彼の覚悟、彼女の覚悟

「そういうこと、言い出すと思ったよ」


 夕方、葉摘はつみの話しを聞き終えるや否や、響也きょうやは言った。


 響也の顔は柔らかな表情の変化を作る事は出来ないし、しわ枯れた声には感情の起伏は表わせない。

 にも拘わらず、彼が困ったような……それとも呆れたような表情をしているのが葉摘にはありありと分かった。

 その言葉が笑い含みに発せられただろう事も分かってしまう。

 伊達に何年間も響也に憧れ続け、見つめ続けてきたわけじゃないのだ。


「ねえ響也お兄ちゃん。ワタシ、この島に残ろうと思うんだ」


 それは口にするのに覚悟を要した言葉だった。


「島を出たって向こうがどうなってるのか全然分かんないしさ、今まで連絡も取れなくてそれどころか誰も来れなかったってことは、日本全体すっごいめちゃめちゃになってるって事じゃない? そんな危ないトコロに戻るよりもここにいた方が安全だと思うんだよね。ここにはワタシの作った畑もあるし、町にはまだ生活するのに必要な物がたくさん残ってるんだもん。だいたい向こうに戻る必要なんてないじゃん?」


 屋敷に帰宅した葉摘はいつもどおりの自分として違和感のないように、何度も頭の中で繰り返して練習した言葉を唇に乗せた。

 声色も普段通りだし、幾度となく反芻した言葉は喉に引っかかる事もなく、自然に振舞えていたと思う。

 強いていつもと違うところを挙げるならば、椅子の上に腰掛けた響也が最初から目を開けて葉摘に顔を向けていた事くらいだっただろう。

 

「僕がこんな姿になってもこの屋敷に留まっていたのは、葉摘にそんなことを言わせるためじゃないよ?」


 響也をこの島に残したまま去るなんて出来ないと思いつめていただけに、心のどこかで彼にそう返されるだろう事は予想がついていた。

 ……分かっていたが、それにどう反論するればいいのか、どうしても思いつけなかったのだ。

 響也を納得させるための魔法の言葉を見つけられないままこの事を切りだした自分のうかつさに、葉摘は心の中、唇を噛んだ。


「でもさ、もしこの島の方が安全だってわかったならママだってここに住むって言い出すかもしれないじゃない? 向こうにはまだたくさんのゾンビがいて危ないかもしれないし」


「ここだって危ないよ。僕もゾンビだと言う事を忘れてない?」


「だって、だけど……響也お兄ちゃんは他のゾンビと違うもん」


「違わないよ」


 ……響也は静かに言う。


「全然違うよ。響也お兄ちゃんは今も前のまんまのお兄ちゃんじゃん」


 否定の言葉を口にする自分の必死さが、自分自身の胸をキリキリと痛ませた。


「……僕が?」


 動かない響也の頬が苦い笑いを浮かべているのが葉摘の目に見えたような気がした。


「僕は死んでいるんだよ、葉摘。今じゃ時々記憶が飛ぶ事もある。……『小野塚響也』っていう人格はもう……朽ちて消えようとしているんだ」


 そんな事は出来ないのを承知で、今すぐに目を閉じ耳をふさいでしまいたいと思った。

 分かっていても聞きたくない事を、響也の口から聞くのは辛かった。


「この島に残って何をするんだい? この島で、僕が腐り果てて行く姿を見ながら、キミは無駄に人生を過ごすつもりなの? 誰もいないこの島で……?」


 静かでゆっくりとした口調ながら、その言葉は畳みかけるように葉摘の言い逃れと退路を塞ぐようだった。


「ちがうよ、響也お兄ちゃん。ワタシはただ……」


 血の気の無い響也の秀麗な顔はほんの少しも動きはしなかった。

 けれど葉摘の目には彼がとても悲しそうに微笑んだのを見た気がした。


「……ごめんね葉摘。僕はもう……この身体から解放されたいんだよ……」


『ワタシはただ、響也お兄ちゃんと少しでも一緒にいたいんだよ。それだけなの』


 そんな心の声を言葉にすることは出来なかった。

 心の声どころか、その後の葉摘はただ押し黙って響也の顔だけを見ていた。


「スマホ、ありがとう。さっきは疑う様な事を言って悪かったね」


 響也が目顔で指し示すスマートフォンギャラリーテーブルの上から取り上げ、葉摘は黙ったまま部屋を出る。

 頭の中いっぱいに渦巻く疑問や思いが溢れ出しそうで、引き結んだ唇を緩める事すら出来なかった……。


 曽祖父が集めた鉱物標本や昆虫標本のように、自分は響也をあの煤けた白い部屋に飾る事によって満足感を得ていたんだろうか?

 とうの昔に命を失いながらもその翅に往時と変わらぬ鮮やかな色彩を残した蝶とのように、響也の意志を残した骸を愛でていただけ……?


 ……そうじゃない、そんな筈が無いと分かっていながらも、思考は後ろ向きな方向のみに活動しようとする。

 不思議と泣きたい気持ちにはならなかった。

 ただ……ただ、この島に生き残ってからの日々に自分を助け、励まし、ずっとそばにいてくれた響也お兄ちゃんと言う存在の意味が、葉摘には分からなくなってしまった。


「僕は死んでいるんだよ」


 と、彼は言う。


 ……でも、だったら今まで葉摘を助け、励まし、ずっとそばにいてくれた彼は一体誰だと言うんだろう?


「僕はもう、この身体から解放されたい」


 ……とも言ったけれど、身体が無くなってしまったなら、たった今まで葉摘と話しをしてくれた響也は一体どこへ行ってしまうんだろう?


 大声で叫び、そう問いたかったのにそうできなかったのは、怖かったからだ。

 たくさんの死者を見たのに、葉摘は『死』の意味を理解していない自分に気がついた。



 幾度かのメールが秋也の携帯電話経由でやりとりされた。

 娘の生存と無事が確認されたからには、どんな手段を使っても一刻も早く篠ノ目島へと迎えに行きたがったリカコだが、事はそう簡単ではないようだ。

 本土では現在船の使用がある程度制限されているらしい。

 これは篠ノ目島に最初のゾンビが渡ってきた時の事を考えれば、当然と言えば当然かもしれない。

 混乱の中で分断され寸断された交通網の整備が整わず、船を出してくれる人間がいそうな土地までの移動にも手間取っているようだ。

 未だ混乱し荒れ果てた地域もあるらしい。

 それでもリカコはそんな地区を迂回し、または強行突破しつつ渡航の為の小船を出してくれる港までとたどり着いたのだが……。


 篠ノ目しののめ島は離島だ。

 本土からの距離を考えれば島と本土との往復には当然相当量の燃料が必要になるのだが、その燃料がなかなか集まらないようだった。

 しかし、この問題は直ぐに解決を見た。

 篠ノ目島への渡航さえかなえば、島内にはまだ充分な残量を抱える給油設備がある。

 この件で使用する分だけではない燃料を手に入れられる可能性が高いと知った船主は、俄然やる気を出してくれたらしい。

 秋が終わらぬうちに葉摘は母親と再会し、本土へと渡る事が決定した。


 ……あの台風の夜以来、叔父の秋也あきやには会っていない。

 多少気にならないでもなかったけれど、彼からメールは来ているし、これまでも秋也はさほど頻繁に屋敷に出入りしていたわけではないので葉摘はこれを不思議と訝しむ事は無かった。

 なによりも、葉摘には島を発つにあたって準備しなければならない事がたくさんあって忙しかったのだ。

 島を出た後の生活に必要な荷物を纏め、出来うる限り持ち出しておきたかった。

 船の燃料の確保すらままならないのなら、生活に必要な品々を製造する工場がまともに稼働しているとは考えにくい。

 まとめた物資の取捨選択に対してはリカコに任せるにしても、やっておいて無意味なことではないだろう。

 日々自分を養う為の畑仕事等の他、葉摘は町に降りてはそういった作業で疲れて屋敷へと帰宅する。


 葉摘の帰郷が決まってから、響也は殆ど毎日葉摘が部屋へ入るのを許すようになった。

 彼は今までずっと閉じ続けていた瞳を今では開き、たくさん話しもしてくれる。

 人形のように動かない響也を相手に一人話し続けた日々に比べれば、それは嬉しい事だったが、今は嬉しさよりも悲しさと苦しさを葉摘の胸にそれはもたらした。

 これまでの響也は少しでも長く葉摘の傍にいられるよう自分の身体の保全の為、殆ど動かず言葉も話さずいた事を、葉摘だって承知していたのだ。

 もう、そんな努力は必要ない。

 そういうふうに響也は判断したのだろうと考えると、胸が締め付けられるほど悲しく泣きたい気持ちになったけれど、葉摘は泣かなかった。


 響也の背後の壁には、昔、彼が自分のイメージに近いと言ってくれた明るく美しい色の大きな蝶の標本もある。

 彼の記憶に最後に残る自分が、陰気で湿っぽい顔をしている事だけは避けたい……と、葉摘は白い壁の上を元気な色に染めるこの蝶を見上げて心に気合を入れる。

 葉摘の視線の先に気付いた響也が、唐突に話し始める。


「ケルト……アイルランドの方に、死んだ人間の魂が蝶の姿になると言う話があるんだ。アイルランドだけじゃなく、確かアメリカ先住民族の間にもそんな伝承があってね。……それに、ギリシア神話にプシュケーと言う美しい娘が出てくる話しがあるんだけど、彼女の名前は『蝶』と『魂』と言う二つの意味を持つんだそうだよ」


「プシュケー? ……その名前、なんか聞いた事がある。美容室かなんかのお店の名前だったかな? そっか、綺麗な女の人の名前だからそう言うお店につけたんだね。……けど、全然別々の国なのに同じような言い伝えが残っているのって、なんか面白いし、ちょっと不思議だね」


 鮮やかな青い翅で壁面を染めるモルフォ蝶を眺めながら、葉摘は響也の魂の色もこんな綺麗な色をしているに違いないと思い、堪らない気持になった。


「……人は死んだら魂は蝶になるの? 前に響也お兄ちゃんは言ったよね。ワタシはそのトリバネなんとかって蝶々みたいだって。そう言ってくれたけど、もしも魂が蝶々になるとしてもワタシそんなにりっぱな蝶にはならないよきっと……」


 人の魂が蝶になるなど信じたわけではなかったけれど、今の響也の姿を見ているとどうしても葉摘は彼に問わずにはいられなかった。


「死んだら身体から魂が抜けて蝶になるなんておかしいじゃない。だって響也お兄ちゃんはちゃんと……ここにいるじゃないよ? お兄ちゃんの魂は響也お兄ちゃんの中にいるんだよね? だけど……どうして身体と一緒に朽ちてしまうなんて言うの? だったらその身体が無くなったら……お兄ちゃんの魂はどこに行っちゃうの?」


 時折……響也の意識、または人格が失せ、温かな肉を求めるゾンビと言う化け物としての響也が顔を出す事があった。

 以前よりもその頻度が増しているからこそ、響也は葉摘をこの島から一刻も早く遠ざけたいと考えているのは分かっている。

 それは分かっているのだけれど……この先完全にゾンビに変化してしまった響也の魂が一体どこに行ってしまうのか分からない事が、葉摘には怖くて堪らなかった。


「ワタシ、魂なんて見えないよ。そんなもの見た事なんてないんだもん」


 先刻まで鼻の奥をチクチクと刺激していた葉摘の涙の発作は不思議と治まっていた。

 ただ、胸が苦しくて仕方が無い。


「響也お兄ちゃんの魂は……どこへいっちゃうのよ……?」


 絞り出すような葉摘の言葉に、響也は静かに答える。


「いつでも、どこへでも行けるようになるんだ。この身体に囚われずに」


「……」


「……信じられないって言いたそうな顔をしてるね。でも、本当なんだ。葉摘、僕が嘘をついた事があった?」


「ない……けど、響也お兄ちゃんはワタシを安心させるためなら嘘をつくかもしれない……」


 ゆっくりと左右に首をふる響也のその動きはぎこちなく不自然ではあったけれど、真っすぐに葉摘を見つめ返す面はとても綺麗だった。


「嘘はつかないよ。葉摘には信じられないかもしれないけれど……僕は知っている・・・・・んだよ。この身体さえ朽ちて無くなってしまえば、僕の心は飢えて温かい肉を貪ろうとするゾンビの身体から解放されて自由になれるって事を。その事を僕は本当に、知ってるんだ」


 その穏やかに語られる言葉にも声にも欺瞞や虚偽の気配は感じられず、確固とした真実を語る者だけが持つ強い力が満ちており、葉摘には異論や疑いの言葉をさしはさむことが出来なかった。

 響也は葉摘に嘘をつかない。

 それは本当の事だ。

 この小野塚の屋敷がゾンビによる二度目の襲撃を受けた時にも彼はきっと葉摘の元へ戻ってくると約束し、その命を失ってなお彼女の元へと戻って来てくれた。

 だから、きっと彼の語る言葉に嘘はないのだろう……。

 響也の前では最後まで涙など見せたくなかったが、笑顔を作る事はとても難しかった。

 ……殊に今は。


 葉摘がこの島から去ったなら、きっと響也は自分を壊して・・・魂の自由を得る事だろう。

 今の状態でいるよりも響也にとってその方が良いだろうと分かっていても、こうして動いて話も出来る響也が自ら消えようとしているのを喜べと言うのは無理な話しだった。

 命を失いながらも動き、意志の疎通も図れる『響也』とずっと暮らしてきた葉摘の中で、生きている事と死んでいる事との境界はあやふやになりつつある。


『ずっとこのまま響也お兄ちゃんと一緒にいたいよ』


 無理と我儘を承知の上で、葉摘はたった一度だけそれを口に出さずにはいられない気持ちだった。

 響也が困った表情をしたら冗談だよと笑って流す覚悟を胸に唇を開きかけた葉摘だったが、言葉は冷え切った室内のホルマリンの臭気に満ちた空気を震わす事はなかった。

 ……葉摘は気づいてしまったのだ。

 自分の小さな我儘と覚悟などと比べようもない程の響也の覚悟に……。


「あのねお兄ちゃん。荷物、もう殆どまとまったんだよ。明日か明後日にはママから出発したってメールが来る筈なの。……ワタシ、向こうに帰るまでたくさん響也お兄ちゃんと話したいんだけど、いいよね?」


 忍耐と勇気を振り絞り、葉摘はなんとかその顔に笑みに似た表情を張り付けたままで響也が一つ頷くのを確認する。

 笑みの形に強張った唇を崩さぬよう寄りかかっていたギャラリーテーブルから身体を離した時には、指先が氷のように冷え切り小刻みに震え始めていたけれど、なんとか平静を装ったまま


「忘れ物が無いかチェックしなきゃならないし……そろそろ今日は行くね。おやすみ、響也お兄ちゃん」


 そう早口で言う事が出来た。

 蛍光灯のスイッチを切って部屋を出、震える手指でどうにかドアに施錠をした瞬間、葉摘の両の目からは溢れるように涙が零れ落ちる。

 室内の響也に聞かれぬよう嗚咽を漏らす唇を両手で押さえ自室に辿りつくと、葉摘は堪えきれずに声を上げて激しく泣きじゃくる。

 葉摘の眼裏には先ほど目に入った響也の姿が鮮明に残っていた。

 いつもと同じ白い長袖のシャツに包まれた響也の骨っぽく華奢な身体には、いつもとは違う点がいくつか見受けられた。

 張りのある綿シャツに綺麗なラインを描かせる筈の左肩が、ガックリと落ちていたのだ。

 良く見ると右の肘から下や無造作に大腿の上に置かれている両手、それに黒いスラックスの下の両の脚も微妙にではあるがその角度や衣服に描かせる皺に不自然さが見て取れるではないか。

 ……肩、肘……両足。それらすべての関節が響也自身の手によって『壊されて』いるのではないかと言うことに思い至った葉摘は、自分の迂闊さに慄然となった。

 響也が彼女に


「もうあまり長くは一緒にいられないと思う」


と言いだしたのは、彼が時折自分の意識を失いゾンビとして温かな人肉……この篠ノ目島の島内に唯一残った葉摘と言う獲物・・を喰らおうと自身の意志の届かぬ行動を取り出したからだった。

 そんな状態にある彼が、いくら葉摘がこの島を去ることになったからと言え何の方策もなく毎日のように彼女を室内に招じ入れる事など、絶対にあり得ないのだ。


 ゾンビの身体は痛みを感じない。それでも、自分の身体を壊すのは気持ちの良いことではない筈だ。

 葉摘が島を去った後、響也が自分の心をゾンビの身体から解放する為に身体を壊すにしても、今のような不自由な状態ではそれも相当に困難になるだろう。

 それなのに響也は葉摘の為に自分を犠牲にしてしまう。


『ごめんね。ごめんね……ありがとうね』


 激しく泣きじゃくりながら、葉摘は胸の中何度もそう繰り返した。


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