あの日に、彼は
彼らが響也の異変に気がついたのは、小野塚卓一の三回忌の事。
父親と不仲で没交渉だった彼らにとって、響也は殆ど接点の無い『弟』ではあったが、父親の葬式で見た時よりもやせ細り、極端に表情に乏しいその少年の姿は明らかな異常を周囲に訴えていた。
勤務先の総合病院の外来でも、リカコは時折響也の様な子供と遭遇する事がある。
自分で
リカコは弟の秋也に目配せをし、父の後妻の目の届かない場所で響也の衣服をめくってその下の身体を検めた。
「……響也くん、
リカコの問いかけに響也ははじめ、黙ったまま首を左右に振った。
その事実を周囲に漏らし助けを求める行為が更なる虐待のきっかけとなるのを恐れてか、それとも母を庇ってか、被虐待児が自ら被害を訴える事は稀だ。
その時すでに響也の唇から言葉が発せられる事はなく、リカコはこの不憫な弟を固く胸に抱きしめ、無関心さが生み出した距離のせいで必要以上の期間を悲惨な環境で過ごさねばならなかった響也に何度も詫びの言葉を繰り返した。
「ごめんね、
その後はあまりにも色々な事がありすぎたせいか、響也にはその頃の記憶が殆どない。
目まぐるしくたくさんの人間が彼の前に現れ、何箇所もの施設や病院を転々としたように思うが、響也が我に返ったのはのどかで静かな篠ノ目島の小野塚邸に来てからの事だ。
生前の父、卓一や母らと住んでいた小野塚の本邸も閑静な場所ではあった。だが、篠ノ目島にはあそこには無い温かさと優しさ……のどかな偉きさが周囲の自然に満ちている。
秋也とリカコに救いだされてからの響也の周囲は、誇張なく180度変わったのだ。
響也が鮮明に記憶している母から浴びせられた言葉達は、いつも彼の存在を否定するものばかりだった。
あの母親から離れ、響也は自分のいた境遇が一般的とは言えない異常なモノだったのを身にしみて知る事になった。
ごく小さな頃から父親が不在がちな家で育った彼にとって、母親だけが心のよりどころであり自分を庇護してくれる唯一のものと信じ……依存していた事は、何の不思議もないことだと冷静に振り返りつつも、自分の事を愛してはくれなかったあの母親を自分自身愛していたかどうかの答えを彼はずっと見つけられずにいた。
母親への愛情の存在を認める事によって、自分を保護し、温かく見守ってくれた秋也やリカコの存在を否定する事になるのではとの不安や罪悪感があったのも、答えを導き出す事ができなかった要因の一つだったのかもしれない。
響也は、鏡に映る自分の顔が嫌いだった。
卵型の輪郭も切れ長な目も、髪の毛の生え際の形までもが母親にそっくりだったからだ。
島の数少ない子供達の中、響也は『本土から来た子供』である以上に、その際立った容姿で浮いた存在だった。
同性の友人らはさすがに口にしないが、上級生や下級生の女の子達は響也の容姿の良さを褒めたり、時にからかいの対象にした。
彼らの父母や祖父母が悪気なく
「随分とォ綺麗な顔した子ぉやねぇ」
などと言葉を掛けてくるたびに、ますます響也は自分の造作が嫌になっていった。
容姿に対する褒め言葉を耳にするたび彼は、父親以外の男性にその美貌を褒められ生々しい女の顔で笑う母親の事を思い出して吐き気を催す。
肉や魚に対するこの拒絶反応は、自分を顧みる事のなかった母親への愛情の裏返しなんだろうか?
響也は心の裡に問いかけたが、何故かそれが答えではないような気がしていた……。
「響也お兄ちゃん……秋叔父さんがね、ママと連絡取れたって言うんだよ。ママ、絶対に近いうちにここに迎えに来るからそれまでもう少し頑張って待っててって。……なんか信じらんないよワタシ。本当かな? 本当にママ、迎えに来てくれるのかな?」
ある日の事。興奮のあまり震えを帯びた声で葉摘が言った。
響也が瞼に意識を集中させて目を開けると、ギャラリーテーブルを挟んだ数メートル先に、白い蛍光灯の下でもはっきり分かるほどに頬を上気させた葉摘がいた。
眼球の乾燥からか響也の目に映る
エアコンの冷風で冷え切ったこの部屋への対策か、彼女は長袖のカーディガンを羽織り、その胸元にメテオブルーのスマートフォンを両手で抱きしめるようにしっかりと握っていた。
響也はいま目の前にいる葉摘が記憶の中にあった彼女よりも背が伸び、大人びた印象になっている事に少なからぬ驚きを覚える。
彼が最後に目を開き彼女の姿を見てから、一年近くの時が経過しているのだ。
この年齢の少女が見違えるほどに成長していたとしても不思議はない。
彼女が身につけた長袖のカーディガンも、室内の気温の低さへ対するものと言うよりは外界の気温に合わせての物なのだろう。
外の音に耳を澄ましても、少し前まで煩い程に聞こえていた筈の蝉の声はもはや殆ど聞こえて来なかった。
季節は確実に移り変わっているのだ。
響也は葉摘の表情を探った。
幼さを消しつつある少女の眼差しは興奮による強い光を宿しているけれど、そこには異常な兆候は見つけられない。
響也は言葉を発しようとして口を動かした瞬間、自分の胸郭内に空気が無い事に気付いた。
空気が無ければ言葉は音にならない。
どうやら自分は相当に動揺しているようだと自覚しつつ、大きく胸郭を膨らませる。
「葉摘……本当に兄さんがそんな事を言ったの?」
干からびしゃがれた声には感情の機微は反映されにくいのだが、今の響也にはそれはありがたかった。
もしも彼の心臓が今も鼓動していたならば、きっとそれは平常とは違うリズムを刻んでいたに違いない。
「うん、言った。……っていうか、秋叔父さんのケータイからワタシのスマホにメールが来るんだよ。叔父さん本人にはまだ会ってないけど、着てるメールは叔父さんのメアドからだよ?」
手の中のスマートフォンを操作し、画面を確認しながら何度も頷づく葉摘。
「いつ……そのメールは?」
「え? ええとね、夕べ遅い時間かな。ワタシが寝てる間。今朝スマホの画面見たら何通もメール着信があって……ああ、着信は夜中の2時過ぎだ。……でも変だよね。だってこのウチ電波殆ど届かないのにどうなってんだろう? しかも……メール来るって……電話会社復活してるってこと?だよね??? でもさっき家電の受話器上げてみたけど全然反応しなかったんだよ。スマホとケータイだけ復旧してるって事? 秋叔父さんとこないだ会った時、なんとかして外と連絡取るからって言ってたんだけど……これ、一体どうやって連絡取ったんだろう……?」
響也の顔の皮膚は生前の柔らかさを失い、動きも鈍い。
しかしそんな状態にあっても表情は激しい感情の乱れを表していたに違い無い。
葉摘がおどおどと響也に向けてスマートフォンの画面を前面に突き出すようにして言った。
「ママから叔父さんのケータイに届いたメールの一つも、秋也叔父さん経由でちゃんと転送されて来ているよ。響也お兄ちゃんも見てみて。嘘じゃないんだよ。……本当なんだから?」
不安そうな葉摘の様子に、自分が疑いの気持ちも露わに彼女を見ていたのだと響也は気づいた。
「ごめん葉摘。あんまり急な事だから驚いたんだよ。けど……良かったらそのスマートフォン、少しの間ここに置いて行ってくれないかな」
「うん、いいよ。……そうだよね、ワタシだって本当なのかまだ信じらんないんだもん。後で取りに来るからお兄ちゃんもメール読んでみて。ああ、もう……叔父さんってば今どこにいるんだろ。直接聞きたい事がいっぱいあるのに、いつもどこにいるのか分からないんだから。……ワタシちょっと町の方探しに行ってみよう。じゃーね響也お兄ちゃん」
ギャラリーテーブルの上にメテオブルーのスマートフォンを残し、葉摘は部屋を出ていった。
響也は自分の周囲を取り囲むように置かれたポプリの瓶を避け、テーブルの周囲を迂回して出入り口の傍に置かれたスマートフォンに手を伸ばす。
普段は、緩やかな動作しか出来ない自分の身体はもしもの時に葉摘が逃げる時間を稼ぐ助けになると考えていたが、今はこの鈍さがもどかしくてたまらなかった。
幾つかのキーを操作してメールフォルダを開く。
並んだメールの着信履歴は殆どが2年以上前の物だった。
しかし、秋也の携帯電話から発信されたメールの履歴は間違いなく今日の日付……。
呼吸をする必要の無い響也だが、思わず大きく息を飲んでいた。
「……そんな、馬鹿な事が……」
指先が震えた。
スマートフォンの画面に表示されているのは、間違いなく秋也の携帯電話のアドレスからの着信メール。
……だが、そんな事は絶対に
「嘘だろ、だって兄さんは……」
茫然と呟きながら画面から顔を上げ、青白い蛍光灯の灯りに照らされた自分以外誰もいない室内を見渡す響也。
小野塚の屋敷が最初にゾンビに襲われた時、秋也はゾンビを引きつけ町へと誘導する為に出かけていった。
二度目のゾンビの来襲時に命を失い、自らもゾンビ化した響也だが
「秋也兄さん、そこにいるの?」
ほんの少し歪んだ視野の中に動くものは何もない。
「……兄さん……」
胸郭内の空気を使いきった響也の言葉がエアコンの送風音に飲まれて消えた瞬間、彼の手の中でメテオブルーのスマートフォンがブルブルと震えた。
液晶画面が白い光を灯しメールの着信を告げたスマホのアンテナマークは圏外を表示している。
発信先のアドレスは、秋也の携帯電話。
震える指で開いたタイトル無記名のメールに目を落とした響也は、我知らず自分の口元を強く押さえつけていた。
乾いた瞳から涙が零れることは無かったが、口元を押さえてなお先ほど飲み込んだ息が嗚咽と言う形をとって胸の奥から溢れ出るのを止める事は出来なかった。
『俺は、ここにいる』
身体のあちこちの肉を失い死人の顔色でユラユラと歩くゾンビの群れと対峙した、あの日の記憶が響也の脳裏に蘇る。
葉摘の事を守りたいという気持ちに一点の曇りもなかったが、秋也のような豪胆さを持たない響也の精神はその場所からの一刻も早い逃走を彼に叫び訴えていた。
農作業道具小屋から持ち出した鉈を握る手は夏のさ中にありながら氷のような冷たさで、響也の膝は恐怖で不随に震えた。島の細い山道を登ってくる死人の群れには見知った顔がいくつも混ざっている。
もはや彼らは生前の記憶も心も持たぬ化物でしか無いのは承知していても、姿形は響也が知るその人物のまま……。
彼があの時逃げ出さなかったのは、ひとえに秋也と交わした約束があったからだ。
生前のままの姿をしていても、彼らはもはやかつての彼らとは別の存在だ。
ただ温かい肉を求めるだけの餓鬼に過ぎないと理解していても、彼らに鉈を打ちおろしその身体を破壊するたびに、響也の心も破壊されてゆくようだった。
響也自身が命を失いゾンビになってからは、響也自身が生前の精神を失わなかっただけに自分はとんでもない罪を犯したのではないかと疑う気持ちが常に彼の心にわだかまった。
あの集団の中に思考力を持ったゾンビなど存在しなかった。
……そう分かってはいても、誰かに自分の行動は間違いではなかったのだと肯定して欲しかった……。
「……兄さん、僕は間違っていなかったんだよね? 僕は……兄さんを……」
しゃがれた呟きを吐いた響也の手の中のスマートフォンが、再びブルルと震える。
思うように動かぬ手指で開いたメールに目を落とした響也の唇に、やがて小さな笑みがこぼれた。
『あの日、お前が約束を守ってくれたこと、感謝してる。お前のおかげで俺は開放された。ありがとう響也』
秋也のその言葉に、あの日から始まった罪の意識と疑惑にとらわれ続ける果ての見えない日々に、響也はようやく出口を見つけた思いがした……。
軽トラックをゆっくりと走らせながら、
スマートフォンの画面上には電波の状態を表すアンテナマークは表示されていなかったが、それまでメールが受信出来なかった筈の小野塚の屋敷内でメールを受信出来たと言う事は、秋也が島内の携帯基地局アンテナをどうにかしたのだろうと思ったのだ。
篠ノ目島には島内の発電所から電気を各家庭や施設へと送る送電線があり、それを支える鉄塔もある。
役場からの島内放送の為のスピーカーも何箇所かに設置されていて、それらはコンクリート製の電柱に付けられているのだが……。
ぐるり四方を見渡し、葉摘は自分が携帯電話の電波の基地局アンテナがどんなものなのかを知らない事に気付いた。
そもそも、秋也は殆どいつもどこにいるのか分からないのだ。
現れる時は突然葉摘の前にふらりとやって来ていつのまにか去る叔父が、どこで寝起きしているのかを葉摘は何故か一度も考えた事がなかった。
小野塚の屋敷がゾンビに襲われた時、秋也は彼らを引きつけ屋敷に至る道を封鎖するべく出かけていった。
二度目に屋敷が襲われた時にも、葉摘は秋也に会っていない……と、思う。
秋也が彼女の前に現れるようになったのは、響也がゾンビ化し島内のゾンビ達を殆ど駆逐した後の事だ。
前後の記憶がすっぽりと抜け落ちた葉摘に秋也は言った。
「細かい事は気にするこたぁない。人間ってのは、時にそういう思い出したくないような嫌な記憶を隠しちまう事があるんだよ。そうしないと、日常生活に差しさわりが出たりするからな。あんまり怖い事を思い出したらおまえ、夜中に一人でトイレも行けなくなるだろうよ」
人を馬鹿にしたような秋也のその言い種に、葉摘は唇を尖らせて抗議した。
軽トラックを停車させ、海を眺める。
なんだか頭がぼんやりとして上手に思考を纏める事ができなかった。
海から視線を転じ、濃い緑の木立に半ば埋もれるように見えている町の向こう側を透かし見る。
森で殆どが覆われている様な島内にあって、その場所はこんもり茂る木立が穴があいたように窪んでいる。
二年前、葉摘は確かに記憶に残しておきたくないような恐ろしい光景を見ている。
だけどそんな地獄のような中から、秋也も響也も葉摘の事を守りきってくれたのだ。
特に……ゾンビ化した後の響也は島の中に残っていたゾンビをたった一人で殆ど破壊し、あの場所に彼らの遺骸を埋葬した。
老朽化した島の排水処理施設を移転させる為に森を伐採したあの空き地には、基礎を打つための大きな穴が開いていた。
大量の死体を埋葬するにお誂え向きな事に、キーのついたままの状態の工事用重機も残されていた。
夏の日差しは去って久しく、空気は秋の乾いた冷たい物と入れ替わっていると言うのに葉摘の額にはじんわりと浮いた汗が玉を結ぶ。
「葉摘……僕もどうやらゾンビになってしまったらしいんだ」
ぎこちない動きと表情をした響也が葉摘に告げた日の記憶が、おぼろに蘇る。
ゾンビを壊した時の返り血なのか、それとも響也自身の流した血なのかは分からなかったが、彼の着衣は重い色に染まっていたような気がする。
響也は秀麗な顔を曇らせたまま葉摘を残して命を失った事を詫び、いつまで自分が言葉や理性的な思考を失わずにいられるか分からないけれど、自分の意志で動ける間に島内に残るゾンビを一掃する旨を少女に語り、その上で二つの約束を守るように彼女に言い含めた。
一つは、自分がゾンビの処分を行っている間屋敷を離れず、絶対に町……特に、排水処理施設予定地には近づかない事。
もう一つは、もしも屋敷に戻った自分が思考力を失ったただのゾンビと化していた時には、余計な感情を絡めることなく自分を壊す事……。
「分かるだろう葉摘? 僕も、秋也兄さんも化け物になってキミに襲いかかるような真似は絶対にしたくないんだ。そんな酷い事を僕にさせないで欲しい……」
光を失った瞳で自分を見つめながらの響也の言葉の重さに、葉摘は頷かざるをえなかった。
……真剣な眼差しで首肯しながらも、本当に響也がただのゾンビになり、自分の事を温かい肉を持つ獲物として襲い掛かってくる事があったとしても、彼の身体を壊す事が出来るとは、到底思えずにいた。
ただ、例えどんな姿になったとしても響也に傍にいて欲しかった。
誰もいないこの島に、1人で生きて行くなんて想像も出来ないほどに恐ろしい事だった。
結果として自分は『嘘』をついて響也をこの世に引きとめたと言うのに……。
今の自分はリカコが迎えに来てくれる事に浮かれ、今のいままで響也の今後について考えもしなかった。
葉摘はそんな自分の身勝手さに今さらながら茫然とする。
この篠ノ目島以外の場所で、ゾンビになった響也の存在を許してくれる場所はあるんだろうか?
響也は生前と変わらぬ思考力を持っているし、理性も働く。命が無いと言うだけで、普通の人間となんら変わりは無い。
その事を理解して受け入れてくれる環境が本土にはあるんだろうか?
葉摘は自分の額に浮いた汗をカーディガンの袖でぐいっと拭い、唇を噛む。
そもそも、ゾンビ化した自分自身を厳重に隔離している響也が、葉摘と一緒に本州に行ってくれるとは到底思えない。自分がこの島を去って行ったら残された響也はどうするのか、その事を思っただけで胸がキリキリと痛んだ。
あの部屋の中で一人朽ちて行く響也の姿を脳裏に描きかけ、葉摘は自分の想像を止めたくて握りこぶしで額を叩いた。
涙の予兆で鼻の奥がツンとする。
あの嵐の日に、響也は葉摘に
『もうあまり一緒にいられる時間は長くないと思う』
と告げたけれど、本当はもっと前から響也の様子がおかしい事に、葉摘は気がついていた。
響也にその自覚は無かったのかもしれないけれど、話をしている途中で言葉を途切らせ暫く動かなくなる事が今までに何度もあった。
時には普段は開かない瞼を上げ、理性の色の無い濁った瞳を葉摘に向けユラリと椅子を立とうとした事もある。
やがてはいつもの響也へ戻り、空白の時間に気付かぬ様子で彼は言葉を続ける。
ゆっくりと……だけれど確実に、小野塚響也と言う人格は朽ちて行こうとしているのだ。
目が熱くて鼻の奥が痛んだ。
「泣いたってしょうがない。泣いたって何の意味もない。馬鹿葉摘。泣くな……泣くな……っ」
固めた拳で何度も自分の額を叩きながら、葉摘は口中で繰り返す。
一粒でも涙が零れ落ちたら、際限なく涙が溢れ出てしまいそうだった。
泣きはらした目をして響也に会いに行けば、絶対に彼は心配をするだろう。
……ワタシは大丈夫。ママだって生きてたんだ。もう、それだけでいいじゃん。
固く握りしめていた拳を開き、葉摘は自らの頬を両手でパシンと叩いた。
目の周りがじんわりと熱を帯びて赤く染まってはいたが、瞳から涙の粒は零れ落ちなかった。
響也が葉摘の為に壊したたくさんの遺体が埋まる篠ノ目島排水処理施設予定地は、二年の時が経過した今、黒い土の上に下草や低木が繁茂し、さらにそこを覆うように蔓植物が小山のようなマント群落を形成しはじめている。
やがてあの場所も元のようにうっそうとした緑の木々の中へと飲まれ見えなくなる事だろう。
でも、見えなくなっても消える訳じゃない。
響也は葉摘を守って命を失い、死してなお地獄のような光景を見ながらその手を血で汚してくれた。
「これ以上、欲張る必要ないよワタシ。充分だよ……」
葉摘は自分の頬を打った手をじっと見ながら、自分は響也の為に何ができるのだろうか……と心の中に呟いた。
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