台風とスマートフォン

 テレビの画面が砂嵐しか映し出さなくなってから二年以上。

 テレビのみならず、葉摘の曽祖父の書斎にあった古いラジオも耳障りなノイズだけしか流さない今、天気予報は過去の記憶でしかないが、ニュース番組の天気予報コーナーで秋になる頃


『ひと雨ごとに寒くなる』


 ……とのフレーズを気象予報士が言っていたのを、葉摘はつみは覚えている。

 その言葉どおり、長かった夏が終わり屋敷の外には雨が降っている。

 雨の後にはきっとまた一段と空気が冷えてくるに違いない。

 時折まだ夏がぶり返すような暑さも訪れはしたが、晴れた日の空は高く、空気の肌触りが違って来ているのが分かる。

 何しろ天気予報が無いから確かな事は分からないが、今日の雨はただのではなく台風・・によるものなのかもしれないと、時折強く吹きつける風が古い屋敷の窓をカタカタと鳴らすのを聞きながら葉摘は思った。


 一応の用心のため朝のうちに屋敷中の雨戸は閉めて置いたが、その分節電の為に照明器具を殆ど使用していない屋内は夜間のように暗く、少し蒸し暑い。

 屋外の発電装置には充分に燃料を補給しており、暫くは響也のいる部屋の冷房を動かす動力に不安は無いけれど、町に降りる為の道路が強風に千切れた枝や倒木で塞がれた昨年の秋を思い出すと、電力を無駄に消費する気持ちは起きなくなる。

 葉摘の非力な手で道路の復旧を図るには、場合によってけっこうな日数を要する可能性だってあるのだ……。


 徐々に強くなりつつある雨が屋根や壁に打ち付ける音、強風に翻弄される木々の葉擦れと雨戸の揺れる音に取り巻かれながら、一人曽祖父の書斎の机の前に腰掛ける。

 孝造こうぞうが愛用していた両袖デスクの上には、小さなテーブルランプが置かれている。

 広い室内の唯一の光源であるテーブルランプのシェイドに殆ど顔をくっつけるようにして、葉摘は暫く前に町で拾ってきたスマートフォンの電池パックを取り外す作業を行っていた。


 電池パックをスマホ本体から取り外すのは、機械オンチの葉摘にとってもそう難しい作業ではない。

 スマートフォンのカバーを外し、電池パックを固定しているプレートのロックノブをオフにずらして外せばいいだけだ。

 なのに……今日の葉摘にはこの簡単な作業にむやみやたらと時間がかかって仕方がなかった。

 手にした電池パックの内プレートのロックノブに上手に指先がかからないのは、視界がやたらとユラユラと揺らぐせいだ。

 指先も震えてしまい、思う場所に着地しようとしない。

 ずずず……と、音を立てて洟をすすった葉摘の視界の外れに、ポウっと橙色に光る小さな光点が掠めた。

 秋也あきやくわえた煙草の先の火だ。


「この部屋は禁煙だって言ったの、秋叔父さんじゃなかった……?」


 秋也が来ていたのは気配によって感じていたからそう驚く事もなく、葉摘はつみは携帯電話に目を向けたままテーブルライトの光の輪と薄暗がりの際に立つ秋也に文句を言った。


「なんだよ、ご機嫌斜めだな。大丈夫、火事なんて起こさないから」


 秋也は肩を竦めて苦笑いを浮かべる。


「洒落にならないからホントに気をつけてよね。……ああ、そうだ。こないだ叔父さんが教えてくれた通り、村岡さんちの鶏舎の裏の林からニワトリ捕まえてきたよ。それにしてもすごいね動物って。自然に順応して半分野生化しちゃっても生きられるんだもん。ニワトリって空を飛ぶ生き物だってワタシ知らなかったから、ばっさばさ飛ぶの見てビックリしちゃったよ。でも叔父さんのおかげですっごい久しぶりに卵食べた……。卵ってあんなに美味しい物だなんて前は思ったことなかったんだけどな。あ……天気悪いから今はとりあえず裏の道具小屋に捕まえたニワトリ達を避難させておいたんだけど、あそこなら大丈夫だよね?」


 葉摘はスマートフォンから全く顔を上げず、電池パックを取り外して自分の機体に入れ替える作業を続けていた。

 秋也はやけにうわっ調子に言葉を連ねる姪の姿に違和感を覚え、背中を丸めるようにして葉摘の顔を覗きこんだ。


「おい? 葉摘……お前、もしかして台風が怖くて泣いてんのか?」


 葉摘の頬や目元には、遠目でもはっきり分かるくらいに涙の跡が残っていた。

 驚き慌てる秋也の言葉に作業の手を止めると、怒りと呆れのない混ぜになった表情を乗せて叔父を睨みつける葉摘。


「……秋叔父さんってさ……ちょっと、けっこうデリカシーないよね……」

「デリカシーなんて難しい言葉、よく知ってるな」


 内心では葉摘を心配しつつも、秋也は普段と変わらない言葉を返す。

 こんな孤島で暮らしているのだ、もしも体調が悪いのなら無理をせずに横になっているだろうし、医師である秋也に不調を相談する筈だ。

 この状況に慣れるまでは一人で涙を流す事も多かった葉摘だが、今は滅多にメソメソしたりしない。


「泣いたってどうにもなんないんだもん」


 葉摘はそう言って泣き続けるのを止めたのだ。

 そんな彼女が泣いていると言う事は、なにかよっぱど堪えきれないなにかがあったに違いなかった。

 秋也は黙って姪っ子が話し始めるのをそこで待った。


「……さっきね、響也お兄ちゃんと少し話しをしたんだ」


 上手にはまらないスマホの電池パックと格闘しながら、少女は唇を歪めて低い声でぽつりと話す。

 何かをこらえようとしてか、必要以上に力の入った頬が強張った固い線を描いている。

 スマートフォンにどうにか電池を嵌めこんだが、今度は内ブタをツメに嵌めて固定する作業に難航し、葉摘は固く唇を閉ざした。

 手元があやふやなせいか、何度も内ブタが机の上に落ちては転がり、それを慌てて捕まえる事を幾度か繰り返した後、諦めたように大きく息をつく。

 普段のままの勝気な光を宿す黒目がちな瞳から、涙の大粒がパタパタと零れ落ちた。


「お兄ちゃん、ワタシに変な事言うんだよ。『もうあまり一緒にいられる時間は長くないと思う』……なんて、そんなのあり得ないじゃん」


 涙の雨からスマートフォンを遠ざけ、葉摘はつみは両手で顔を覆い隠した。

 嗚咽と涙をこらえようと唇を何度も結んでは苦しさにしゃくり上げる様子が、秋也の目に痛々しく映る。


 響也は責任感の強い人間だ。

 秋也が屋敷を襲うゾンビの群れと対峙しに出かけた時も自分を犠牲に葉摘を守り切り、死して後もゾンビとなって葉摘を孤独の中に置き去りにしないよう、恐らくは彼にとって不本意なゾンビと言う姿でこの世界にとどまり続けている。

 その響也が『一緒にいられる時間が短い』と言いだしたのなら、本当に限界が近付いていると言う事だ。

 たぶん、それは葉摘にも分かっているのだろう。だからこその涙……。


 秋也は机につっぷしたまましゃくり上げる葉摘に掛ける言葉もないまま、黙ってその姿を見つめる事しか出来ずにいた。


 しばし後、涙を流す事で多少気持ちが落ち着いたらしい葉摘が顔を上げ、唇をへの字に曲げて鼻をかむ。


「……秋叔父さんってさ、本当の本当にデリカシー無い人だよね。普通、こう言う時は黙って部屋から出て行くとかしない? なんなの? 最悪だよ、もう……」


 腫れ上がった瞼の下の目で睨みつけられ、秋也は慌てて葉摘から目をそらした。


「……いいよ、もお」


 机の引き出しから引っ張り出したティッシュで葉摘が再び鼻をかみ、瞼と頬の涙の跡を拭う間、二人の間に沈黙が落ちた。


「ワタシね、前に……こうゆう事になる前だけど、生まれてからこれまでの間で一番ショックだと思ったのってさ……『叔父』と『姪』は結婚できないんだってコトを知った時だったんだよね……」


 その言葉を葉摘は秋也に聞かせると言うより、殆ど独り言でも言っているような調子で口にした。

 秋也が何も言わずそらしていた目を再び葉摘に向けた時、彼女は秋也の事など眼中に無い様子でスマホの電池パックを内ブタで固定する作業を続けていた。


 叔父と姪……とは、もちろん秋也ではなく、響也の事だろう。


 響也の事を手元に引き取る時、秋也は興信所を使って響也の母親の事を調べた事がある。

 もしも響也の母が響也を引き渡すのを拒んだなら、彼女の素行の粗や響也にトラウマを受け付け言葉を失わせるほどの虐待を加える人物である事実を主張し、司法にそれを判断してもらうための材料にしようと考えてのことだった。

 だが、実際は殆ど争う事なく彼女は恋人との生活で邪魔な存在になっていた自分の息子を手放したため、興信所から彼の手に届けられていた資料は無駄になった。

 結局使われなかった調査結果ではあったけれど、その中には秋也の父、卓一たくいちがまだ生きていた当時に遡って調査された彼女の素行について書かれた部分もあった。

 響也の母親はあまり貞淑な妻ではなかったようだ。


「……もしも、響也とお前の血が繋がって無かったら、お前はお前の憧れの『王子様』の嫁になれる可能性があったのにな」


 もしかしたら、響也と自分とは血が繋りなどないかもしれない。

 秋也はこれまで何度もその可能性を考えた事があった。

 それについてあえて調べるようなことはしなかったが、響也は姿も性質も秋也やリカコの父卓一とは全く似たところが無いのだ。

 もちろん響也がゾンビになってしまった今となっては意味のない事だろうけれど……。


「やっぱり今日の秋叔父さん、最悪。……響也お兄ちゃんのお嫁さんになりたいから血液鑑定して貰いたいなんて……誰が言えるの? ワタシ、そんな酷い事響也お兄ちゃんに言うくらいなら、ずっと姪っ子のまんまでいいから」


 その口調も話ぶりもあまりにも普段どおりの憎まれ口だったので、秋也はこれをそのまま聞き流しそうになり、数瞬後に心の底で愕然とした。

 いま彼は


「響也とお前の血がつながって無かったら」


とは言ったけれど、決して響也と自分や葉摘の母リカコとの姉弟関係を否定する言い方はしなかった筈だ。


 なのに葉摘の口ぶりは完全に響也と自分達との血液関係は無いと断定した上での物だった。

 リカコがそんな話を娘に聞かせるなどあり得ない。

 ……しかし彼はどんな場所にもゴシップ好きな人間がいる事を失念していた。

 本土から遠く離れたこの離島の住人に小野塚家の内部事情など知りえないと高をくくっていた彼は、そう言った噂がどんなに小さい隙間を縫って漏れ出すものなのかを理解していなかったのだ。


『葉摘……おまえ、本当に響也の事が好きなんだな……』


 声に出さず、秋也は心の中だけで呟いた。

 もしもこれを言葉に出していたなら、きっと葉摘は少し怒ったような表情で


「だから、前からずっとそう言ってるじゃん!」


 と、あっさり秋也に切り返す事だろう。


 ……葉摘は、響也に自分達とは血のつながらない他人であるかもしれない現実を突き付けるくらいなら、黙っている方を選ぶ。

 彼を傷つけたくないから。

 自分の感情など二の次にしてもいいくらいに、響也の事が本当に大好きだから……。


 その響也きょうやが葉摘の前から消えたら葉摘がどうなってしまうのだろうと考えると、秋也の心は痛んだ。

 いくら世界がめちゃくちゃになったとは言え、こんな孤島に葉摘のような少女が孤独に生きて行くなんてあまりに酷い話しだ。


 リカコはきっとどこかで無事に生きているだろうことを、秋也は殆ど確信に近い気持で信じている。

 娘の葉摘はつみを迎えに来れないのは、ゾンビと言う災厄に与えられた深刻なダメージから国が完全には回復しきっていないからに違いない。

 救援とは、救いを求める者だけでなくそれを与える側の体勢が正常に機能していなければ成り立たないのだ。


「……せめて、この島にお前が無事に生きている事を姉さんに伝える事が出来ればいいんだけどな……」


 秋也の声に籠る苦しげな色を感じ、葉摘は顔を上げて叔父の表情を伺った。

 テーブルライトの放つ光と薄闇の狭間に立つ秋也の顔はやけに白く、存在感の希薄な弱々しいものモノのように映る。


「二年間……何とか外へ出る手段が無いかと島の中をあちこち歩き回った。動く船を探して彷徨ったけれど、一隻も見つからない。助けを求めようにも近くを通る船もない。俺は……この島に縛り付けられて遠くに行けないみたいでな。お前には……悪いと思ってんだよ。でも、きっと俺がなんとかして外との連絡をとるからよ……」


 言葉には苦悩と苦渋との感情が滲んでいた。

 葉摘と秋也の会話は基本、傍目から見て口げんかのような乱暴でつっけんどんな言葉の応酬と決まっている。

 肉親同士ならではの遠慮なさからの物だと葉摘は理解していたし、いつもそんな調子だったから、やけに真摯で殊勝な秋也の物言いを訝しく思う。


「叔父さん、いつもワタシのこと助けてくれてるよ。全然謝るような事ないのに、何言ってんの? ……もしかして何かワタシに秘密で悪いことでもしてるんじゃないの?」


 涙の余韻が残る鼻声ながら、葉摘はいつもどおりの調子で唇を尖らせ秋也に毒づく。

 響也の言葉に揺らぎざわめいた葉摘の心は、いまの秋也の言葉に強い不安を感じ取り、それを気のせい・・・・であるように振舞おうとしたのかもしれない。

 秋也の顔に一瞬暗い笑みがよぎったのを、スマートフォンに視線を落した葉摘は気づかなかった。

 電池パックは小さな内ブタの中に固定され、メテオブルーの裏ぶたを嵌め込めば電池の交換作業は終了する。

 後は電源ボタン入れれば電池パックが『生きている』かどうかが分かるだろう。

 葉摘は本体横の電源ボタンに指を乗せて力を込めた。


「悪い事はしていないつもりだけどな。でも……俺は葉摘を騙しているから……」


 葉摘は秋也の言葉に顔を上げる。


「なに?ワタシを騙してるって……?」


 どういう事かを問うために言葉を連ねようと息を吸った瞬間、突然室内に耳障りな電子音が大音量で響き渡った。

 音源は、葉摘の手にしたメテオブルーのスマートフォンだった。




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