第二話「吊るされている男」




“(データを取る上で)はた迷惑な閾値” 


――アノマリについて、ある統計学者より 






               * * *











 ……再消去。











 空の上にいる。


 最初にそう気付いたのは、一体どれだけ前の事だったろうか。


 俺は空の上にいる。見えない糸に吊るされて、雲の上にただ一人、ぽつんと浮かんでいる。


 あぁ、今日も世界が恨めしい。




 初めは訳が分からずに暴れた。

 意識が始まった途端に、床も天井も無い場所に宙づりにされていたら、誰だってパニックを起こすだろう。


 しかし散々暴れても、だらりと垂れ下がった手足は金縛りにあったみたいに全く動かせず、体は落下しなかった。


 俺は空間に固定されていた。

 やや前のめりに傾き、遥か下に広がる地表を見下ろすような格好で……まるで、ピン留めされた標本の蝶だった。


 夢かと思ったが、頬に吹きつける風は寒かったし――というか、痛かった。




 一体、俺は何なんだ。

 何でこんなことになっているんだ。


 こうなる前の記憶を思い出そうとしても、頭の中は深いもやに覆われていた。

 いや、本当は記憶などないのか。俺は元々、生まれた瞬間からこういう存在だったか。

 

そう考えるたび、

「いやそんな筈はない、たしかに俺は何者かだった筈だ」

「『こうなる前』があった筈だ」

 と意識が必死に呼びかけてくる。


 見下ろす雲の海はスクロールするように、常に一定のペースで同じ彼方へと流れていく。

 俺は指一本動かせないまま、ただそれを見送っている。

 



 空の上の毎日は、意外とストレスが多い。


 この状態の〝俺〟が始まってから初めて目にした日の出は、とんでもなく美しかった。


 雲の上にいるんだから当たり前の話だが、澄み切った青空の向こうに輝く大きなお天道様は、そりゃもう見事なもんだった。


 だが、過ぎたるは及ばざるがごとし。1分もしないうち、眩しすぎる光に俺はあえぎ始めた。


 こっちは瞼も動かせないのだ。


「もういい、勘弁してくれ。十分眺めて楽しんだから」

 と思っても、目は瞑れないし、逸らせない。


 おまけにあの太陽ときたら、空のてっぺんまで昇っていくのに、亀のように時間をかけるのだ。


 おかげで、俺は最初に覚醒した朝の内から、晴れの日が嫌いになった。

 朝っぱらから、何時間も目の痛みに耐えながら、見たくもないものを見せ続けられるのだ。たまったもんじゃない。


 晴れの日は嫌いだが、かと言って雨の日はもっと最悪だ。

 何せ頻繁に雨雲に突っ込む。


 俺が吊るされているのは、雲の海より少し上なだけで、水分を吸ってでかくなった奴らを飛び越えられるほど、位置は高くない。


 肺が凍るんじゃないかと思うくらい冷たい氷晶の塊を、無抵抗に浴びせ続けられる辛さといったらもう、ギラつく太陽の比ではない。


 おまけに、雲の中では折角開いたままの目も役立たずで、何も見えやしないのだ。

 つまらないこと、この上ない。


 …それでも、嵐の日に比べれば、まだ全然マシなのだが。




 昔のことを思い出す。地上が見えない日は、他にやることがない。


 体に繋がった見えない糸に気付いたのは、こうなってから五日経った昼頃だった。


 相変わらず無駄に眩しい陽光にうんざりしていた時、太陽光線の反射で自分を吊るす透明な糸の存在に気が付いた。


 苦労して目を動かすと、足のかかとの裏から、真っ直ぐに上へ伸びている。反対側の足にもある。

 俺はその日、ようやく自分が「吊るされているのだ」ということを知った。


 誰かがこんな目に遭わせているに違いない、とすぐにそう思った。

 俺にはぶら下がる趣味なんてないし、何かの事故でこんな風になるとも思えない。


「吊るされている」と自覚した時、漠然と記憶が想起されるような感覚があったが、この時はまだ俺は何も思い出すことが出来なかった。


 ……思えば、この頃はまだ希望があったのだ。




 空の上は退屈だ。どれだけ時間が経っても、そうそう何も変わりやしないからだ。


 あれは今の『俺』が始まってから何週間後のことだったろうか。


 遠くの白い地平線から、でかいジェット機が飛んできた。


 こっちに向かってくる巨大な鳥に、オレは狂喜して叫び続けた。


 アホなことに、これで助かるかもしれない、と思ったのだ。声が届くか、姿が見られるか、何でもいいがこっちに気づいてくれれば、救われると思った。


 だが、ぐんぐん近づいてくる無機質な鉄の塊に、やわな期待が動物的な恐怖にすげ変わり、やがてそれが視界の端すれすれに通り過ぎていった後、俺は悟った。


 どうも俺は現実の生き物ではないらしい。


 飛行機の翼は、確かに俺の真上を滑っていった。しかし、俺を吊るす透明な銀の糸は、全く揺らぎもしなかったのだ。




 今日も、空の上から地上を見下ろしている。


 晴れた雲の少ない日は、もっぱら地上を上から眺めている。海も山も村も都市も、俺の目には全てが美味なのだ。


 思えば俺は囚人のようだ。

 吊るされた空の上の独房で、体を糸に縛られて、大抵は巨大な陽の光に炙られている。


 さながら永遠に続く、火炙りの刑。


 そう感じると、俺は昔の、こうなる前の自分を少しだけ思い出した。


 そういえば俺は、前に何かとんでもない大罪を犯した気がする。

 もしや、これはその罰を受けている最中なのだろうか?


 浮かんできた記憶は朧気な上、断片的で、それ以上は何も思い出せない。


 糸がピン、と硬く張った気がした。

 



 いつも、空の上にいる。


 今日も地上は色とりどりに溢れていた。空とは違う暖かな青があり、雲にはない豊かな緑があり、そして人がいる。


 全てを思い出した。だから、きっとまた『俺』は忘れるだろう。


 眼下に見えるあの人々の群れの中に、俺の妻や子供、親族達もいるのだろうか?


 誰か上を見上げて、気付いてくれ。

 俺という存在が確かにここに在ると、叫んでくれよ!


 無駄な願いと分かっていても、見下ろすたびにそう思わずにはいられない。

 繰り返される日常の果てに、吊るされた罪人に残された最後の恩赦。

 そして、俺は……。











 ……再消去。


 本日も彼は浮いている。


 地上に焦がれながら、見えない糸に吊るされて、雲の上でただ一人。身じろぎもせず、我々の世界を見下ろしている。


 彼は今頃、こう思っている。



「あぁ、今日も世界が恨めしい」


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