肉と魚と母の想い出

 エアコンの送風口から冷風が吹き出す音は、響也きょうやにとっての通奏低音だ。

 時折彼にはこの音が本当に風の音なのか、それともどこからか自分の耳の中にでも入り込んだ虫が動きまわる音なのか、分からなくなる瞬間がある。

 実際には耳の中には虫などいないと思う。

 恐らくは。


 防腐処理とともに防虫処理も可能な限り行ったおかげか、身体は多少乾燥しているけれど響也がを失ってからの時間の経過を考えれば、さほど肉体に傷みはきていない筈だった。

 そのかわり、ホルマリン等の刺激臭で室内は酷い臭気に満ちているだろうとは思う。


 眼球の乾燥を防ぐため、響也は殆ど目を開ける事がない。

 関節の損傷を防ぐため、彼は殆ど椅子の上から立ち上がる事もない。

 この島に一人残された葉摘はつみを一人切と言う孤独の中に置き去らない為、どんな状態になっても自分はこの世界に留まっていようと決めていたから、少しでも損傷の少ない「良い状態」を長く保つべく、彼は彼に出来る最善を心がけていた。


 ……とはいえ、葉摘の傍にいようと思いはしても自分が今はゾンビである事を忘れぬよう、響也は自身を戒めた。

 だから彼は何かの間違いで葉摘に噛みつくなどという事態が起きぬよう、自分を部屋に閉じ込め、可能な限り厳重に自分自身を葉摘から隔離した。

 響也は外壁からも部屋の内側からも幾重にも板を打ち付け窓を塞ぎ、室内に入った葉摘に襲いかかりたくなったとしても彼女が逃げる時間を与えるため、部屋の中央を塞ぐように置いた巨大なギャラリーテーブルを床の上にビスで固定した。

 ゾンビは生身の人間では不可能なほどの力を出す事が出来る。が、その動きは鈍く、テーブルの上に飛び乗る様な機敏さは持たない。

 もし万が一の事があったとしても、大きなギャラリーテーブルの周囲を歩くうち葉摘は室外に出て鍵を閉めてしまう事が出来るだろう。


 匂い消しのために葉摘が作ったポプリ入りの瓶を自分の周囲に置いたのも、それが少しでも自分の動きの障害物になればと思っての事だった。

 この部屋には希少な鉱石や高価な昆虫標本も多く、防犯上の配慮だろうが扉は厚く頑丈な造りをしていた。

 その扉の蝶番は響也がネジを外す事ができないようにネジ穴を全てをパテで塞いだ。内側から鍵を開けられないよう、ドアノブの細工も済ませてある。

 葉摘にとって今は自分が一番危険な存在である事を、響也はけっして忘れはしなかった。


 エアコンの送風音を聞きながら、響也は暗い部屋の椅子の上に時を過ごしている。

 ゾンビになってからの彼には眠りと言う心の休養は一度として訪れず、眠りに隔てられぬ時の流れは『今日』と『昨日』とが途切れる事のないひと続きになり続いている。


 響也には眠りに侵食される事のない考える時間・・・・・思いだす時間・・・・・・が豊富にあった。

 初めの頃、彼はもっぱら楽しかった思い出を心の中に何度も反復させて時を過ごしていた。

 だがしかし幸せな思い出が響也にとって危険なモノである事に気付いた今は、可能な限り過去の苦い記憶を掘り起こすようにしている。


 彼の思い出の中、母と言う人が響也に向かって笑いかけてくれた記憶を、殆ど見つける事が出来なかった。

 小さな頃の響也は、彼女に振り向いてもらいたくて彼女の感心を引きたくて必死だった。

 泣き……ぐずり、やってはいけないと思われる事をわざと何度も繰り返したのは、自分に無関心なその人を振り向かせようとしだった。

 所詮幼い子供の浅知恵だが、それでは逆に母親は家政婦やベビーシッターに彼を任せきりになり背を向けるのだとやがて響也も気がついた。


 母を振り向かせたかった響也は彼女のお気に入りの洋服に泥にまみれた手で触れてしまった事がある。

 外遊びの最中であり、響也はただ上手に出来た砂のトンネルを見て欲しい気持ち以外の他意はなかったのだが、彼女は何も言わずに冷たい目で幼い響也を一瞥し、繊手で彼の小さな丸い手を容赦なく打ち払った。

 まるで自分が嫌らしい小虫のように扱われた記憶は、今も響也の心に棘のように突き刺さっている。


「嫌な子。煩い子。そんな子は嫌いよ」


 響也の母はよくそんな言葉を彼に向って口にした。

 響也は泣くのを止め、必死に母の気に入るような大人しい子供になろうと、縋るように握り締めた手をスカートから離した……。


「お利口だし、大人しくて手のかからない良い子だわ」


 響也の幼稚園の友人の母親にそう言われた時、母は笑顔を見せてくれた記憶がある。

 笑みはけっして響也本人へと向けられたわけではないけれど、大人しくて聞きわけが良く手のかからない子供というのが、自分に求められている姿だとそれを見て響也は知った。


 エアコンの音を聞きながら途切れる事の無い時の中で、自分の胸に残る古い記憶を次々と掘り起こす。


 柔らかな間接照明が照らす小奇麗な個室に、響也きょうやと母がいた。

 記憶の断片を後々つなぎ合わせて状況から補完するならば、恐らくそれはホテルレストランの個室だったと思われる。

 母は白く綺麗な手で銀色に光るナイフとフォークを操り、生々しく赤い断面を見せる肉料理を切り分けていた。

 艶やかに彩られた唇に肉汁のしたたる肉片が消え、幾度かの咀嚼の後に白皙の美貌が艶めかしく満足気に微笑んだのを響也は覚えている。

 ……ある時の二人は老舗寿司店の二階席、白い木目の美しい個室カウンターに掛けていた。

 角のカッチリ立った……切っつけの美しい魚の切り身が乗る寿司飯を、母が笑みを浮かべながら口に入れる姿を響也は隣りから見上げていた。

 また別の時、響也と母とは料亭の座敷と思われる場所にいた。

 青い畳がさわやかな香りを放つ部屋の中、赤い漆塗りの大きな座卓の前にクルクルと乱れる事なく巻かれた髪の母が坐している。

 彼女の目の前には青磁の中型深皿と、柑橘の香るポン酢が入った紅色の江戸切子の器。

 フレンチネイルの細い指で、響也の母は網目が菊のように編まれた豆腐掬いを持ち、青磁の深皿の中から何かをすくい上げる。

 ピチピチパチ……と、殆ど透明に見える小さな魚が網の上で跳ねるように踊っていた。

 料理を運んできた和服の女性がそれを『いさざ』と呼んだのを響也は覚えている。

 母が白皙の頬をほんのり赤く染めて嬌声を上げた。

 ちりちりと踊る5㎝程の小魚達は網から江戸切子のガラス器に入れられ、薄くポン酢の色に染まった後に彼女の赤い唇の中に踊りながら吸い込まれた。

 細い顎が口中の小魚を噛みしめ、やがてほっそりと白い喉に嚥下されてゆく様を響也は見守っていた。


 これら幾つかの記憶の中の母は、家の中で生気のない人形のような表情をしている普段の彼女とはまるで別人のように、活き活きとエネルギーに満ちた姿で存在している。

 こうした時、母と響也の前には必ず父親ではない男性の姿があった。

 相手の全てがいつも同じ男だったのかどうかは覚えていないが、彼らは皆一様に響也を連れてきた母に向け、なぜ子供などを連れてきたのか……と、時に訝しげに、時に不機嫌に問うた事は覚えている。

 その問いが出るたび母は、細い肩をくねらすように竦め


「子供を連れて出れば、絶対に疑われないんですもの」


 そう言って艶やかに笑うのだ。

 響也は彼女の言葉の幾つかを今も鮮明に覚えている。


「どうせこんな小さな子、なにも分かりはしないわ」


「とても無口でおとなしい子なの。余計な事も喋らないから大丈夫よ」


 食事の後にはホテルのスウィートルームの応接室のソファの上、絵本と共に残される事に決まっている。

 響也は何度ともなく母と連れの男性が寝室の扉の中に消えて行くのを見守った。

 へだたれた扉の向こうで何が行われているのかを知らず、響也は母の言いつけを守り、黙ってそこで母が出てくるのを待っていた。

 そんな事が何度もたび重なったある時に、絵本に視線を落としていた響也の視界の端で扉が開いた事がある。

 いつもよりもやけに早く開けられた扉に目を向けると、そこにはバスローブをはおった半裸の男がからかう様な笑みを浮かべて響也を見る姿があった。

 男は響也と目が合うと、扉の中へむけ顎をしゃくった。

 寝室から母がやけに甘ったるい声でバスローブの男を呼ぶのが聞こえ、男は人の悪い笑みを残し室内へと消えていった。

 部屋の扉はそのまま薄く開けられていた……。


 笑いの様な悲鳴のような不思議な母の声が漏れ聞こえるドアの隙間から、ふらふらと誘われるように室内を覗きこんだ響也が見たのは全裸の母と男が絡み合う姿……。

 その行為が一体何だったのかを、当時の響也は理解してはいない。

 ただ、常にない母親の生命力に溢れる様子が、幼心に何故だかとても不快なモノを胸の中に残した。

 白い表情をして家の中で冷たい人形のような横顔を見せているのが響也にとっての母親であり、生々しい女の表情を浮かべて肉や魚を食み、父ではない男性と裸で絡み合う姿はまるきり知らない人間に思える。

 だけど、その姿もまごうことなく彼の『母親』……。


 その事が不快で不快でならなくて……気づけば、響也の身体はその生々しい姿を連想させる食べ物を受け付ける事が出来なくなっていた。

 赤い肉汁のしたたる肉も、新鮮な魚も……動物性の物は口にするだけでも激しく彼に吐き気を催させた。

 

 響也はこの肉や魚を受け付けない体質は、母親の愛情を得られなかった当時の孤独な子供心が造り出したものだろうと思っていた。

 秋也に引き取られた後、響也は何度も自分の心に


「もう母の幻影にとらわれる必要はない」


 と繰り返し語りかけた。

 自分の存在を否定する事しかしない母親の手を離れ、自分を肯定してくれる人間に庇護されて以降は母に愛されなかった自分の過去を冷静に受け入れる事が出来たと思った頃の事だ

 だけど……今も響也は相変わらず肉も魚も口にする事が出来ずにいる。


 いったいそれは何故なんだろうか……?


 その疑問はずっと……響也の胸に残り続けた……。






 唐突に室内に鳴り響いた大音量での耳障りな電子音に、葉摘はつみは手にしたスマートフォンを取り落とし、思わず椅子から飛び上がった。

 机の上に残されたメテオブルーのスマートフォンは、そのまま電子音を鳴り響かせ続けている。


「…………あ~っ!!」


 音の正体に気がついたらしい葉摘が大きな声を上げながらスマートフォンに手を伸ばし、慌てるあまり手元が定まらず、何秒かかりながらもどうにか音を停止させる事に成功した。


「嫌だ~……防犯ブザーだよこれ。間違って変なところいじっちゃったんだ。……っビッ…クリしたぁ……」


 葉摘は気が抜けたように再び椅子の上に腰を下ろし、驚いた表情のまま固まっている叔父へ向けて脱力した笑いを浮かべた。


「……どっかから電話が来たわけじゃ……ないんだよな?」


 少し茫然とした表情ながら、秋也が口を開く。


「違うよ。ここに電波来ないのは叔父さんだって知ってるじゃない。……でも、ワタシもちょっと一瞬そうかなって思って、ビックリしちゃったよ。嫌だなぁ。それじゃホラーじゃない。……そういう怖いDVD見たの思い出しちゃった」


 朝から振り子のように感情の揺らぎがあった後であるせいか、葉摘は普段よりも饒舌に秋也に語りかける。


「それがさ叔父さん、ママと一緒に観たけど超コワいんだから。電源が入って無くても遠くに捨てて来ても、いつの間にか手元に戻ってきてお化けから電話がかかってくるんだよ。電波の有る無しぶっちでかかってきちゃう電話なんて、ホラーだけで充分だって……!」


 まくしたてるように話す姪に、秋也は眉間に皺を寄せて首を竦めた。


「なンで電源入っていないのに電話なんて鳴るんだよ? あり得ないだろが?」


「だからホラーなんだってば。相手はお化けだよ? 絶対あり得ない状況でかかってくるからこそ怖いんじゃない。も~……秋叔父さんって変なところ頭固いんだから」


 葉摘に「頭が固い」と言われ不機嫌そうな表情をしつつも、秋也は何か考え込むようにしている。


「そういや……昔見たTV番組で、幽霊は電気的エネルギーがどうしたって言ってたような気がするなぁ……」


 葉摘の手にしたスマホに目を向け、秋也が問う。


「なぁ葉摘、リカ姉は今もスマホ持ち歩いていると思うか?」


「は? ……生きてたら……って言うか、ママ図太そうだし絶対生きてると思うけど。きっと持ち歩いているよ。ワタシみたいにバッテリーダメになってるかもしれないけどね……」


「……ああ……そうだよな」


 もともと葉摘のスマートフォンは、二年前の時点で購入してからさほど経過していない新しい物だった。

 普通に使っているだけならば、まだ電池パックがダメになるような時期ではなかったのだ。

 葉摘は篠ノ目島が本土から孤立して以来、留守録に入っているリカコの声を何度も何度も何度も再生して聞いていた。

 画像フォルダに残るリカコや響也の映像も際限なく何度も見ていた。

 繋がらない事を承知の上で、繰り返しリカコや本土に残っている知人友人へ電話を掛けようと……あまりにもそれを酷使しすぎたのだ。

 葉摘よりもリカコの方が多少は冷静な行動は出来ている筈だ。葉摘との連絡ツールを使える状態で手元に置いているに違いない。


「葉摘、もう電話スマホ壊すんじゃないぞ」


「うん、分かってる。でも……今日だけ……」


 上がったテンションを急激に低下させた葉摘は、消え入りそうな小さな声で言う。

 もうあまり葉摘の傍にいられる時間が長くは無いと響也に言われた彼女は、今この瞬間を慰めてくれる何かに縋りたいのだろう。

 秋也にもその気持ちは理解出来た。


 ……もしも、響也がいなくなってしまったら葉摘はこの島で一人きり、身近に心の支えになる者もなく生きて行かねばならない。秋也は葉摘をそんな目に遭わせるなど、絶対に出来ないと思った。

 何よりも、自分が耐えがたい……。


 椅子の上に深く座り、手に持ったメテオブルーのスマートフォンの画面に見入る葉摘のつむじを眺める秋也は、固い決意が透けて見える表情で自分自身に一つ頷いた。


「……頭を柔らかくして、やってみるか」


「ん……? なに……なんか言った???」


 呟くような声を耳にして葉摘が顔を上げた時に室内に秋也の姿はなく、先ほどまで香っていた筈の煙草の香りもいつのまにか消えていた……。


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