗って治療を施そうとしていた跡だよ。だからこのカップルは、この姿勢のまま動けずに、氷河の崩落に飲まれたのだ。股間に塗った薬草だけが、古い時代に取り残されたため、このような奇妙な具合いに見えるのだ」


「なるほど…ですが先生、洞窟の中で猪と戦う儀式なんて、聞いた覚えがありませんよ」

「ふむ、たしかにその点は謎だな。では単に、洞窟の奥に追い込んで狩りをしようとしたところ、痛ましい事故が起こってしまっただけかもしれん。まぁ何にせよ、この化石が稀有な標本であることに間違いはない」



 ジョン教授は気持ちよく言い切ると、少ししてから、自信満々にこう付け足した。



「きっと、この近くの土の中から、猪の骨についた傷と、型の合う槍の穂先が出てくる筈だ。運が良ければ、女が男に塗ったであろう古生植物の化石もな。仮説はそれで益々支持される。何にしても、これはもの凄い発見だ。異なる種族間に交流があったことを示す貴重な証拠だよ。家内に背いてまで見に来た甲斐があった」



 だが、満足そうな教授とは裏腹に、ウド博士は難しい顔をしていた。



「先生、私は今ふと思ったのですが…」

「ん? 何だね、ウド博士」

「もしかして、狩りをしていたのは女の方で、股間を掴まれている男は女の怒りを買って襲われていたのでは…これは、ひょっとしたら夫婦喧嘩の画だったりはしませんか?」

「それは、ないな。私もチラと考えてみたがね。まずその線はあり得ないだろう」

「はぁ…なぜです?」



 尚も食い下がるウド博士に、ジョン教授はバカバカしい、といった様子で答えた。



「ハハ、そりゃあだって君、考えてもみたまえ。確かに、今でこそ女性の立場は強い。私にしても、家内には生殺与奪の全てをもうすっかり握られてしまってはいるがね。とは言えしかし、だ。いくら何でも、人類がこんな太古の時代からめとった女房の尻に敷かれているはずがなかろう。我々男性がそんなに情けない生き物のはずがない。ハハハ…」

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