父と母と姉と弟

「よ、なんだかご機嫌だな葉摘」

「久しぶりに響也お兄ちゃんの顔見れたんだ。町でゾンビに遭ったこと言ったら、心配してくれたよ」


 ふ~ん……と呟いて秋也はタバコを一つ深々と吸い、脚元に吸殻を落とすとそれを靴裏で踏みつぶした。


「またポイポイ捨てて……感じ悪いんだから。タバコ、後でちゃんと拾ってよね?」

「はいはい。……葉摘には相変わらず、響也が王子様なんだな」


 小さい頃から島に来るたび響也にくっついて歩く葉摘は、今までにもさんざん秋也にからかわれ続けて来ている。

 今更笑い含みにそんな事を言われたくらいで、彼女も動じたりしない。


「少なくとも秋叔父さんじゃ王子ってキャラじゃないもんねー」


 容赦なく返される毒舌も葉摘と秋也の間ではおなじみのものだった。


「……違いない」


 ただでさえもじゃもじゃの髪の毛をかき回し、苦笑の秋也は葉摘が腰を下ろした木陰を形成する椎の木の幹に凭れかかり、畑の方へ目をやった。


「暑さがひと段落したせいか、良い具合に育ってるな。でもサヤインゲンは続けて作ると土が弱るから気をつけろよ? 確か書斎に野菜栽培関係の本があった筈だけど……」

「うん、読んでる。なんだかそういう本がいっぱいあって凄いよ。……ひいお爺ちゃんってワタシ、会った事ないけど変な人だよね。もともとお医者さんだったんでしょ? だけどこの畑もそうだけど、本棚の中も農業に関する本だらけなんだから」


 葉摘の曽祖父の小野塚孝造は後半生を趣味と読書とに費やした人間だ。

 恵まれた経済力に任せ、屋敷の書斎や書庫には膨大な数の蔵書が今も残っている。

 農作業が出来ない荒天の日など、葉摘も書庫から簡単そうな本を持ち出して来ては読んでいた。

 リカコや秋也が子供時分から出入りしていたせいか、葉摘にも楽しいと思える軽い読み物もある程度あるからだ。


「爺ちゃんの実家が農家だったからなぁ……」

「それママから聞いた事あるけどさ、医学書っぽい本よりも畑とか土とか野菜とか肥料とか……そういう本の方が多くないあそこ? 本当はお医者さんよりも農家の人になりたかったのかな?」


 素朴な疑問をぶつける葉摘に、秋也は生前の自分の祖父の事を思い出しながら首を傾げた。


「どうなんだろ? なんちゅーか……石集めたり虫集めたり土いじったり模型作ったり、趣味を全力で楽しんでるような年寄りでさ、その為に頑張って金持ちになりたかったんじゃないかって気もするんだよな」

「あはははっ。いいね、そーゆうの。ワタシもヒイお爺ちゃんに会ってみたかったな。……さぁて……もう頑張りしよっかな」


 屈託のない笑い。

 葉摘は休憩を終えて畑仕事の続きにかかろうとその場を立ち上がり、未だ夏の暑さの残る明るい日向に戻って行く。

 途中木陰の秋也の方へ向けて手を振りながら


「秋叔父さんも響也お兄ちゃんに声かけてみるといいよ。今日は会えるかもよ」


 秋也は明るい日差しの中の葉摘の後ろ姿を見守りつつ、物思いにふけった。


 孝造は秋也やリカコにとっては確か良い祖父だった。こんな田舎に住んでいながら見識が広く、洒脱で子供の心を得る術も身に着けていた。

 だけど、父親としてはどうだったのかと疑問に思う。

 まともな父親のもとで育ったのなら、何故自分達の父親である卓一はあんなに冷たい人間だったのか……。


 最近葉摘の事を見ていると、秋也は自分とリカコの母親であった智枝美ちえみの事を思い出す。彼女の横顔にはなんとなく智枝美の面影があった。


 母は、性質的にはリカコに似た葉摘と違い、大人しやかで優しい……と言えば聞こえがいいが、心身ともにただただよわよわしい女性だった。

 秋也が小学校に上がるか上がらないかの頃、もともと身体の弱かった智枝美は突然倒れ、そのまま植物状態となって二度と目覚める事なく、亡くなるまでの15年間を卓一たくいち経営の病院の一室で過ごした。

 話しかけても手を握ってもどんな事をしても、何の反応も示さない智枝美の病室へリカコも秋也も折に触れ訪れては無駄だと知りつつ言葉を掛け、あたたかな息吹を宿す柔らかな頬に触れもした。

 だけど一度たりとも父親が病室を見舞う姿を見た事がないし、訪れたとの話を本人や周囲から聞く事は無かった。

 病院に植物状態の妻を押し込んですぐの頃から卓一の周囲には次々と女性の影が見え隠れし始め、思春期の秋也にはそれが母親への冒涜に思えてならなかった……。


 秋也より三つ年上のリカコに言わせれば、父の卓一は智枝美がそんな状態になる以前から仕事にかこつけて家に帰らず、いつも女性問題で母親を泣かせる人間だったらしい。


 自分の将来を『医師』と選択しつつ、病院経営の父親に対する嫌悪感から精神的に荒れていた秋也は、たまに帰宅する父親と衝突しては激しい口論を繰り返した。

 ある時、秋也はあまりにも女出入りの激しい父のダラしなさにたまりかね、自分の行動を振り返って智枝美に対して罪悪感を抱かないのかとなじりつつ問い詰めた事があった。

 そんな息子に卓一は心底心外そうな表情で、配偶者として役に立たなくなった女に対して自分は過分なほどの温情を掛けているではないかと答えた……。

 本来ならば智枝美は自分に離婚申請をされてもおかしくは無いと彼は言うのだ。

 実際、智枝美に対する療養看護の保証が出来きる状態で婚姻関係の実態を有しないまま数年が経過している現状を鑑みれば、司法が離婚を認め無い筈はなく、類似事例でも離婚を認める判例はあるのだ……と、卓一は理路整然と落ち着いた口調で秋也に語った……。

 怒りを覚えるよりもなによりも、こんなにまでも気持ちが通じない人間がこの世に存在する事実に、秋也は自分と血の繋がった父親の顔を茫然と見つめるしか出来なかった。

 振り返ればこの日を最後に秋也の『反抗期』は終了したのだ。


 子供の、親に対する反抗も反発も全ては相手と自分とが分かりあえる可能性を信じればこそ意味を成す。

 だけど秋也は自分と父は別の星の別種の生き物同士のように、理解し合う事は不可能だと思い知った。これ以上の反発も反抗も何の意味も成さないではないか……。


 小野塚卓一と言う人間は悪人と言うわけではなかったと思う。

 外聞を気にしての事だろうが、結局、智枝美が亡くなるまで再婚する事は無かったし、『役に立たない配偶者』のもとに見舞いに行く事は無かったけれど、それでも自分の病院で最後まで行き届いた看護と介護を受けさせたのだから。


 そう言う人間・・・・・・だと知ってからは、秋也の心は随分と楽になった。

 智枝美の死後、49日も終わらぬうちに再婚相手として紹介された響也の母との対面時にも、秋也は冷めた気持ち以外を抱く事はなかった。

 当時既に50歳半ばを過ぎた卓一の新しい妻は、リカコや秋也とさほど年齢の変わらぬ、若くてとても美しい女性であった。

 その美貌や甘ったるい媚態に骨抜きにされている父親の姿は、秋也の目にひどく滑稽に映った。

 あからさまに財産狙いと分かるこの結婚を、世間や周囲の人間は口にこそ出さなくても失笑したものだが、秋也もリカコも父親への憐れみや痛痒を一切感じはしなかった……。


 この事があって後、秋也はしばしば血のつながりの意味を考えるようになった。

 姉のリカコとはべったりではないが、仲の良い姉弟ではある。

 男勝りできっぱりした気質のリカコとは口論になる事も多かったが、父は年中不在、母は病院……そんな状況にあっては二人で助け合う事も必然的に多くなる。

 誰も来ない父兄参観や学校行事で、来場した親へ照れと甘えからそっけなく反抗的な態度を取る同級生達に微かな羨望といら立ちを覚えた記憶も、家政婦が作った食事を二人で食べる日々のその虚しさも、正しく知理解出来る同志は姉のリカコだけだったのだ。


 親との絆の希薄な精神的に寒々しい環境で育った秋也は、自分がもし家族を持ったならば絶対に卓一のようにはなるまいと心に誓っていた。それはリカコも同様だった筈だ。

 ……しかし、結局リカコは葉摘の父親と離婚をしている。詳しい事情は弟と言えど秋也には聞き出す事は出来なかったが、覚悟を決めて結婚に臨んだであろう姉でも躓く現実に、秋也は好きになった女性との間に『結婚』と言う形の縁を結ぶのが怖いと感じるようになっていた。

 学生時代からこの島に来るまでの間にも付き合った女性はいた。中でも島に来る少し前まで付き合っていた女性とは結婚を前提の付き合いを続けていたのだが……。

 自分はけして相手を裏切らない自信があっても、相手もそうだとは必ずしも限らないのだと言う現実を、彼女は秋也に苦々しく噛みしめさせてくれた。

 自分たち姉弟は『結婚』というものにあまり縁がないのかもしれないな……と、秋也は諦めと共に思った。

 リカコは


「一度の失敗くらいで結婚諦めるなんて、なんだか癪じゃない? 自分の子供は可愛いよ?」


 と言うが、なんだかもうどうでもよい気持になってしまったのだ。


 一人の方が身軽だ。一人じゃなければ響也を引き取って篠ノ目島に引っ込む事も出来なかったに違いない。

 自分の子供は持てないかもしれないけれど、リカコの娘、葉摘もいる。

 姪ならば、父親ほどの責任を負わず、結婚と言う煩わしく難しい物に縛られる事なく、気まぐれに可愛がりたい時に可愛がれるじゃないかと思っていた。


 毎年、夏場だけ訪れる葉摘を自分が父親にして貰いたかった様に可愛がり、遊ぶ。

 葉摘との繋がりはある種、秋也が求めても得られなかった物を償うための代償行為なのだと、ただそう言う物なのだと秋也は認識していたのだが……。


 自己認識していた以上に、自分は葉摘や母親に疎まれた可哀想な弟、響也の事を大事に思っていたのだと、あの2年前の夏の日に知った。

 自分の命を犠牲にしてでも守りたい存在を身近に持っていた事を。


 今も葉摘が何かに困っている時、助けて欲しいと願っている時、秋也には何故かそれが分かる。『こんな状況』になってしまったからこそ、血の絆がそれを秋也に知らせてくれているのかもしれない。


 秋也は屋敷に視線を動かし、響也がいる・・北端の部屋に目を向ける。

 二階のその部屋の窓は外側からも内側からも出入りが出来ないよう、響也自身が幾重にも板を打ち付け塞いである。

 葉摘に言われるまでもなく秋也は弟のもとへ赴き声を掛けてみていたのだが、響也は目を閉ざしたまま動かず、秋也の声は聞こえていないようだった。


 動かず、声も発っさずに椅子の上で目を閉じる響也はただの美しい遺体にしか見えない。

 秋也は葉摘からの伝聞以外で響也が動き、話す姿を目にした事は一度も無かった。

 ゾンビとなった人間は温かい肉を喰らう欲望のみに突き動かされ、理性やそれまでの人格を失ってしまう筈だった。

  だから彼は響也が元の性格や人格を保ったままの状態でゾンビ化した事をはじめは信じることが出来なかった。

 ……いや、未だに完全に信じられない気持が残っている。


 ただ、現状を考えれば信じざるを得ないのだ。


 秋也がこの屋敷に戻ってきた時、あれほど島内に溢れていたゾンビは殆どいなくなっていた。

 葉摘の言葉を信じるならば、ゾンビ化した響也が全てその手で処分したのだという。


 秋也自身もかなりの数のゾンビを壊したが、彼が疲労し……意識を失くしていた間にほぼすべてのゾンビを無力化するなど、生身の人間には到底無理な話しだった。

 もちろん葉摘がその離れ業を行うなど考えるまでもなく不可能だ。


 ゾンビは疲れない。

 眠らない。

 その身が朽ちるまで動きまわる事が出来る。

 生身の人間であれば自分の身体が壊れないようリミッターが働き発揮する力をセーブするものだろうが、そう言った自分の身体を守る安全装置が解除されてしまうのか、ゾンビになった人間はまさしく人間離れした力をふるう事も出来た。

 もしも本当に響也がゾンビ化した後も葉摘を守ろうとしたのならば、今ある篠ノ目島の状況にも納得が行くのだ。


『ゾンビと少女』


 B級ホラーのサブタイトルとしても、三流以下だな……。


 秋也は思わず苦笑する。

 

 確かに響也は秋也が彼を引き取った時からゾンビ化するまで、彼の知る限りにおいて「肉」も「魚」も全く口にしない少年だった。

 それどころかこの島に渡った当初、響也は言葉を発する事も出来ない酷い状態であった。

 母親に受けた虐待が原因だろうと秋也の友人である精神科医は診断し、原因である母親から遠ざけ、自然の多い静かな環境に連れて行く事は響也の為になると、当時響也を担当したケースワーカへの説得に協力してくれた。


 彼の言った通り、響也の声と言葉は島に渡り時間の経過とともに少しずつ戻ってきた。

 特に葉摘がこの島に来るようになってからの響也の回復は、目ざましいものだった。


 けれど、今に至るまで響也は「肉」も「魚」も口にしようとはしない。


 育ち盛りの少年が、宗教上の忌避やアレルギーなどの事情からでもなくそんな状態でいるのは異常であると秋也も思う。

 一体どんなトラウマを受ければそういうことになるのか……と、秋也は切ない気持になったものだが、まさかその彼のそんな性質……体質が、ここに来てこのような形で葉摘を助ける事になるとは……。


「ホラーと言うよりも、ファンタジーか……」


 秋也は声に出して呟き、皮肉交じりの笑みに唇を歪めつつその目に優しさとほろ苦い悲しみを込めて響也の眠る部屋を見上げた。

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