標本室の生きている死体
サルスベリの上をヒラヒラと飛ぶキアゲハを目で追っていた彼女は、茫々と伸びた雑草の中に何か不審なモノを見えた気がしていたのだ。
日に焼けた額の下の眉を微かにしかめ、黒目がちな瞳を雑草に埋まりかけた街路樹脇の消火栓へと向ける。
そこに
もし動けるゾンビが残っていたところでゾンビ化してから2年も経過している。
ゾンビに少しでも齧られたら、その人間は確実にゾンビ化してしまうのだから、二人がうるさく言うのも当然だろう。
少女は助手席に置いた護身用のバールを掴むと素早く運転席から飛び降り、ユラユラ揺れて見える人型のモノの元へと歩いて行った。
……動いていないといいな。
動いていても、もう『壊した後』のゾンビならいいんだけれど……。
願い虚しく彼女の視線の先、雨風にさらされ日に照らされて劣化した衣服に身を包んだ人型のモノが、瀕死のコガネ虫のように緩やかに手足を動かしていた。
元は葉摘と同年代の少年だったのだろうそのゾンビは、膝から下の関節が折れ、視力も失ってしまっているようだ。
だけど残念なことにまだしっかりと歯と顎がある。
葉摘は少年のゾンビに向けて両手で持った重いバールを振り上げ、一息にそれを振りおろした。
乾いた音をたてて脆くなった顎の骨が砕け落ちる。
「……ごめんね、危ないから壊させてもらうよ」
呟きながら更に肩と骨盤を数度思い切り叩き、二度とソレが動き回り……誰かに噛みつかないよう、乾いて朽ちかけた身体を壊す。
目も見えなくてこんなに動きの鈍いゾンビ、絶対につかまらないし齧られないけど、叔父さんも響也お兄ちゃんも心配するんだよ……。
関節を砕かれた少年のゾンビは、移動の手段と顎とを失い、完全に無力化した。
このまま完全に朽ちて、やがてはこの場で土に還ってゆくだろう。
顔立ちは既に元の面影を残さないほど枯れていたけれど、着ている服の雰囲気から察するに、島外から来た少年と思われる。
葉摘同様、夏をこの島で楽しく過ごす筈だったに違いない。
じんわりと目に滲みそうになる涙は、歯を食いしばって飲み込んだ。
何があってもどんな事をしてでも自分は生きていかなければいけないと、彼女は決心していた。
そうじゃなければ、自分を助けてくれた
バールの頭の部分に挟まったゾンビの欠片を汚れた靴でグイっとはがし、軽トラへと踵を返しかけた葉摘は、消火栓の横に落ちていたモノに気づき、立ち止まる。
緑に茂る雑草の中、鮮やかなメテオブルーのスマートフォン。
拾い上げて表面についた泥をシャツで拭う。バッテリーがダメになり使えなくなった葉摘の携帯と同じ機種だ。
電波が弱くて屋敷では殆ど役に立たないが町に降りれば使えるから……と、この島に来る時葉摘は同機種のスマホを持って来ていた。
島がゾンビに襲われる数日前からずっとどことも連絡は取れなくなっていたけれど、バッテリーがダメになってしまうまではメールやラインの着信を確認するのが彼女の毎日の習慣になっていた。
中学受験が終わったらキッズスマホじゃなくママと同じ機種のを買ってもらう約束してたんだけどな……。
果たされなかった約束を思い出し、葉摘は唇を噛む。
スマートフォンを掴んだまま運転席に乗り込み、馴れた仕草でギアを「R」に入れる。
……初めて車の運転を覚えた頃は足を一杯に伸ばさなければ届かなかったアクセルも、二年のうちに10㎝も伸びた身長のお陰で楽に踏み込めるようになっていた。
もし今の姿を母が見たらどう思うのか……と、時の流れとこの状況が少し可笑しくて、切なくて。
胸にせり上がる感情に唇は歪むけれど、葉摘の瞳にもう涙は浮かばなかった。
さんざん泣いて……喚いて……絶望して、泣いても『どうにもならない』と言う事を悟った。
もともと母親のリカコに似て負けん気の強い性格だ。
葉摘はメソメソすることを止めると、がぜん生きる為の努力を始めた。
屋敷の裏庭にあった家庭菜園を拡大して何種類も野菜を作り始めたし、野菜を干したり塩蔵して保存する事も覚えた。
やり方がわからず困っていると、秋也がふらりと現れては知恵を貸してくれる。
今日町に降りてきたのも、屋敷での生活に必要な品物を運び出す為だ。
軽トラの荷台から軽油の入ったタンクや生活に必要な品々を下ろす作業を終えた葉摘は、オイルに汚れた手を拭いながら大きく息をつく。
軽油は島唯一のガソリンスタンドから貰って来た。島内の小さな電力発電所は現在稼働しておらず、ガソリンスタンドの給油装置も電力がなければ地下タンクの中からオイルを汲み出してはくれない。
だが、幸いにもこのスタンドには非常災害用に自家発電の設備がある。
本土から離れた孤島でガソリンスタンドが使い物にならない状況になれば、島の漁師は船も出せない事態に陥る。
災害時用にとこの装置を導入した人物に、葉摘は感謝したい気持ちだった。
燃料が手に入らなければ、島の奥地にある小野塚家の自家発電装置も稼働させる事が出来ないのだ。
もしも電力が手に入らなければ……と、その事を考えると葉摘は恐ろしくなる。
自分のための食糧は自分で作るからどうにでもなった。
島周辺は魚影も濃く、釣り糸を垂らせば誰だって魚は釣れる。
だけどこの暑熱のさなか冷房装置が動かなかったら、響也お兄ちゃんはどうなってしまうんだろう?
睨みつけた視線の先、葉摘をあざ笑うかのように太陽は容赦無く焼けつく熱を放出して輝いている。
負けるもんかと心に呟きながら重いタンクを運び、稼働を続ける発電機に給油した。
これで暫くは響也の部屋の冷房を使う事が出来る。少しでも部屋を冷やし、ゾンビになった響也の身体の腐敗を防がなければ……。
葉摘は自室として使っている部屋に戻ると、古臭く過剰なほど装飾的な金縁の鏡に自分の顔を映し、髪を櫛けずった。
日に焼けて茶色い髪をポニーテールにきゅっと結いなおし、身形を整える。
人口の少ない篠ノ目島にはユニクロどころかシマムラさえ存在しない。
いま葉摘が身につけているのは、商店街の倒壊しかけた衣料品店から持って来たノーブランドのノースリーブと、色だけは可愛いターコイズブルーのキャミソールだ。
島に持って来ていた洋服は殆どがサイズアウトしてしまい、お気に入りのジディも、小さな頃から好きだったロニィも、リカコのお気に入りのメゾピアノも、もう着ることは出来ない。
リカコと同じ美容院でカットしてもらっていた髪の毛だって、今はその辺にあるハサミを使って自分で切っている。
お洒落を気に掛けるような環境じゃない事は百も承知していたが、響也に会う時くらいは出来る限り小奇麗にしていたかった。
「……そうじゃないと、あっと言う間に猿だよ。猿人だよワタシ」
日焼に焼けて爪よりも黒い手の甲を眺め、葉摘は眉間に皺を寄せて呟いた。こまめに爪は切っていても農作業や細々した仕事をする爪先はキレイとは言い難い。手のひらには、固いタコがいくつも出来ている。
葉摘は屋敷の一番北側、薄暗い廊下の突き当たりの部屋の扉をコンコン叩くと頑丈な堅木のドアに額をつけ、中にいる『響也お兄ちゃんのゾンビ』に声を掛ける。
「お兄ちゃん、戻ったよ。中……入ってもいい?」
張り付いた扉の向こうからは、微かにエアコンの稼働音が聞こえる。
耳を澄まし、葉摘は室内からの返答を待ちながらポケットの中の鍵を握り締めた。
『返事がない時には絶対にドアを開けてはいけない』
それは葉摘と響也が交わした約束だった。
それを破ったら二度と会わないと言われて以来、一度もその約束を破ったことは無かったが、最近は室内から返答が返ってくる回数もめっきり減ってしまっていた。
きゅっと唇を噛み鼻から大きく息を吸い込むと、もう一度さっきよりも大きな声で葉摘は響也に呼びかける。
「お兄ちゃん、大丈夫? ねえ開けてもいいでしょう? ワタシ、もう一週間は響也お兄ちゃんに会ってないよ? ちょっとだけ顔を見るだけだから、部屋にいれてよ……お願い」
祈る様な気持で鍵を握り締めた手に力を込める葉摘の耳に、室内からカツカツと合図の音が聞こえてきた。
はじかれた様に顔を上げ、葉摘は手早くポケットから鍵を取り出して汗ばんだ手でドアを開けた。
逃げ場のない夏の熱気に満たされていた廊下に扉の隙間から冷気が流れ出し、サッと葉摘の顔をなでた。
凍りそうなほど冷たくエアコンで冷やされた空気には、胸を悪くするような刺激臭と花の香りが含まれている。
ホルマリンと埃、それに、薔薇の香りだ。
薄く開けたドアの隙間から素早く部屋の中に滑り込み、葉摘は後ろ手に扉を閉めた。
部屋の中は殆ど真っ暗と言っていいほど暗い。
建具の横の壁に手を伸ばして室内灯のスイッチをオンにすると、古い蛍光灯が青みがかった光を部屋の中にちらつかせる。
人が住む居住空間としての室内を想定して入り込んだ人間は、ここを異様だと思うかも知れない。
白い光に浮かび上がったのはまるで学校の理科室を思い起こさせるような空間だった。
葉摘の目の前には巨大なテーブルが部屋の向こうとこちらを隔てるように、どんと鎮座している。大きさは殆どビリアード台と同じか、それよりも大きいくらいの物だ。
これは孝造が特注で作らせたギャラリーテーブルで、中には彼が厳選した美しい鉱石標本が展示されている。
オリーブ色のカンラン石は小さな粒の集合で、透明な方解石は美しいひし形。藍銅鉱は深い純粋な藍色に輝き、孔雀石は美々しい緑。
茶色がかった粒が密集するザクロ石は、一月の誕生石であるガーネットと同じ物と聞いた。
黒っぽい蛇紋岩の内側におびただしい針状の結晶を作る水苔土石を初めて見た時、葉摘はこれを霜柱と勘違いしたものだ。
この他、辰砂、透石膏、黒曜岩に包まれた方珪石、蛍石、薔薇色の菱マンガン、燐灰石、スピネル……。
孝造の集めた鉱石達は、カットされ磨かれた宝石よりも力強く美しい姿で見る者の心を打つ。
ギャラリーテーブルの特等席から外れた多くの鉱石達は、壁際に置かれた展示用キャビネットに所せましと並べられている。
部屋の漆喰の壁はもとは真っ白だった物が、経年とともにくすんで重い色になっていた。
そこには姿の美しい虫達が硝子の額の向こうに往時と変わらぬ色を残して展示されている。
大きな緑色のナナフシ、ハナムグリ、カミキリムシ、立派な角の巨大なカブトムシ達……。
一匹ずつ樹脂に封入されたタイプの標本は、近年になって叔父の秋也が買い足したものだろう。甲虫類が多い。
北に面して大きく切り取られていた窓は今は内側と外側から板を打ち付け塞がれ陽の光も入らず、誰も出入り出来ないようになっていた。
その壁面が最も色鮮やかで美しい展示物で埋められている。
蝶だ。
世界中から集められた蝶達が羽を広げ、死してなおその妍(けん)を競っているのだ。
何重にも板を打ち付けた窓の前に置かれた肘付き椅子の上、響也(きょうや)は秀麗な顔をこちらに向け、壁に掛けられたドイツ箱の中の色とりどりの蝶に囲まれるようにして坐していた。
サラサラと流れる癖の無い黒髪の下のなだらかな額。
優しい線を描き夢見るような瞼、はっきりとした眉。卵型の輪郭にはしなやかさだけではなく男性的な強さが絶妙に混ざり始めていた。
その面に命の温もりを感じされる温かみは微塵もなく、固く滑らかな陶器で出来た人形の方がむしろ生命の温かみに溢れて見えるほど、響也は死の支配下にある。
入念に施した防腐防虫処理のお陰でこうして腐敗もせずいるが、そもそも響也は2年前に一度亡くなった人間なのだ。
「あのね、響也お兄ちゃん。今日は町で久しぶりに動いているゾンビを見たよ。たぶん島の外から来た男の子だったと思うんだけど、葉摘と同じスマホ持っていたから、悪いなって思ったけど貰ってきちゃった。ほら、前に言ったよね? ワタシのは電池パックがダメになっちゃったっぽいから使えないんだよ。ずっと地面に落ちていた物だから、たぶんダメだろうけど……もし使えたらラッキーじゃない?」
葉摘は椅子の上の冷たく冷え切った響也に語りかけながら、久しぶりに入った部屋の様子を伺った。
響也の脚元にいくつも置かれた円筒形の硝子瓶の中には、退色しつつある薔薇のポプリが詰まっている。
これは響也の身体から漂うホルマリン臭を薄めようと、葉摘が作ってそこに置いたものだ。
ポプリの詰まった分厚い円筒形の硝子瓶が響也の周囲を埋めるように幾つも並び、蛍光灯の白い光に冷たく照り返る。
もともと瓶の中には葉摘の曽祖父の孝造の収集した小動物のホルマリン漬けが詰められていたのだが、響也をこの部屋に納めた後、中身は全て葉摘が処分していた。
まるで響也まで孝造のコレクションの一部のように見えるのが、とても嫌だったからだ。
「後でカバーはずして交換してみるつもり。でもいつも充電器しか使ってなかったしやったこと無いからちょっと不安かも。今日はこれからいっぱいやる事もあるし、時間のある天気の悪い日にでもしようかな」
ポプリの詰まった瓶は本当に足の踏み場もない程にいくつも密集して置かれている。
だが、うっすらと埃を被ったそれらを移動させた痕跡が見られない。
……と言う事は、響也はずっとあの椅子の上から動いていないと言う事だろう。
響也自体、良く見ればほんのりと埃を被っているようにくすんでいる。一体いつから動いていないんだろうか。
「……」
葉摘は眠るように目を閉じて動かない響也を見つめたまま、そっと唇を噛んだ。
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