襲撃の記憶


 ゾンビに噛まれた人間は絶対に助からない。

 一度生命としての死を迎え、蘇って動きだした時点で彼らの心臓は動いていないのだと医師である叔父の秋也は言った。

 生命として活動していないにも関わらず彼らは動き、人間に襲いかかってはその温かな肉を貪り喰らおうとする。

 『温かい肉』への渇望に理性が支配され、ゾンビ化した人々の殆どは生前持っていた記憶や人間性を失った恐ろしい化け物と化した。

 ゾンビは顔貌が以前知っていた誰かと同じだったとしても、もはや全く別のモノに過ぎないのだ。


 この現象の原因を調査しようにも設備も無く、外の世界から何の情報も入って来ない今となってはただの仮説にすぎないけれど、秋也はこのゾンビ化現象を


「ある種の寄生虫が昆虫に対して行っている操作に近いのでは……」


と、葉摘に語った事があった。


 ハリガネムシという水生生物がいる。

 この生物は水中で産卵をし孵化したのち、蚊の幼虫であるボウフラやトンボの幼虫ヤゴなど幼虫期に水の中で過ごす昆虫に寄生する。その後、蚊やトンボへと育ったそれらの虫と共に水中を出るのだが、これら宿主を捕食したカマキリなどの大型昆虫の体内でさらに大きく育ちハリガネムシは成虫になる。


 秋也あきやは子供時代にハリガネムシに寄生されたカマキリを捕まえた事があった。

 カマキリの尻から顔を覗かせる針金のような奇妙な生物の姿は、強烈な印象を彼の心に刻んだ。

 当時はその生物の正体を知らずにいたが、学生になって出来た昆虫に詳しい友人が、この虫について彼に教えてくれたそうだ。


 ハリガネムシは成虫になった後、水の中で交尾・産卵等の生殖活動を行う為に宿主であるカマキリを何らかの方法で操るのだと、その友人は秋也に語った。

 カマキリはハリガネムシに操られ水辺に引き寄せられ、時に自ら水の中へ飛び込んで死を迎える。

 昆虫を操り、水辺に引きこんでハリガネムシは水中へと帰ってゆくと言うのだ……。


 秋也は詳しくこの虫について知っているわけではない。

 だが、ゾンビ化についてハリガネムシに見られるような、宿主を操る寄生虫に近い何らかの現象が人間の体の中で起きているのではないか……との仮説を葉摘に語っている。


 ハリガネムシのように目視できる形の原因は秋也の調べでは発見出来ていない。だけど、もっと小さな生物…例えばウィルスや細菌等のレベルの『何か』が人間を死に至らしめ、生命とともに意志を奪った空白状態の肉体を操っているのではないかと言うのだ。

 しかし秋也の仮説では説明できない点も多い。

 ゾンビと化した人間達の肉体は殆ど死体そのものであり、食んだ肉を消化吸収する消化器官も機能していない。

 なのにゾンビはどこからエネルギーを得て活動をしているのか?

 そもそも生命活動を終えた生物の肉体を操るなどと言うことが可能なのか?

 ゾンビに視覚も聴覚も嗅覚もある事が分かってからは、複雑で繊細な人間の神経細胞やそれらの情報を『音』や『香り』『色、光』として脳内に伝達して理解する働きが、ウイルスや細菌に果たしえるのかとの疑問も抱えることになった。

 しかもごく稀な例ではあるが、響也のようにゾンビ化した後も生前の記憶を持つ事があるというのはどういうわけなのか……。


 秋也は医師らしく事の原因に頭を抱えていたけれど、葉摘はあまり深くその事について考えなかった。

 彼女にとって今の状態がどんな原因で起きているモノなのかを理解する事はさして重要な事柄ではないからだ。

 原因が分かったからと言って、元の世界は帰ってこない。


 泣いても喚いても世界は元へは戻らないし、大好きな……本当に大好きな響也お兄ちゃんは人間には戻らない。

 ……本土からの船がたくさんのゾンビを乗せてきたと言うことは、島の外にもアレは大量に発生していたと言う事だろう。

 篠ノ目島はあっという間にゾンビ化した人間だらけになった。

 こんな離島にすらゾンビはやってきたのならば、外の世界にも同様の事態が起きているに違いないのだ。


 あの……恐ろしい日から2年が経った今も、島の外から誰かが助けに来てくれた事は一度も無く、騒動のさなか使える船は全て出払い……壊され、小さな漁港にまともに動く船は一艘も残されていなかった。


 響也や秋也はこのゾンビ化現象の発端をバイオテロか、何処かの研究機関で秘密裏に研究されていた細菌兵器が外部へと漏れだした事故によるバイオハザードではないかと話していた。

 医学や科学の信奉者である秋也ではあったが、地球環境を壊し続ける人間に対して神が下した天罰だろうか……などと気弱に呟いたこともある。


 何が事実なのか、葉摘も秋也も響也も知らない。

 本当に何もわかない。

 葉摘の母、リカコの安否も島の外の状況も……。


 考えてみれば、外からの連絡も接触も無いと言うのは外の世界もまともに機能していないということなんだろう。

 葉摘に分かっていることと言えば、ただ外部への連絡方法も無く脱出の術もないこの島で、今はとにかく生きて行くしかないとの現実だけだ。



 響く怒号、悲鳴、苦悶のうめき声……。

 二年前の夏のある日、篠ノ目島はこの世に現出した地獄絵図さながらだった。

 町や集落には今も黒く焼け落ちた家々が片づける者も無くそのまま残されているし、所々には自動車が衝突したまま生い茂る緑の中に沈みかかってもいる。

 港口には沈没した船や自家用車が青く澄んだ水底に覗く。

 今も島にはゾンビが伝播して数日間に起きた悲劇の爪後が散見出来た。


 葉摘にはあの前後の記憶が殆ど残っていなかった。

 あまりに恐ろしく酷い出来事に、心が自己防衛の為に記憶を封じているんだろうと秋也は言った。

 全ての記憶がないわけではない。所々思い出す部分もあるのだけれど、とびとびの場面をつなぎ合わせても今と繋がるモノにはならないような気が葉摘にはするのだ……。


 あやふやに思い出せる中では、この小野塚の家は二度ゾンビ達の襲撃を受けている。

 たぶん一度目は島にゾンビが上陸してさほど日の経たぬうちだった筈だ。

 町や集落を襲いつくし、温かな血肉を持った生きた人間を喰らいつくしたゾンビ達が、ゆらゆらり……生者には無い不自然に緩やかな動きで町から屋敷へと続く一本道上ってくるのを最初に見つけたのは、響也だった。


「響也、お前は葉摘と一緒にこの小屋の中に隠れているんだ。俺が声を掛けるまで絶対でて来るんじゃないぞ」


 屋敷裏の自家菜園の脇にある農作業道具小屋に葉摘を押し込み、弟の響也の腕を掴んで秋也は言った。

 愛車の四駆を使って出来る限りゾンビを轢き潰し、町へ誘導して引き戻すのだと彼は言う。

 秋也の自慢の四輪駆動はグリルに頑丈なカンガルーバーが装備されていた。

 大型の野生動物など生息しないこの島でこんな道楽を……と身内に笑われたカーアクセサリーが、まさかこんな形で活用される日が来るとは、購入した当時には想像だにしなかった。

 数日間、阿鼻叫喚の町の惨状を見てゾンビの考える能力の低さを知った秋也は、一度屋敷から離してしまえば彼らは屋敷まで何をしに来たのか……どころか、屋敷に向かった記憶すら残さないだろうと見ている。

 その間に小野塚邸に至る一本道を何らかの方法で封鎖してしまえれば、次の方策を立てるまでの時間を稼ぐ事が出来るだろうと、この小屋へ二人を導きながら秋也が響也と葉摘に説明した。


「秋兄、僕も……っ!」


 道具小屋からチェーンソーや手斧を出して四駆のハッチバッグに詰め込む秋也に響也が言う。

 響也の秀麗な顔は酷く青ざめていたが、色素の薄い薄茶の目には強い光が宿っている。


「ダメだ。お前が来たら、誰が葉摘を守るんだ!?」


手入れを殆どしないボサボサの頭を一振りして弟を見た秋也のおもては、反駁を許さない強い決意に満ちていた。


「いいか、俺が声を掛けるまでは迂闊に扉を開けるんじゃないぞ。もしも俺が戻らない時は……充分周り気をつけて、明るくなってから出て来い。万一ゾンビがいたとしても慌てるな。あいつらの動きは遅い。だけど人間と違って疲れる事を知らないから、闇雲に逃げ回ってもこっちが体力切れになるだけだ。……知った顔があったとしても、そいつがゾンビになっていたなら容赦なく攻撃するんだ。……出来るな、響也? もう一度言うぞ。例え、『どんなに親しい間柄』だったヤツでも……倒せ。約束するんだ」


 秋也の言葉に込められた言外の意味を読み取り、響也は慄く。

 だが、彼の服の裾を強く握り縋る葉摘に内心の動揺を悟られまいと強く唇を噛んだ。


「響也……葉摘の事、頼んだぞ」


 秋也は日に焼けた手で年の離れた弟の肩を一つ叩き、響也の後ろで言葉を発することも出来ずに震えながら涙を流す葉摘に、いつもと同じ…唇の片側を歪めるような笑みを見せた。


「葉摘、大丈夫。絶対に何があっても俺と響也がお前の事は守るから。……きっとリカコ姉ちゃんにも無事に会わせる。だから、お前も頑張れ」


 そうしっかりとした言葉で言い残し、背中を向けた秋也を葉摘は覚えている。


 その後の彼女のn記憶はとても曖昧なものだ。


 夏の夜、狭い小屋の中はとても暑かった。

 外界ではまるで何事も起きてはいないように虫の音が響き、野鳥の鳴き声も聞こえた。

 混乱と恐怖のただなかにありながらも、葉摘は眠りに落ちていたらしい。気がつけば日は昇り、いつの間にか一端小屋の外に出ていたと思しき響也がどす黒い返り血にジーンズの裾を染め、山刀を手に青ざめた顔で周囲の安全を告げた。


「周りにはもうゾンビはいないよ。秋兄さんがあいつらを上手い具合に下の町へ連れて行ってくれたみたいだ……」


 恐らく秋也の誘導を外れた何体かのゾンビを響也は処分していたのだろう。葉摘が『壊した』ような朽ちかけのゾンビではない。

 未だに人間らしい面影を残すモノを無力化させるその場面を想像すると、葉摘は今でもあまりのおぞましさに身の震えを禁じえない。


 だけど、響也はその恐ろしい事をすべて自分の手で済ませ、葉摘を守った。

 屋敷の周囲はいつもと変わらず、木々の葉擦れや虫の音や野鳥の声……バロック音楽の通奏低音のように島の生活の根底を流れる海のざわめきが満たし、今までの事は悪い夢か性質の悪い冗談のようにさえ思えた。

 冗談や夢ならばどんなに良かっただろう。

 しかし秋也は未だ帰らず、ゾンビの上陸以来空気に混ざる何かが燃える焦げくさい香りと腐臭とが、今も夏の熱い空気に混ざって鼻腔を刺激する。

 ……遠くでチェーンソーが木を削る音が響いていた。

 たぶん秋也だ。彼がこの屋敷へと続く道を封鎖する為に木を倒しているのかもしれない。……それとも誰かがまだ生きて動いているんだろうか?

 不安に満ちた瞳を向ける葉摘の細い肩に、血の気の薄い青ざめた顔に優しく笑みを浮かべた響也が温かい手を置いた。


「大丈夫」


 そう一言だけ言った彼の普段に無い程の力強い声は、葉摘の耳にいつまでも残っている。

 


「無理に思い出す事なんてない。そのまんま忘れちまえ」


 タバコをふかしながら片唇を曲げるように笑って言う叔父に、葉摘は口に出しかけた疑問を胸にしまい唇を閉ざした。

 暫くの間、秋也は帰ってこなかったと思う。

 道路は封鎖されていたが、いつまたゾンビからの襲撃を受けるとも限らない不安な日々を葉摘と響也は過ごした筈だった。

 秋也が屋敷を出てから一体何日経ったのか、その記憶がない。


 やがて再び小野塚の屋敷が襲われ……葉摘は前と同じ裏庭の小屋の中に避難するように言われた。

怖くて怖くて仕方がなかったけれど、あの時の秋也と同じ決意に満ちた響也の目を見て葉摘は一瞬声を失った。


「葉摘、必ず迎えにくるからここから出ちゃダメだよ。もしも僕が戻らなかったら、どんな方法をとってでも生きるんだ」

「いや……響也お兄ちゃん、ワタシを一人にしないでよ。怖いよ」


喉元まで出かかった言葉は響也の強い目の色の前で音を失い、唇から先に出てくる事が出来ずに消えた。


「大丈夫、僕は絶対に戻ってくるよ」


 ……と、葉摘の両肩に手のひらの温もりを残して響也は出て行ったけれど、彼が生きて葉摘の前に帰ってくることは───無かった。

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