アノマリ稀人譚

あっぷるぺん

第一話「にくづき」



 はじめに、読者の方々へ。


 本文中にて使用されている個人名は全て、便宜上振られた仮名である。予めご注意の上、読み進めて頂きたい。






               ***






「このお肉、おいしいのに程よく安くっていいですよねぇ」



 夕日の傾く週末のスーパー。冷蔵庫に詰めこむ食材を選びに、買い物に出て来た主婦達の姿でまばらににぎわう店の一角。明るい照明のついた精肉売り場に、二人の女が並んでいる。


 買い物袋をさげた中年の主婦が、やや身を引くような恰好で若い主婦の話を聞いている。

 こういう場合、話しかけたのは「彼女」の方からと推してみてまず間違いはない。



「お値段の割に、ちゃんと歯ごたえがあるっていうか」



 長い髪を後ろに縛った若い方の主婦――リグレーティエ・リボーンが楽しそうに、相手の隣に立って話し続けている。

 おそらく互いに名も知らぬ仲なのだろう。捕まったおばさんの方は痩せた頬に皺を作り、若干戸惑い気味なのが見て取れる。


 彼女が人並みに世間話ができるようになるまで、まだ今しばらくの時間がかかりそうではあるが、既に会話を成立させるに足る程、ある程度、言葉を操れるようになってはいるようだ。

 社会への適応はかなり進んでいると、前向きに経過を評してもよいだろう。


 嬌声が聞こえ、リグレーティエの相手がややはにかんだ。

 珍しく、今日は話が弾むようだ。


 人としての彼女も中々に魅力的ではあるのだが……

 趣旨に沿い、今回は【アノマリ】リグレーティエのご紹介をさせて頂こう。


 現在、一応実社会に馴染んでいるように見える彼女が、なぜ『人』ではなく【アノマリ】なのか?

 その秘密は彼女の来歴にある。


 リグレーティエの過去は特別ではないが、人の道からは少々ずれている。




 出生について。

 

 リグレーティエ・リボーンは、とある山の奥地にある集落で人の子として生まれた。

 語るべき名を持たないその集落では、木造の質素な家を住みかに、10世帯ほどの住民が貧しい生活を営んでいた。

 

 集落は既に、リグレーティエが誕生するかなり前から経済的には死に体で、住民達は決して生まれに恵まれたとは言い難い。

 しかし、彼らは他所よその似たような僻地に比べ、一つだけ生活に有利な施設を村外れに持っていた。



 立ち並ぶ藁の屋根から少し外れた山の森林の中には、大きな『穴』が口を開けていた。



 集落では、『穴』にはいつ何どき、何を捨ててもよいとされていた。

 

 元々は同じ地に住んでいた住人達が、先祖代々に渡り後の子孫の為にこしらえたもので、リグレーティエが生まれた時代においても、その公共施設はすこぶる有効的に使われていた。


 日々の生活で出るゴミというゴミは全て『穴』に放り込まれた。

 それは決して、空き缶や使い物にならなくなった家電等、ありきたりな生活ゴミに限った話ではない。


 ときたま発生する、住民にとって都合が悪く始末の面倒なもまた同様に、例外なくみな放り込まれた。


 6歳の頃まで両親に大事にかわいがられて育ったリグレーティエは、ある夏の夜、突然父と母に家の外に連れ出され、わけも分からぬうちにその『穴』に放り込まれた。


 彼女は恐ろしい悲鳴と共に、突如凶行に出た父親と母親に強い疑問を抱いたが、この集落では面倒の看きれなくなった子供を『穴』に捨てる行為は、ごく当たり前に行われてきたので、両親が助けを求め落ちていく彼女の声に耳を貸すことはなかった。



『穴』の底は、この世のありとあらゆる醜さを詰め込んでばらまいたかのような、ひどく劣悪な環境だった。


『穴』に落とされた生き物が、再び地上まで這い上がって出て来られた例は、これまで一度もない。


『穴』に落とされる、ということはつまり、助かりようのない死を意味する。


 落とされたリグレーティエが穴の底の地面に激突した時、衝撃で周囲に腐った血と人骨が散らばったが、彼女がその瞬間、その事実を即座に理解したかどうかは分からない。



 ともかく、彼女が7歳の誕生日を迎えることはなくなった。

 

 両親は次の日の朝には、昨夜の自らの行いと共に、哀れな一人娘の記憶を忘却の彼方へと追いやり、昼にはもう村中がリグレーティエを忘れていた。


 幾度となく繰り返されてきた悲劇の史書に、また意味のない1ページが書き加えられ、リグレーティエの人生はここで終わる筈だった。




 




 例外的な顛末の端緒は、彼女が穴の底に激突した際、即死を免れたことだ。

 

 前日に放り込まれたばかりの、図体の大きい大人の鹿の死骸が、下に敷かれた様々な動物の骨肉とあわせ、偶然にも有機的なクッションとなって衝撃を和らげた。


 リグレーティエは足や腕の骨を何か所か折りながらも、辛うじて一命を取り留めた。

 生き残ってしまった彼女は、暗闇の中を必死に這いずり、腐った土の絶壁に爪を立て――そして、しばらくして諦めた。



「珍しくもない光景だったんじゃないかな」

 と彼女は当時を振り返りそう語る。



「人間はともかく、山の動物は大抵落ちてきてからしばらくは生きていたから」

 と。



 あるいは、落とされた次の日に「それ」が降ってくるまでは、彼女はまだ人間だったのかもしれない。


 這い上がるのをあきらめたリグレーティエは、その後穴の底で数時間、親から見捨てられた事実に嘆き悲しんだ。

 その間も、全身が訴えてくる痛みに苦しみもがき、彼女は死の恐怖に慄いていた。


 未熟で小さな器にはとても背負いきれないほどの、溢れ返る様々な感情に振り回されていたリグレーティエだが、しかし、しばらくすると、彼女は心に平静を取り戻した。



「今まで、私が穴に落としてきた動物たちもこんなだったんだなって思ったら、何だか急に気持ちが冷めてきたんです」



 リグレーティエが子供なりに(少し逸脱した早さで)、自身の置かれた状況を理解した頃、新たなが頭上から彼女の目の前に落ちてきた。




「それ」は新生児だった。


 母親の胎内から産み落とされたばかりの赤ん坊だ。やはり、さほど珍しくはない。

 穴に人間が落とされるとき、大抵それは赤ん坊か子供だった。

 育てる余裕がないにもかかわらず、子を産んでしまった若い夫婦が、集落の外から風の噂を頼って捨てに来る例が最も多い。


 地面に激突した赤ん坊は、リグレーティエと違い、衝撃を受けた瞬間に即死した。

 全ては当たり前の日常で、穴の底では何度も繰り返されてきたことだ。


 ただ、いかんせんその日に限ってだけは、日常は例外を生む稀有な偶然となってしまった。


 穴の底でリグレーティエはまだ生きていた。

 骨折がひどく、歩けはしないが、かわいそうな赤ん坊の元に這い寄るのは容易だった。

 彼女は未だ足元の鹿の死骸に手を付けてはおらず、転落の際に顎を怪我していなかった。


 しかし、何にも増して最も重要だったのは、リグレーティエが息絶えた赤ん坊を目の前にしたその時点で「生きたい」と強く願っていたことだろう。



【アノマリ】を生む条件は、整っていた。




「その子の味だけは、今でもよく覚えています。うん、きっと、一生忘れられないかなぁ」



 穴に落とされたのち、生き残った動物、または人間が生ごみを食べて、しばらくの間生き延びた例は過去に幾度かあっただろう。


 だが、最初の食事が人の赤ん坊であった例は、おそらくリグレーティエが初めてだったと思われる。


 胎児に毛が生えた位のものを口につけた彼女は、その後およそ18年もの間、真っ暗な穴の底で生き永らえた。


 にわかには信じがたい話ではあるが、毎日のように落ちてくる様々な廃棄物のお陰で、食べ物には困らなかったという。



「水はどうやって飲んでいたの?」

「雨の日は、上から流れてきたのを飲んでいました。汚かったけど、死骸の腐った血に比べれば飲めなくはなかった。布とか、あと地面や壁に生えてた葉っぱを抜いて、その根っこに出来るだけしみこませて溜めておくんです。で、のどが乾いたら少しずつ吸って飲む。元々じめじめした所だから、意外と保つんですよ。それでも、晴れが続くと、ともだちの血を飲むしかないんですけど」



「感染症にはかからなかった? 衛生的に子供が生きていけるような環境じゃなかったと思うんだけど」

「ひどい熱なら、何度もかかりましたよぉ。お腹も、痛いのが当たり前みたいな感じで、たくさん吐きました。でも、吐くともったいないから、出来るだけ吐かないようにしてました。て言っても、やっぱり新しいのは最初、戻しちゃうんですけどね」



「では、命に係わるような病気にはかかったことがない?」

「よく……分かりません。すいません、病気のことは詳しくなくて」



 18年かけて大人になり、自力で穴からの脱出に至ったリグレーティエだが、その経過の内、もっとも重要と思われる点を記しておく。


 これは彼女が今に至っても【アノマリ】として扱われる理由の内、最も有力なものの一つである。




 彼女自身が『ともだち』と呼称する存在について。


 穴の底は孤独だったが、リグレーティエは時々、地上の人間とコンタクトを取っていた。


 自らと同じように、家族に捨てられ、穴に放りこまれた子供達。

 まれに落ちてくるそういった「同類」の命こそが、穴に住むリグレーティエにとっては、天の恵みのごとき至福の贈り物――すなわち、『ともだち』――だったという。



「時々、何回かに一回ですけど、死なずに済む子がいるんですよ」

「ほう」

「そういう子には、余った水や食べ物を分けてあげて、話せるくらいよくなったら、おしゃべりするんです。学校のこととか、おうちのこととか」


「私より大きい子が落ちてきたときもあって、文字の書き方なんかも、教えてもらったこと、ありますよ。だから、言葉は忘れなかった。アルファベットとかは今でも全然なんですけど(笑)。あの子達とおしゃべりしている時が一番楽しかったかな、あの頃は」



 あどけない微笑を見せるリグレーティエ。

 なら、残念ながら落ちた際にすぐ死んでしまった子供達はどうしていたのか? 

 

 そう私が問うと、彼女は気まずそうに苦い笑みを浮かべつつも、快く回答してくれた。



「それはそれでもちろん、困りませんから。ともだちもおんなじなんですよ。どれだけ気をつけてお世話しても、最後には必ず悪くなるから、その前に」

「それは、気持ち悪くなかった?」

「いいえ」

「なら、ともだちは美味しかった?」

「味の話ですか? 今振り返るなら、あんまり…ですね。お店のお寿司とか、ハンバーグの方がずっと美味しい。……でも、鹿よりは好きかなぁ」

「ともだちと一緒に生きようとは思わなかったの?」

「そんなに元気な子はいませんでした。皆怪我だし、食べ物も、いつも余ってるわけじゃなかったですから」

「ともだちを、かわいそうだとは思わなかった?」

「…………」


「今でも××××を食べる?」

「…………」






「このお肉、おいしいですよねぇ~」



 リグレーティエ・リボーンが、中年の主婦に話しかけている。

 彼女は世間話が肉の次に好きだ。

 スーパーやデパートでは、他の買い物客を相手に、他愛ないおしゃべりに興じている姿をよく見かける。


 一人でいた時間が長かった分、立っている人と話す体験が新鮮で楽しいのだろう。他人には中々打ち明けづらい過去を持つ彼女だが、現在は職もあり、明るい日の下で生きている。


 応援する筆者としては、リグレーティエが、今後も人間社会の常識に沿った健やかな生活を送ってほしいと願ってやまない。


 しかし、彼女が度々何を買いに店を訪れているのかは、実のところ私も知らない。

 リグレーティエは、買い物かごを空にしたまま帰る日の方が多いのだ。

 今日も、彼女の穴のあいたかごの中には、店の品物は何も入っていない。



 さて、果たして今晩のリグレーティエの献立は一体何であるのか?

 

 それはこの寄稿を読んで下さった読者の皆様それぞれのご想像にお任せするとして……。


 美しく、妖しい、食通のアノマリ。

【にくづき】リグレーティエ・リボーン嬢のお話はこの辺りでおしまいとさせて頂こう。

 

 ではまた、次回。 











 ……ところで、最後に奇妙な事実を一つだけ。



 リグレーティエが『穴』に落とされてから数年後、彼女の故郷であった集落は、近接するいくつかの町村に合併吸収され、住民の移住により消滅している。


 集落が廃墟と化したその日から、『穴』にリグレーティエが食い繋いでいけるだけの食糧が投棄されることは無くなったはず。


 にも関わらず、彼女は山奥の斜面に口を開けた大穴の底で、その後十余年もの期間に渡り生き延びていた。



【アノマリ】リグレーティエ・リボーンの生存に関するこの問題について、真相は未だに全く謎のままである。

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