シンパシー・テレパシー

八面子守歌

0. オワリ・ハジマリ

第0話 発端〈ホッタン〉

 入り口から見た夕暮れ時の教室の風景は、青春の一ページなんてお世辞にも呼べないような残酷なものだった。


 オレンジ色の光に照らされた女の子が教室の真ん中で泣いている。


 頬を伝う水の粒も、小刻みに震えている右手も、机の上が散乱している様子も、すべて悲惨な状況を物語っていた。


「……ひどすぎるな」


 面食めんくらっていた俺は思わず声が漏れてしまう。


 俺の声に驚いたのか、彼女は一瞬びくっとして顔をこちらへ向けた。目には大粒の涙を浮かべ、下瞼したまぶたの周辺が少し赤くはれている。


 茶色がかった黒髪、あどけなさが残っている童顔、すらっとしたスタイル――長津ながつ加奈かなか。


 俺は机の上に散乱している教科書類へ視線を移し、かける言葉を探す。


 数秒の沈黙を破ったのは長津ながつだった。


「やなとこ……見られちゃったなぁ」


 気が動転しているのか強がりなのかは分からないけれど、少し大きめの可愛らしい声が教室内に響く。その音はわずかに震えていて、手の震えが声に転移したかのようだ。


 俺は言葉を選びながら慎重に言った。


「すまん。数学のノート、忘れたから取りに来たんだけど……大丈夫か?」


「そっか。ありがとう、大丈夫……大丈夫……大丈夫……じゃないかな」


 えへへっと長津ながつは作り笑いを浮かべている。口元はかろうじて笑顔のていをなしているけれど、充血した目は全く笑っていない。


「その教科書……あいつらにやられたのか?」


「あいつらって川之江かわのえさん達のこと?」


 俺はこくりと頷く。


「まぁ、多分そうだね」


 長津ながつは山積みされた教科書の中から一冊を手に取り、俺の方に向けた。そこには黒マジックで『泥棒猫は生ごみでもあさってろ』と書かれている。余白なんて許さないと言わんばかりに文字以外の場所も黒く塗りつぶされていて、それが何の教科書かもわからないほどにくらかった。


 川之江かわのえ莉絵りえがどうしてこんなことをしたのか。おそらく同じクラスの人間であれば簡単に予想できてしまうだろう。


「さすがにひどすぎるな。許されることじゃない」


「しょうがないよ。わたしはそれだけのことをしたんだもん」


 うつむきがちで話す長津ながつの言葉は気休めとしか思えない。『しょうがない』の一言で片づけられるような状態ではないだろう。長津ながつに非があるのだとしても、川之江かわのえが嫉妬心にまみれているのだとしても、こんなやり方は間違っている。


 俺は一息つく間もなく、言った。


「明日、川之江かわのえたちと直接話すよ」


「やめて! 松前まさきくんは何もしなくていいから」


 黄色い声が教室内に響き渡る。長津ながつがこれほどまでに叫ぶ姿を見たことがなかった。


 長津ながつは一瞬、はっとした表情をみせ、すぐさま口を開いた。


「ごめん……。教科書は大丈夫じゃないけど、わたしは大丈夫だから」


「いや、でも……」


 かける言葉が見つからない。俺は呆然と立ち尽くして、帰り支度をしている長津ながつをただ眺めることしかできなかった。


 長津ながつが本当に助けを望んでいないのか、それさえも俺には分からない。


 自分の無力さを払拭ふっしょくするために出てきた言葉は、当たり障りのないちっぽけなものだった。


「なにかあれば、いつでも話は聞くから」


 教室を後にしようとしていた長津ながつは俺の言葉を聞いて足を止め、振り向いた。


「ありがとう、松前まさきくん」


 寂しげな笑顔で一言だけ残し、ゆっくりと教室から出ていった。


 一週間後にはクラス名簿から長津ながつ加奈かなの名前が消えた。



    *     *     *



 約三年前の出来事がいまだに脳から離れないのは、よく利用する路線に問題があるのだろうか。


 電光掲示板に表示された『長津田ながつだ』の文字を横目に見ながら俺は改札を通った。

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