ゴライアストリバネアゲハ

 締め切った部屋の中、最大出力で冷房を効かせているせいか、さっきまで真夏の暑熱にあぶられていた葉摘はつみの身体はすっかり冷え切っている。

 白い蛍光灯の灯りの下で、もう永遠に羽ばたく事のない蝶と、冷たい鉱石に囲まれた遺骸・・にしか見えない響也きょうやを見ていると、葉摘は嘘寒い気持ちになった。

 もしかしたら自分の頭がおかしくなっているんじゃないかと、不安になるのだ。


 目の前に座っているのは『響也の遺骸』に過ぎず、これまで話しをしたのも葉摘を助けてくれたのも、全ては孤独に耐えかねた自分の作りだした嘘の記憶なんじゃないだろうか?


「……それじゃ、ワタシそろそろ行くね。これ、診療所からグリセリンを持って来たよ。前に乾燥が酷いって言ってたでしょ? 良かったら使ってね。いらなかったらそのままにしておいてくれれば、次に来たとき片づけるから」


 ギャラリーテーブルの上にグリセリンの入ったポリボトルを置いて葉摘が部屋を立ち去ろうとした時、喉元まできっちりとボタンを閉めた響也のシャツの胸が、微かに隆起した。

 もしも葉摘が響也のすぐ傍にいたのなら、彼が言葉を発するべく胸郭内に空気を取り入れた音を耳にする事が出来たかもしれない。


「葉摘……ゾンビはちゃんと壊して来た?」


 響也の唇から発せられたのは、しゃがれた……老人のような声だった。

 彼が『死んで』2年が経過している。経年と共に声帯もかなり劣化が進んでいるのだろう。

 舌も唇もその動きはぎこちなく、また閉じられたままの瞼は開けられる事は無かったが、葉摘は久しぶりに聞く響也の言葉にホッとすると同時に、胸を躍らせた。


「うん。もう動かないようにしたから、大丈夫。完全に骨になったら今度埋めておいてあげようと思うんだ」

「そう……」


 ガサガサと掠れた声、固い表情ながら響也が安心した様子が葉摘には感じられる。

 ゾンビになっても葉摘の事を気にしてくれる、いつもの響也であることが嬉しかった。

 その後、葉摘は響也と二言三言会話をして部屋を出た。

 室外は蒸し暑かったが、限度を超えた冷房に冷え切った部屋よりも人間のいるべき場所のように感じ、強張っていた身体から余計な力が抜ける。

 薔薇のポプリでは消しきれないホルマリンの香りが、まだ鼻の奥に染みついているような気がした。

 だけど久しぶりに響也の姿を目にし、彼の言葉を聞けて葉摘の心に元気の力が湧いたのも事実だ。



 ザクザクと自家菜園に生えた雑草をむしり、しおれかけの葉には水を与える。

 水は井戸から電動ポンプでくみ上げたものを上水として使っているため、発電機さえ無事ならいつでも使えた。

 トウモロコシやカボチャは加工次第で保存が効くから、作物があまり実らない冬場には貴重な食料になる。町に降りればいまだにレトルトやインスタントの食糧はたっぷりと手に入れられるし、缶詰なども賞味期限は多少切れているけれど、十分入手可能だ。

 だけど、いつまでもそういう物に頼っていてはいけないと秋也も言っていたし、葉摘もそう思う。

 日本中、世界中で全ての人間がゾンビ化してしまったとは流石に思わないが、いつここに助けが来るかは全く分からない状態なのだから、先の事を考えて出来ることを出来るだけすると言うのは間違いじゃないだろう。


 葉摘はむかし、まともに花の世話の出来ない子供だった。

 夏休みの課題に出た観察日記用の朝顔は、一学期終了の日にふざけて振り回しながら帰宅したせいで根元からポッキリと折れたし、ヒマワリは肥料を与えすぎて葉が変色。そのまま枯れてしまった。

 そんな自分にもちゃんとした野菜が作れると言うことを、葉摘はこの島で知った。

 八百屋さんやスーパーで売っている物のように綺麗な姿かたちではないけれど、新鮮だし、味も香りも濃くて美味しい。


 農作業にたっぷりと汗を流した葉摘は休憩のため、暗い木陰に座り水筒に作ったポカリスウェットで水分の補給をした。

 サヤインゲンが緑のつるを伸ばし支柱にしっかり絡まっている。

 青々とした棘だらけのキュウリの黄色い花がたくさん咲いていたし、トマトは赤い実と黄色い実と、まだ熟れぬ青白い実で重そうにその茎をたわませている。

 それらの作物の上を、黄色い蝶がひらひら軽やかに……舞うように飛んでいた。


 むかし、まだゾンビなんて訳のわからぬ物に世界が壊される前、曽祖父の集めた蝶の標本や鉱石標本の前で響也と過ごした楽しい時を、思い出していた。

 子供らしくたわいのない葉摘の話しに、響也はいつも付き合ってくれた。

 学校の事。

 友達の事。

 塾での事。

 どうでもよさそうな悩みともつかない悩みも聞いてくれたし、嬉しかった事や楽しかった思い出話しを本当に楽しそうに聞いてくれる。

 母親であるリカコでさえも時に聞き流すような愚にもつかぬ子供の日常を、何故そんなに面白そうに聞いてくれるのか不思議に思った少女に、響也は笑顔とも弱り顔ともつかぬ表情を浮かべ


「僕は……人間がすごく苦手なんだけど、葉摘を通して見るとなんだか人間もそんなに悪く無いような気がするんだ」


 と言った。


「ワタシだって皆が大好きって訳じゃないよ? 信じらんないくらい意地悪な子だっているんだから!」


 自分の単純さを馬鹿にされたような気がして憤慨すると、響也は


「そうだよね」


 と、口の中で小さく呟きながら葉摘の瞳の中を真っすぐに覗きこんだ。

 響也の表情は口元に微かな笑みを浮かべているにも関わらず、どこか哀しみや淋しさ、暗い闇の色を感じさせる。


「じゃあ葉摘は強いんだよ。嫌な子達の嫌な空気に染まらないのは、強さじゃないのかな……」


 その当時の葉摘は響也が子供時代に受けた虐待を知らず、ただ長い睫毛に縁取られた薄茶色の瞳が自分に真っすぐ向いている事にドキドキとしてしまう。

 頬を染め、照れ隠しに唇を尖らせる少女に響也が壁に掛けられた色鮮やかな蝶の標本を指し示す。


「葉摘はこの蝶々みたいだね」


 響也が指差したのはゴライアス・トリバネアゲハと表示された、とても大きな蝶の入った標本箱だった。

 黒地に明るく鮮やかな黄緑色とビタミンオレンジの鮮やかな色。力強く美しいその蝶の姿に、葉摘は驚いてしまう。


「この種類の蝶は、空を飛ぶ力が強くてね、いつも太陽の光に向かって飛んでいるんだって。……ほら、それにこの綺麗で明るい羽の色も、元気な葉摘にはぴったりだろ?」

「え、ええ~っ!? ちょっとゴージャスすぎるよコレ。 ワタシは……蝶々に例えたらその辺を飛んでる黄色いちっさい普通の蝶がせいぜいだよ」


 驚きうろたえつつ壁に飾られた幾つものドイツ箱をきょろきょろと探すも、展示されている中にはどうやらその蝶はなさそうだ。


「……モンキチョウ?」


 クルクルとせわしなく表情を変える葉摘を面白そうに見ながら、響也は笑みを浮かべた。


「そう、それそれ! モンキチョウ」


 面映ゆく、響也の方をまともに見れずに葉摘は壁を彩るたくさんの蝶達に目を向けて小刻みに頷き、そのまま壁の一部を圧倒的な存在感を持って青く染める蝶の一群に視線を注ぎながら、心の中に呟いた。


『響也お兄ちゃんは蝶に例えるなら、きっとモルフォ蝶だね。だって凄く綺麗だもん……』


 それを言葉に出さなかったのは、響也が生母に良く似ているらしい自分の容姿を褒められるのをあまり好かないと、知っているからだった。


「……蝶々ってヒラヒラふわふわ空飛べて楽しそうだよね。花の蜜っておいしいのかな? ワタシ、次に生まれ変わったら蝶々になるのも悪くないかも」

「じゃあ、うっかり蜘蛛の巣に掛らないように気をつけなきゃ。台風で吹き飛ばされるかもしれないし……なんだか危なっかしいね?」


 少女らしい単純で考えのない夢を口にする葉摘に、響也が面白そうにちゃちゃを入れる。


「人間だって交通事故とかいっぱい危ない事あるじゃない。大丈夫、よっぽど運が悪くない限りなんとかなるから!」


 スパンとこともなげに切り返す言葉。


「……やっぱり葉摘は凄いね。前向きだ」


 なんだかちょっと馬鹿にされているような気がしないでもなかったが、響也が本当に楽しそうに嬉しそうに笑ってくれたので、葉摘も笑顔になった。



 飛ぶ蝶の姿を目で追いながらぼんやりと昔の事を思い出していた。そんな葉摘の鼻を土と緑の匂いに混ざり、どこからかタバコの香りがかすめた。


「……秋叔父さん」


 気がつくと、自分の腰かけた木陰の薄暗がりの後方に、タバコを口にくわえた秋也の姿があった。


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