第四話「仙人」




 注意……『アノマリ同士は引かれ合う』という学説が存在する。しかし、その検証が試されたことはない。






“友達がこの間見たって言ってた。”


 ――涼泉中学運動部所属・2年4組Aさんより






               ***






 突然だが、皆さんはアノマリというものの発生ついてどのような考えをお持ちだろうか?


 彼らはみな特殊で、いずれも世界の中で例外的に存在している者達ばかりだが、一方で、彼らの内の全部が全部、生まれつきの異端だったわけでないのは、知っておいて損はないだろう。


 アノマリは、いわくつきの血統や、特別な境遇、不幸な偶然など、如何にもそれらしい理由付けがなくとも、突然変異的に誕生し得る。


 これまでごく平凡に暮らしていた普通の人間が、些細なからアノマリに変異した例として、今日はのちに《仙人》と揶揄され。自ら人の道より外れたある男の話をご紹介しよう。




 1990年代の中頃、日本のどこか。

 中央に近いある町に、大層ケチな男がいた。


 当時まだ若かった男は、そこそこ大きなIT系商社の営業部で働いていた。

 まだ平の社員だったとはいえ、給料は悪くなかった筈だが、男はボーナスの出た月も贅沢は一切やらなかった。

 

 財布にいくら余裕があっても、お金はおろか、ティッシュペーパーの1枚だって無駄には使わないし、何かあれば要りようになるかもしれないと、いつも広告チラシをたくさん持っていた。


 この男はとにかく、なんであれ消費して使い尽くしてしまうのが嫌いで、特に切羽詰まった理由がなくとも、日々を倹約して送る生き方が骨の髄まで染みていた。

 周囲の人間にはあまり理解されなかったが、彼はそれを自らが持つ最高の美徳と考えていた。



 さて、ある日のこと。

 早朝、いつものように如何にして物を使わずに済むか考えながら起床した男は、朝食を取ろうと買い置きしておいた菓子パンの包みを破いた際に、ふとある考えを閃いた。



「待てよ。これまで深く考えてこなかったが、よくよく吟味してみると、毎日律儀に朝飯を食べる必要はないんじゃないか。食う事だけは節約できないとハナから諦めていたが、朝の食事はなくても平気だろう。お金が勿体ない」



 思いついてしまうと、男はこれまでに自分がひどい損を繰り返していた気になった。これは、何としてもすぐに節約を開始せねばなるまい。


 次の日から、男は今まで一日三食取っていた食事を二食に減らして生活し始めた。こうすれば毎日、これまで損をしていた朝飯代の分の金が浮く。


 男はしばらくその食生活を続けてみた。そして、2週間ほど経ったやがて、昼飯と晩飯しか食わずとも、十分腹を減らさずに、満足にやっていける事を知った。


 男は新たな節約をまた一つ成功させ、達成感にほくそ笑んだ。こういった行為の積み重ねこそが、男の考える人生の醍醐味だった。


 男はしばし、目標を達成した自分に酔い、束の間の満足を愉しんだ後、ふと気が付いた。


 もしかすると、もう一食減らしても大丈夫なのではないか?



 決心から行動に移すまでは早かった。

 思い立ったその次の日から、男は昼飯を抜き始めた。しかし、今度はそう上手くはいかなかった。


 初日、時計の針が文字盤の3の字を回る頃、どうしようもない空腹感が男の下腹部を襲った。それでも男は我慢し続けた。

 

 何度も何度も挫折しそうになりながらも、無理やり仕事に没頭し続け、初日はどうにか夕食を取る夜まで漕ぎつくことができた。


 だが次の日……昼の食事時が終わる頃、男は職場で急な眩暈に襲われた挙句、耐え切れず遂にぶっ倒れた。


 諦めよう、いくら何でも無謀が過ぎた。

 

 目覚めた折、真っ先にそう反省した男だったが、そこで彼は気が付いた。

 あれだけ空腹で死にそうだったのにも拘わらず、今はまるで食欲が湧かない。


 翌日から、男は会社を休んだ。

 体調不良を理由に長めの休暇を強引に取りつけたのだ。


 社内での彼の評判は急落しつつあったが、男はそんなことは全く意に介さず、自宅で気絶と覚醒の日々を送り始めた。


 空腹感を耐え忍び、限界を超えて意識を失って目覚めては、また腹が減るまで耐えて飯を食う。

 休暇の間、男はただひたすらそんな生活を繰り返した。

 まるで狂気の沙汰だが、男には、やがて自分の体が一日一食の生活に順応するという確信があった。



 そして、また2週間程が過ぎた頃。

 男は遂に、意識を保ったまま一日を終えることに成功した。慎ましやかな晩飯のみで、一昼一夜を食い繋いだのだ。


 それから何日経っても、男の腹は晩飯時以外は鳴らなくなった。休暇を終え、会社での労働を再開してもそれは変わらなかった。


 だが、これだけやりおおせてもまだ、男は満足しなかった。




 折角ここまでやって来られたのだ。最後の仕上げだ、もう1食抜いてやれ。


 男は遂に、丸1日何も食わずに過ごそうと挑戦してみた。こうすれば、食費は完全に0となり、その分かなりの金が浮く。


 最初の日、男は平気だった。胃は静かなものだ。

 その次の日も、その次の次の日もなぜか男の腹は鳴らず、至って健康に機能していた。


 こうして、驚くべきことに男は一切を飲み食いせずとも生きていける体となった。

 最早これならば働く必要もない。男は窮屈に感じていた職を捨て、ついでに家も売り、路上で暮らし始めた。




 男の新生活は、実に快適そのものだった。何せ、何も枷がない。

 物を食わねど生きてゆけるとは、即ち何もせずとも暮らしていけるということ。

 

 男は、これまで面倒に感じてきたあらゆるしがらみから解き放たれ、気持ちのいい解放感を味わった。


 家を持たない路上での生活は、これまで鉄の錆びたレールの上を歩いて生きてきた男にとっては、新鮮で刺激的で、思いの外、楽しめた。


 お金は持っていたが、使う必要はない。頻繁に取材に来るマスコミのお陰で、時間つぶしにだって困りはしないのだ。


 男は、自ら切り開き手に入れた新たな人生を、思うまま存分に享受し堪能した。

 彼が「現代の《仙人》」と呼ばれ、一部の界隈で持て囃されたのは、ちょうどこの時期のことである。


 だが、その風変わりな幸福は、案の定というか、然程長くは続かなかった。




 スクープを好む一部のマスコミや、マイナーな週刊誌の記者達の熱狂がひとしきり落ち着いた頃、男は自ら選択した筈の、今の生き方に段々と嫌気が差し始めた。


 食を捨て、それと同時に社会の様々な檻からも解き放たれた筈だった。

 しかし、どうにも不自由でしょうがない。


 最初の内は面白かったホームレスも、周りで囃し立てる他人がいなくなれば、急につまらなく感じられてきたのだ。

 気がついてみれば、社会の外はできることが限られ過ぎていた。自由どころか、寧ろ毎日が縛られていた。


 何かよい娯楽を見つけられれば良いのだが、これまでまっとうに暮らしてきた男には、娯楽といえば金がかかる類のものしか見いだせなかった。しかも、それらは大抵信用が、つまり社会的地位がなければ享受できない。


 結局、男は下らない遊びに散財し、持って出たなけなしのお金をあっという間に使い果たしてしまった。

 遊ぶのだって、金がいるのだ。かと言って金がなくとも生きられる身となった男には、今更一から働く気力などとても沸いてこなかった。


 やがて、人々の好奇と侮蔑を送る目線が、男の神経を削り始めた。

 他人にとって、男という存在は一度新鮮味を失えば、ただの眉唾な家無しの変人に過ぎないのだ。


 男は、次第に道行く人々から気味悪がられ始めた。

 巷で話題になり、若い子達からも注目の的にされていた頃とはもう違う。


 カメラやマイクを向けられるどころか、なまじ有名になってしまった為か、石や空き缶を投げつけられる夜が増えた。

 最早、手に入れた新しい人生は延々と続く苦痛でしかなくなっていた。


 男は親戚や知人に助けを求めてみたが、誰一人として男に手を差し伸べようとする者はいなかった。

 誰も彼も、今の男とは関わり合いを持ちたくなかったのだろう。当然といえば、当然の成り行きだ。


 日に日に悪くなる居心地に堪えかね、遂に男は野山へと駆け出した。



「こうなれば、完全に人のいない社会の外に逃げ出してやる。大丈夫さ、俺は食わなくたってやっていける。普通の人間とはわけが違うのだ。もうこんなしがらみの多い場所とはおさらばだ」



 逃避の裏で、それは半ば、男の意地だったのかもしれない。


 そして記録上、住処としていた町の公園を離れた《仙人》は、その日を境に、社会から完全に姿を消した。


 流行とは移ろいが早いもの、彼の失踪は、直後に少々の騒ぎを引き起こしたものの、すぐにより巨大でありふれた種々のニュースの波に押し流された。


 そうして、やがて興味を失った人々の記憶から、かの《仙人》はあっけなく忘れ去られていった。




 さて、社会から立ち去った男のその後はというと……大自然の中で暮らし始めた彼は、これまで以上に退屈な毎日に痺れを切らしていた。


 ろくに動きもせず鈍った体では、狩りの愉しみなど味わいようもなく、動植物を眺めて愛でるだけの感性も、風情を解さぬ彼には備わっていなかった。


 しかし追い詰められた男はそこで、ある道楽を閃いた。


 金や人がいなくとも、十分長く楽しめる遊びならあるではないか。

 そう、食べることだ。


 皮肉にも、暇を持て余した男が思いついたのは「食道楽」だった。


 山の森に生る木の実を食べ比べればいい。そして、もっとも美味い木の実がある山を探して、全国大自然を行脚するのだ。


 男は思いついた自分の機転に、満足げに頬を緩めつつ、手始めに傍にぶら下がっていた木の実をもぎ取り、口に入れた。


 しかし、口にした果物には味がなかった。不思議に思いながらも、男はやわくなった歯で辛うじて咀嚼し、それを飲み込んだ。そして途端に、背筋を凍らせた。


 しっかりと噛んだ筈の果物は、全く喉を通らなかった。

 慌てて無理に飲み込もうとしたが、何度力んでも、どうしても体が拒否してしまう。

 我慢できず、男は口から潰れた果実を吐き出し、そして悟った。


 そう、自ら食を捨てた男は、いつしか物を食べられない体になっていたのだ。




 その後、男は完全に消息不明となり、今日まで未だ発見されていない。

 よって、かつて《仙人》と呼ばれた彼の物語は、どうしようもなく、ここでおしまいである。


 野に入った仙人のその後が気になる方は、果物の生る木の多い、比較的安全な山の中へと分け入ってみるとよい。運が良ければ、腹の引っ込んだ痩せぎすの男と出会えるかもしれない。


 人の世界から離れて久しい彼が、まだ言葉を操れるのかは疑問だが、話を聞いてみるのもよいだろう。色々と、貴重な体験談を賜れるに違いない。




 ただし皆さん、最後に一点だけご注意を。


 もし見つけた彼が、木の枝にくくったロープで首を吊っていたとして……それに遭遇したあなたが多大なストレスや何らかの精神的ョック、心的外傷を負ったとしても、本書の筆者及び概数不明のその他の共著者は、当該の件に関し、一切の責任を負いかねる事を、予め固く申し上げておきます。

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