別れ。そして、再会、


 持ち出す予定の全ての荷物は埠頭へ運び終わっていた。

 秋也あきやの携帯経由のメールによると、リカコを乗せた船は早ければ今日の昼には到着するだろうとのことだった。

 朝、殆ど夜明けとともに目を覚ました葉摘はつみは、自室を綺麗に整えて外へ出た。

 菜園のある裏庭へまわると、鶏小屋として使っていた道具入れを開け放つ。

 昨日のうちに鶏の脱走防止に周囲に張り巡らせていたネットは全て取り去っている。

 水の湧く沢も付近にはあるし、もともと殆ど野生化していた鶏の事だ、またこの自然の中へと適応して行くだろう。


 手荷物はオレンジ色とダークグレーのツートンカラーのディバッグが一つ。

 中にはハンカチとティッシュ、メテオブルーのスマートフォン。

 自室の鏡の中に映った顔は昨夜さんざん泣いたにも関わらず、瞼に赤味や腫れはみられないようだった。

 冷たい水で何度も顔を洗ったのが効いたのかもしれない。


 響也きょうやの前では絶対に泣かない。最後まで笑顔で通す事を心に決めて、葉摘は丁寧に髪をとかした。

 黄緑色のパーカーにボーダーの長袖Tシャツ。レモン色のデッキパンツにバッタものっぽい黒のコンバースの組み合わせは明るく元気な印象で、響也が自分に雰囲気が似ていると言ってくれた『ゴライアストリバネアゲハ』の色味を意識したものだった。


「響也お兄ちゃん、ワタシ行くね」


 晴れやかな笑みを浮かべた葉摘を、響也は少し細めた眼で眺めた。

 秋と言う季節には似つかわしくない明るい色合いの装いは、葉摘の幼さを引き出しそうなものだったが、今日の彼女はどことなく大人びた気配を感じさせた。


 この島で暮らした二年の間に背も伸び、子供らしい甘えを強く感じさせた面立ちも随分と引き締まったものになった。

 もともとリカコに似て真っすぐな気性の、気持ちの強い葉摘だ。

 この先もどんな困難があっても力強く乗り越えて行く事が出来るだろうと響也は信じている。


「いままでありがとう。……ごめんね。なんかワタシ、何一つお兄ちゃんにお返し出来る事がないよね……」


 不意に唇を歪める葉摘に、響也は微かに笑みを浮かべた。


「葉摘は僕にいっぱい……色んなものをくれたよ」


「え? ……バレンタインのチョコとかリラックマのストラップとか? あと、なんだろ、ガンダムのペッツとかもこもこペン? ……あああぁ……どうしよう、なんかしょぼいものしか思いつかないよ~」


「赤と青のシャープペンの替え芯と……アナ雪のハンカチ、それにグレープの匂いのする練り消しも?」


 頭を抱えて身悶える葉摘に、響也はまぜっかえすように言葉を掛ける。


「もぅやめて響也お兄ちゃん。そうとう恥ずかしいよそれ……っ」


 唇を尖らせる自分を優しく見ている響也の目を見ながら、葉摘は『これが最後』と言う感覚を強く覚えた。


「僕はリカコ姉さんに心と体の安全をもらったし、秋也兄さんには息をつけるこの島での生活と居場所をもらったんだ。……それにね、葉摘からは笑うと言う大事なことを教えてもらった」


 事情の詳細は知らないまでも、小さい頃の響也が素晴らしいとは言い難い環境にあった事は葉摘も知っている。


「響也お兄ちゃんが笑ってくれるんだったら、ワタシは自分がおバカで良かったと思える……かも」


「葉摘は、馬鹿じゃないよ」


 固くこわばった筋肉をおし上げるように、自然と響也の頬に笑みが浮かんだ。


「僕の方がおバカなくらいだ。笑う事も知らなかったし……生きて行く・・・・・事は醜いものだって……思いこんでいたから」


 肉を喰らい、魚を喰らい、他の生き物の命を食しながら浅ましい生き方しか見せなかった母親の姿が、響也の胸にフワリ、浮かんで消える。

 過去においては憎しみを抱いたその面影に、今は感謝するべきだろうかと響也は思っている。

 肉を嫌悪する自分だったからこそ、ゾンビの意識に飲まれる事なく今までいられたのだろうから……。


「だけど葉摘が一生懸命生きて、笑っている姿をみてたら……死んでしまってから今さらだけど、生きるって言うのも悪くないなと思えるようにもなったんだ」


「キミのおかげだよ」


 ……と、笑う響也の顔を見ていたら、口にすることをためらっていた言葉が葉摘の口から零れた。


「あのね……ワタシね、響也お兄ちゃんが好きだよ。本当に大好きだよっ」


 いつも活き活きと動き回り、自分に纏わりついて離れない小さな葉摘を記憶の中に描くたび、微笑みが響也の胸の中に浮かんだ。

 この島で必死に生きて、辛い事も多いだろう生活の中にも楽しみを見つけ、それを響也に教えてくれた葉摘の弾んだ声を耳にするたびに、生きる事に嫌悪とためらいを抱いていた過去の自分が揺らいだ。

 この二年の間、響也にとってあたたかい思い出や胸の奥を優しく揺さぶる気持ちこそ、『肉』に対する禁忌の気持ち危うくする敵だった。

 先の見えない状態の中、葉摘一人をこの島に残し自分まで完全なゾンビとなってしまったら……と、なんとか今まで自分の意志を保ち続けてきたけれど……。


 もう、それも今日これまで。


 響也は葉摘を眩しげに見ながら、硬直した頬の筋肉が許す限りの笑みを浮かべた。


「ありがとう、葉摘。僕はもしまた人間に生まれ変わったら……きっと葉摘みたいに元気で強くて、優しい子と出会って……」


 優しい幸せな夢を言葉として唇から紡ぎだすたびに響也の視界はぶれ、霞がかかったようぼやけて行った。


「恋をして……家庭を持って………………」


「……!? 響也お兄ちゃん……っ?」


 急激に表情を消してゆく響也の異変を感じた葉摘は、自分と響也とを隔てるギャラリーテーブルから身を乗り出す。


「そんな夢を……素晴らしい夢を、見れるように……なった、んだ。……ありが……と……は…つみ」


 優しい笑みを浮かべていた頬が固く人形めいた線を描き、細められていた目はどんよりと宙を見つめる。

 この部屋に響也が閉じこもった時に交わした『約束』を破り、葉摘は意識が消えつつある響也の元へと走り寄った。

「響也お兄ちゃんっ待ってよ、響也お兄ちゃん……っ!!」


 大きな声で叫ぶも既にそこ・・には響也はおらず、虚ろな表情をした抜け殻だけが残されていた。

 癖の無いサラサラの髪にも白いシャツに包まれた肩や黒いパンツにもうっすら積もる埃が、二年と言う時の経過を物語っている。

 久しぶりに近くで見た響也の遺骸は、綺麗な顔立ちをしているが人形以上に生命を感じさせないただのヒトガタの物体に過ぎず、その姿は先ほどまで会話していた時と変わらない筈なのに薄気味の悪いモノに見えた。

 キンキンに冷えた埃っぽい空気には、ホルマリンの香りと薔薇のポプリの香り。それに、何かが焦げたような香りが混ざっている。

 秋也でも来ていたのかもしれない。


 椅子の上のソレ・・が、濁った眼をボンヤリと葉摘に向けぎこちなく顔を動かした。

 もうその顔には『響也』としての意志は感じられない。

 葉摘はよろめく様に踵を返し、部屋を飛び出して扉を閉じた。


 ……鍵を掛ける必要はもう無いだろう……。


 たった今話した事や見た事は未消化なままで、不自然なくらいに葉摘の中には何の感情も湧いてこなかった。

 薄暗い屋敷を出るとやけに明るく眩しい日差しが葉摘の目を射る。

 空は青くて高い。

 早くて昼過ぎ、遅くても午後の日が高い間には到着するだろうリカコらと合流する為に、葉摘は軽トラックに乗り込みエンジンを掛けた。


 自分は響也に言うべき事を全て言えただろうか?


 葉摘は飽和状態の心の中に問いかけた。


 ありがとうの言葉を伝えた。

 ……それに、本当の意味で伝わっていたかどうかは分からないけれど、自分が響也の事を好きな気持ちも口に出来た。

 それに、短い会話ではあったがこれまで自分の胸の裡を明かす事が殆ど無かった響也の胸中を聞く事も出来た。


 『たぶん』……ではあるが、あの最後の会話が響也の葉摘に伝えておきたかった言葉に思える。


 茫々と茂る秋の草花に半ば埋もれて走る屋敷からの道を、葉摘を乗せた軽トラが海辺に向けて下って行った。

 笹藪にぶら下がるカラスウリはここ数日の朝の寒さを受けて橙色に熟し始め、薄暗い下草の中には薄紫色の紫苑しおんが星の亡霊のようにぼんやりとした輝きを放つ。


 ハンドルを握る葉摘の頭の中を先刻の会話の断片がぐるぐるとランダムに再生され続けた。

 響也が最後に語った言葉は全てこれまでの彼女を肯定してくれるものだった。


 でも、だけど……。


 命を失った後も葉摘を助けてくれた響也に

 ゾンビの身体に魂を縛られる事に耐え続けてくれた響也に

 ここに来ては葉摘の気持ちを慮り、出来るだけ二人でいる時間を作る為自分の身体を壊して安全を確保してくれた響也に、何か葉摘が出来る事は本当に無いのだろうか?


 胸に残り続けるその疑問にとらわれ過ぎていたせいかもしれない。

 いつもなら超低速の安全運転走行をする軽トラックのスピードが少し出過ぎていたのだろう。

 屋敷から町へと続く細い私道の緩やかなカーブを曲がり切れず、葉摘を乗せた軽トラは舗装道路を席巻するように繁茂した藪の中へと突っ込んでしまった。

 藪の中にポツポツと生える木立にぶつかっていたならばもっと衝撃は大きかっただろうが、トラックは笹藪や下草に柔らかくスピードを削られながら道路を外れ、最終的に何か金属質のモノに軽く鼻先を当てて停止する。

 吸収しきれなかった衝撃に食い込むシートベルトに眉根を顰めつつも、両手で握り締めたハンドルの上に伏せた葉摘の瞳には強い光が宿っていた。


「……そうだ、あるよ……ワタシに出来ること。ちゃんと、あるじゃん……」


 ゾンビの身体に囚われた響也の魂を、あの場から解放する。

 あんなに不自由な身体になってしまっては、もしも再び『響也』としての意識を取り戻したとしても自分の身体を完全に破壊する事は簡単ではない筈だ。

 彼の意志があの身体にあるうちには、葉摘が手を下す事を響也は許さないだろう。

 いつも、いつでも響也は身の安全でも絡まない限り彼女が手を汚すようなことをさせなかった。

 それ以前に彼女には響也の意志を持つ身体を破壊するなんて、絶対に無理だ。

 けれど、今なら……響也の意識があの身体に無い今ならば、葉摘は彼を『解放』することが出来る。

 心の底からの響也の望みをかなえるためであれば、あの身体を壊す覚悟は……ある。

 流石に夏の日に見た少年のゾンビを破壊した時のように、バールを手に直接壊すことは出来そうもなかったけれど、道具入れのポリタンクには灯油が残ったままだ。

 あれを椅子の上に座る彼の身体にかけて火を放つ事くらい、葉摘にも出来る筈だ。

 ことによれば屋敷全体が焼失してしまうかもしれないが、この先夏休みを過ごしに葉摘がこの篠ノ目島に来ることなどない。

 今更この状態の世界で古いあの屋敷の不動産価値をうんぬん言う人間もいないだろう。

 屋敷の周囲には殆ど原生林と呼んでよい森が茂るが、数日前に降った雨で落ち始めた葉も梢に残る緑も湿気を帯びていた。

 菜園を拡張するために建物近くの植栽は移動、もしくは伐採済み。延焼の危険は殆どない。


「屋敷に帰らなくちゃ」


 呟きつハンドルから顔を上げた葉摘は、フロントガラス越しに思わぬ物を見つけた。

 カンガルーバー付きの四輪駆動車だ。

 銀色の車体は二年の月日に浴びた風雨や埃に輝きを失い、半ば以上が下草や枯れかけの蔓植物に埋もれているが、それは確かに秋也あきやあの日・・・乗って出かけていった車だった。

 葉摘の乗った軽トラックはこの四駆にぶつかって停車したらしい。

 手早く自分の身体を検め痛めた部分が無い事を確認すると、シートベルトをはずして葉摘は車外へと降りる。


「なんでこれ、こんなところにあるんだろ?」


 蜘蛛の巣状のヒビに覆われたフロントガラスには誰の物とも知れぬ毛髪がこびり付き、ボンネットが何箇所も大きくへこんでいた。

 あちこちに当時の激しい『戦い』の様子が伺えるそのボロボロの四駆の周囲を巡りながら、葉摘は首を傾げる。


「……叔父さん、動かなくなった車をここに乗り捨てたのかな?」

 

 フロントガラスのみならずサイドガラスも四枚とも割れており、落ち葉や葛に似た蔦植物が内部に入り込んでいる。

 何気なく覗きこんだ車内には、雨風に曝され洗われた車外にはない生々しい『痕跡』が残されていた。

 後部シートの上に茶色く変色しているのは恐らく血痕だ。

 助手席には葉摘が自分の為に置いたネコキャラの座布団が脚元のゴムマットの上に落ちていた。

 ついた血糊は後部シートの物よりも多いだろう。

 けれども一番巨大でおびただしい出血後は、秋也が乗っていた筈の運転席にある。

 葉摘はなんとなく悪寒を覚え、そこから目を逸らした。


 動かなくなった車や使わない自動車は島内のあちこちにあった。

 葉摘の活動圏内の道路上の阻害物となる車両は、響也と葉摘が全て邪魔にならない場所に寄せてある。

 この四駆も響也か秋也が細い私道上から排除したものかも知れず、なんの不自然さもないのだけれど……。


 たまたま廻り込んだ四駆の後ろ、大きなクヌギの根元付近の下生えが丸くこんもりと盛り上がっている場所が葉摘の目に入る。

 どう見ても人工的に盛り上げられた土の横には、チェーンソーで切ったと思しき断面を晒す丸太が小枝をつけたまま突きたてられていた。


 ……この場所で亡くなった人のお墓?


 小枝には無造作に一台の携帯電話が引っかけられている。

 契約数の多い携帯会社のごくありふれた機種の携帯だ。

 たしか秋也もこれと同じ物を使っていたという事を、葉摘はふと思い出す。

 洒落っけの無い秋也は携帯にデフォルト付属のストラップ以外付けない人間だったけれど、この電話の持ち主もやはり何も付けない人間だったようだ。


 道路から外れた場所にひっそりと存在した墓標をぼんやりと眺めていた葉摘は我に返り、墓標に手を合わせてから自分が乗ってきた軽トラックの周囲を確認した。

 多少エンジンをふかさねばなるまいが、道路へ戻る為に問題になりそうな阻害物は特になさそうだ。

 運転席に乗り込みギアを『R』に入れ、舗装路へむけてバックする。

 車体の腹を下草や笹藪にこすられながらも、軽トラはなんとか舗装された道へ戻る事に成功した。

 狭い路上、何度かハンドルを切って軽トラを反転させると、葉摘は屋敷へ向かって走り出した。


『なにかがおかしい』


 ……と気づいたのは、屋敷へ向かいだして程なくの事だった。

 木々の合間からチラチラと見える小野塚の古い屋敷から、何かが空へ昇ってゆくのだ。


「なに、あれ? ……煙!? 嘘……嘘……嘘…………っ!」


 最初はうっすらとしか見えていなかった煙は屋敷に着く頃にはもうもうと立ち上る灰色の渦となって青い空に不気味な巨人のように巻きあがりつつあった。


「いやだ、嘘だ。だってどうして!? どこにも火元なんて無かったじゃない?」


 門扉内にトラックを乗り入れ運転席から飛び降りた時、火元と思われる屋敷の裏手……響也のいる部屋の辺りで硝子が弾けた音が葉摘の耳に響いた。

 これから自分が火をつけに行こうとしていた事など失念し、慌てて施錠していない玄関の扉を勢いよく開け放つ。

 室内から焦げくさい香りと目をチクチク痛ませる薄い煙が流れ出し、一瞬彼女の足を止めさせた。

 暗い大きな玄関ホールの正面、階段を上った先にある奥の廊下とホールを隔てる扉の隙間から煙は漏れだしているようだった。

 煙の刺激とこの恐ろしい事態のショックに滲んだ涙を手の甲でごしごしと拭い、屋敷の中へ入ろうと再び階段の方へ視線を向ける葉摘の目に、数瞬前まではいなかった筈の秋也の姿が飛び込んできた。


「バカか、お前。入ってくるんじゃねーよ」


 首刳りがダラしなく伸びたラグラン袖の長袖Tシャツの上、診療所の白衣を引っかけた秋也は、この非常事態の中にありながら、どこか呑気そうに両手を白衣のポケットに突っ込み、姪っ子を見下ろしている。


「だって、まだ響也お兄ちゃんが……っ!!」


 煙に痛む目を瞬かせながら必死に訴える葉摘に、秋也は普段どおりの笑いに唇を曲げた。


「葉摘、お前あいつの事、荼毘だびにふしてやるために戻ってきたんだろ?」


「そう……だけど、だからなによ。まさか、じゃあ、秋叔父さんが火をつけたの!?」


「ちげーよ。……ちなみに、俺の煙草の不始末でもなんでもないからな。……エアコンのプラグから発火したんだよ。ずっとあの部屋エアコンつけっぱなしでプラグも差しっぱなしだっただろ。コンセントとプラグに埃も積もってたし、どっちみち近いうちにはこうなっていたんだ」


「───でも、ほんのさっきなんだよ? ワタシがあの部屋にいたのはっ」


 確かに部屋に焦げくさい匂いがしていた気はするけれど、この短時間でこんな事になるなんてありえないではないか。


「……物理干渉は得意じゃないんだけど、俺がちょっと頑張って火勢を強めたからな」


 この時になって初めて、葉摘は階段の上の暗がりで目を細める秋也の姿に違和感を覚えた。

 背後の扉の隙間から一瞬ごとに勢いを増して噴き出す煙に巻かれているのに、秋也には苦しそうな様子がない。

 それどころか……煙は彼の身体を突き抜けて行くのだ。


「叔父さん……?」


「ああ……気がついたのか……まぁ、千そう言う事だから《・・・・・・・・》、よ」


 苦笑いを浮かべる秋也を見ながら、葉摘の脳裏には幾つかの場面がフラッシュバックする。


 四駆……携帯と墓標……ゾンビに襲撃を受けた時、たった一人で出かけた秋也の後ろ姿。……―それに、二度目の襲撃時に見たゾンビの群れの中に見た……あの顔は……。


 ……そうだ、忘れていたんじゃなくて本当はワタシ、知っていたんだ。

 秋也叔父さんはあの時ゾンビになって……響也お兄ちゃんに……。


「悪いな葉摘。嫌な記憶残しちまって」


 肩を竦める秋也の姿がぼやけて霞んだように見えた。


「響也は俺が責任もって向こうに連れて行くから、だから葉摘はここから離れるんだ」


 屋敷の奥の方で盛んに何かが割れ、壊れる音が聞こえる。


「さっきは……墓に手ぇ合わせてくれてありがとうな。しばらくすりゃ姉さんが来る。ほら、煙に巻かれるぞ。……行け!」


 勢いを増して溢れだす煙に葉摘の両の目は激しく痛み、息が苦しくて後ろに向けてよろよろとよろける。


「……叔父さん、秋叔父さんっ! ワタシ……響也お兄ちゃんにも、秋也叔父さんにも助けられてばっかりだったよ。何にもお礼もお返しもしていないんだよ……っ!!」


 ぐるぐると渦巻く煙の中にかき消える瞬間、秋也がそれまで見た事が無い程優しい笑いを浮かべるのを見たような気がした。


「出来るだけ笑って生きてろ。……それだけでいい」


 それが葉摘の耳に届いた最後の言葉だった。


 いつ、また、どんなふうにして屋敷から船着き場までの道のりを移動したのかを葉摘は覚えていない。

 ただ気がついた時にはぼんやりと海を見ていた。

 桟橋の途中に軽トラックが止まっているところをみると、どうやら自分で運転してきたようなのだが、記憶が飛んでいる。

 ブルーシートを被せた段ボール箱にもたれ見る海には、一隻の漁船が船首で波を左右に分けながらこちらへ進んでいる姿があった。

 甲板に立つ細く背の高い人影は葉摘の母、リカコに違いない。


 現実感は無いのに胸がドキドキと強く打つのを葉摘は感じた。

 二年前の夏休み、葉摘は叔父の秋也の住む屋敷に響也と2人楽しい休暇を過ごす為にこの篠ノ目島へと渡ってきた。

 職場である病院が盆休みに入ったらリカコも合流し、例年通り夏を過ごす筈だったのにゾンビ』と言う災厄に襲われ島民らは死に絶え、秋也も……そして響也も命を落としてしまった。

 それは悲しい事なのだけれど、今も葉摘の心は切なくて苦しくてしかたがないのだけれど……。


 漁船からおじいさんとおじさんの中間くらいの日に焼けた男が桟橋に降り、船をもやう。

 リカコが漁師の手を借りて陸地へあがるよりもはやく、葉摘は船の上に飛び乗った。

 スカイブルーのウインドブレーカを身につけたリカコは、記憶にあるよりも痩せ、少し老けて見えた。

 実年齢より上に見えるのは葉摘の事で心を痛め、滅茶苦茶になった今の世界で生きることへの苦労のせいかもしれない。

 しかしその両の目は以前と変わらぬ力強い輝きを持って葉摘に当てられていた。


「……葉摘、ごめん。遅くなって」


 すこし震える懐かしいリカコの声が、葉摘の胸をはげしく揺さぶった。


「遅いよ。……でも、ちゃんと来てくれたから許す」


「……相変わらず小憎たらしい事を言って、この子は……」


 たくさんの悲しい事があって怖い事があって、生きて行くのは大変だった。

 辛い事も多かったけれど、だけどそれだけじゃない優しくて温かい大きなモノに守られてもいたこの歳月は、言葉で言い表すのはとても難しい。

 今すぐにリカコの胸に飛び込んで小さな子供のように泣き出してしまいたい欲求に駆られ、葉摘は一歩踏み出し……不意に足を止めた。


「……ママ……それ、なに? どうしたの?」


 スリムなインディゴのジーンズの裾から左の足には茶色のモカシンを履いた足が覗いているのに、何故か右の裾からは木と金属と皮を組み合わせた『何か』が見えていた。

 右裾からも見えている筈の靴が、無い。

 葉摘の視線と表情に気付いたリカコが唇を曲げて笑う。どことなく秋也の笑顔と似た笑いだった。


「ああ……これね、義足よ。酷いでしょう、こんなオモチャみたいなの。装具技術者が殆ど残って無くてね、急ごしらえの間に合わせだからこんなだけど、今ちゃんとしたの頼んでるからそのうち出来てくるわ」


「なんで……ママの足は……?」


 茫然とリカコの顔を見上げる葉摘。


「ゾンビに齧られちゃったから自分でちょん切ったのよ。アンタの事迎えに行くまで死ねないもの。でも、これのせいでちょっと来るのが遅くなっちゃったわね……」


 辛くて、怖くて悲しくて……。苦しい目に遭ったのは自分だけではないのだと、葉摘はリカコに甘えて縋りつこうとしていた自分の弱さが恥ずかしいものに思えてしまう。


「なんて顔してるの。そりゃ少しばかり不便だけど、いろんな人が助けてくれたんだから。……こんな世の中だもの、生きているってだけでありがたいものよ」


 カツン、と固い音を立ててリカコは葉摘の元へと歩み寄る。


「片脚は無くしたけどお陰であんたにも会えた。ほら、ここ感動の再会場面なんだから、こっちに来てそれらしくしなさいよ」


 痩せてはいても力強い手が葉摘の事を抱き寄せた。

 以前はリカコの肩の辺りまでしか無かった葉摘の背は、今では目元に届きそうなまで伸びていた。

 まだ身長は伸び続けている。いずれは母親の背を超えないまでも殆ど同じくらいには育つことだろう。


「そう……だよね。生きてるから……」


 自分の肩に巻きつくリカコの腕の細さとその温かさを噛みしめる葉摘の両目からは、熱い涙が吹き出すように溢れる。


「ママ……ワタシ、いっぱい助けてもらったんだ。叔父さんにも……響也お兄ちゃんにも。……ワタシね、ママにたくさん話したい事があるんだよ」


 今流している涙は、取り返す事の出来ない過去を嘆き思うに任せぬ今と自分を憐れむの為の涙ではなかった。

 苦しくはあっても、切なくはあっても、葉摘の胸の中にあるのは苦しみだけではなく響也や秋也がくれた温かさも確かに存在しているから。


「うん、ママに聞かせて頂戴、葉摘」


 自分に縋って泣く娘の髪を優しく撫でながら、リカコは未だに細く煙を上げている屋敷に目を向ける。


「一体どうしてこうなっているのかもね。……肝が冷えたわよ」


 母が何を指してそう言っているのかを理解した葉摘は、涙を拭いながら少し切なそうな大人びた微笑を浮かべて屋敷を振り仰いだ。


「うん。……でも、絶対にワタシが嘘付いていないって……信じるって、約束してね?」


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