第三話「顔のない隣人」
注意……アノマリの中には、自らの特異性をよく理解していない個体も、少なからず存在している。
“大抵の場合、自覚のないアノマリの方が、そうでない者よりも恐ろしい。”
――「アノマリ稀人譚」ある匿名寄稿者様より
***
まただ。すれ違い、綺麗な石造りの階段を数段昇りかけたところで、私は気付く。
また、忘れてしまった。
つい今しがた、見たばかりの顔。もう記憶から消えている。
振り返る勇気もなく自室へと戻るその間に、いつものようにまた、お隣に住むあの人の顔は深い霧の中に溶けてしまった。
ハイツ・ジュノン。
私の住居があるこの小奇麗なアパートは、都市郊外に広がる中流階級を主なターゲットとした密集住宅地域に、他の似たようないくつかの物件と共に、でん! とそびえ立っている。
ご近所の評判は概ねよろしいらしい。
兼業主婦としてここに住んでいる私も、肩肘張らなくて済む程よい住み心地を日々実感する毎日だ。
数年前、空いた部屋を賃貸でなく、分譲で手に入れた我が判断に狂いはなかったと、今でも自信を持って断言できる。住めば都、などと水を差してはいけない。
ところが最近、そんな私の充実した暮らしに、ある不穏な影が差し始めた。
いつも挨拶を交わすアパートのお隣さん。
特別仲が良いわけではないけれど、ゴミ出しの日には大抵顔を会わせ、二言三言、言葉を交わす。
今朝も一階でその人と出会った。近頃太り気味のウエストを気にして、三階から律儀に階段で降りてきた矢先、また鉢合わせになってしまった。
「××さん、おはようございます。今日もいい天気ですね」
「あら、おはようございます。そうですね~、今月はもうずっと予報は晴ればっかりで…」
何度となく交わした挨拶。いつもの日常、いつもの光景。
お隣さんは、愛想がいい。見た目も特に、良くも悪くも目を引くような所はない。でも、一つだけおかしなことがある。
つい最近になってやっと気付いた、小さいけれど、ぞっとするような異常。
この人には、顔がない。
顔がない、といっても本当に顔面がないのではなく――もしそうならとっくに警察に通報していなくては!――いつまで経っても、顔を覚えられないのだ。
何度会っても、何度挨拶を交わしても、なぜか一向に頭に入ってこない。しかも、さらにおかしなことに、私はお隣さんのことを何も知らない。
よく顔を会わせ、時折話し込んだりもする仲なのに、職業も家族構成も趣味も、肝心なことは何一つ知らない。
分かっているのは、見た目から私と同じ主婦らしい、ということだけ。
でも、旦那さんを見かけたことはない。
よくよく考えると、これはかなりおかしいのではないか?
ハイツ・ジュノンに越してきてから、もう数年が経つ。
ずっと隣同士に住んでいる筈なのに、私にとってこのお隣さんは未だに『お隣さん』のままだ。人物像は、ずっともやに包まれている。…なんて不気味。
今朝のゴミ出しも、また失敗だった。何とかお隣さんの顔を覚えておこうとしたけれど、やっぱりだめだった。
失意の内に玄関ドアを通り越した。
リビングの机の上に用意していたA4の切れ端を、空になったゴミ箱の中に放り投げる。
ホールインワンおめでとう、わたし。でも、なんにももめでたくないね、わたし。
どこからか聞こえる赤ん坊の泣き声がうるさい。
私は、ため息をついた。実のところ、悩みの種は、お隣さんだけに留まっていなかった。
お隣さんの顔がないのに気が付いた時、私は他にも同じような人達がいたことを思い出していた。
意識の奥深くに、知らずに閉じ込めていた、積み重なった違和感の記憶。現在進行形で続く、害のない悪夢。
それは教室の隣の席に座るクラスメイト。
それはTVの中の売り出し中の若いタレント。
それは仕事上がり、会社のエレベーターでよく一緒になる別の部署の先輩。
それは、9歳の時初めて恋に落ちた人の顔。
人生で触れたいずれも顔のない人達……数えてみると、いっぱいいる。
私という人間のアルバムの中には、まるで空白ばかりが詰めこまれてきたかのようだ。
なぜこんなに、印象に残らない人達が多いのだろう?
分からない…。
トントントン、と小気味良い包丁の音が手元で軽快に響く。毎朝のお弁当作りは私の日課だ。作るのは、夫と私の二人分。家事と仕事の両立は楽ではないけれど、今のところ辛いと思ったことはない。
家庭の中でも外でも役割を持てるのは、私の生活に手応えのある充足感をもたらしてくれる。
そういえば最近、私の夫は帰りが遅い。外泊も増えた。仕事が忙しいのだろうか、それとも…。
おもしろくもない想像を膨らませかけた時、「あーーっ、あーーっ」とまた赤ん坊の泣く声が、隣からリビングまで響いてきた。
「ちっ…」
つい、舌打ちをしてしまう。
私は子供が、中でも特にしつけの悪い子供が大の苦手なのだ。うるさくて、どうにも神経に触ってしょうがない。
お隣さんは、まだ部屋に戻っていないのだろうか…。
そこまで考えて、私ははたと気が付いた。
あのお隣さんには、子供がいたんだ。気付いた途端、大きな衝撃が脳を襲った。
「あっ…!」
まさに雷光に打たれたかのように、私は突然にお隣さんの顔を思い出していた。
後ろに縛った長い髪、やや青白い肌にぽっかりと黒い二重の瞳。
どうして今まで忘れていられたんだろう。
思い出してみればかなり特徴的な風貌ではないか。年も、私と同じくらいじゃなくて、ちょっと若い。
「うわ、私何で…どうかしてる…」
思わず口をついて出た独り言に、何秒か遅れて呆れた笑い声が洩れた。
あんなに頭を悩ませていたのに、きっかけ一つでいともあっさりと思い出せてしまった。
杞憂が過ぎた…当たり前の話、人の顔くらいど忘れしたってすぐに思い出せる。それに、忘れてしまったままでも、案外そんなに困りはしないのだ。
我ながら、下らない問題に、随分と空回りしてしまった。
…それにしても。
お隣さんは、一体いつの間に赤ちゃんなんて産んでいたのだろう?
全然、気が付かなかった。そもそも、結婚だって多分まだの筈なのに。それとも、親戚の子を預かっているだけなのだろうか。
いけない。気になりだすと、止まらない。
いつもの電車まで時間がないのに、私は急にお隣に住むあの人と話したくなってしまった。
子供の頃からの悪い癖だ。気になるものには、周囲の状況も目に入らず、飛びかかってしまう。
それに、今は何だか彼女に対して、申し訳なかった。
自分のことを棚に上げて、勝手に不気味などと思ってしまって、ひどい偏見もあったものだ。反省しております、ごめんなさい。
残った食材を手早く二つの四角に詰めたあと、子供部屋のドアの横を抜けて、私は家の玄関を開けた。
いつからそこにあったのか、土間の脇に立てかけてあったベビーカーが、がたりと揺れた。
大丈夫。往復10分以内で戻れば、出勤には十分間に合う。
心につっかえていたものが取れたからだろうか、足取りが軽い。
おそらくはゴミ出しに手こずっているのであろう、お隣のお嬢さんはまだ下の階にいる筈だ。
私はどこか晴れやかな気持ちを胸に、軽快なステップで階段を下った。
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