1. ジコ・テレパシー

第1話 始点〈シテン〉

 確率の収束論しゅうそくろんを本当に信じていいのだろうか。


 そんなフレーズを頭の中で繰り返し唱えて、俺は数学の歴史をぼうとくした。


 今まで生きてきた十六年間において、幸運と不運のバランスが全く取れていないように思う。たしかに、運勢がいいのか悪いのかは自分の主観でしかないし、たった十六年間で得られるサンプル数もたかが知れているだろう。確率が収束するとは考えにくい。


 それでも、ここ半年の運のなさは常軌を逸していた。建物から出ると同時に豪雨に見舞われることが頻繁にあったり、クラスの女子の胸に偶然手が触れてしまいリアルに引かれたり、間違えて女子トイレに入ってしまったり……。


 極めつけはおおよそ三十分前に起きた出来事だ。


 アイドルグループ『九十九里浜42』の限定イベントがあり、渋谷110はアイドルオタクでひしめき合っていた。新曲発売を記念して、メンバー直筆サイン入りのグッズ販売が行われていたのだ。アイドルとして確固とした地位を築いている48グループや46グループ。その後続こうぞくとして作られた42グループは人数が極端に少なく、ビジュアル面では他を圧倒していることで有名だった。


 激しいダンスが特徴的な楽曲が多く、凛とした女性の美しさに俺は惹かれていった。夢中になりすぎて、本当に夢に登場してしまうこともある。


 だからこそ、渋谷にまで足を運び、長蛇の列にもおくすることなく二時間待ち続けた。それなのに――。


『大変、申し訳ございません。限定グッズの販売はここで終了となります』


 あのとき、目の前が一瞬ブッラクアウトした。ぱぁっと光が差して目の前に現れたのは化物格納球モ〇スターボールを笑顔で渡してくれるお姉さんなどではなく、メガネの中年男性が声を張り上げている姿だった。


 あの場で味わった落胆はそう簡単には消えないだろう。


『俺の不運続きの高校生活に革命をもたらしたのは天使でした』――こんなライトノベルのタイトル染みたものもバカにはできない。まじで現れないかなあ、天使ちゃん。


 そんなことをぼんやりと考えながら、俺は東急田園都市線の渋谷駅ホームを黙々と歩いていた。


 黄色い点字ブロックとホームの端のわずかなスペースをひたすら前進する。そのさまはまるで綱渡りのようだ。

 

 春の季節なだけに駅のホームは人で溢れかえっている。ましてや、平日の夕方にダイヤの乱れまで上乗うわのせされ、ホーム全体が巨大な負のオーラに包まれている気がした。


 四方八方から雑音が飛んできて、両耳へ吸い込まれていく。


 すれ違ったサラリーマンはいろいろな感情が含まれていそうな深いため息をつき、うしろを歩いている女子高生らしき二人組は誰かの悪口で盛り上がっていた。前方から聞こえてくる男二人の言い争いも、前を歩く女性のヒールの音も、鉄道社員のハードボイルドなアナウンスもそれら全てが特に意味を持たない雑音だ。


 ホーム内の情報は、耳からだけでなく目からも侵入してくる。


 俺は前を歩いている女性の背中にふと視線を移した。


 ゆさゆさと揺れる純白のニットが、ゆるふわ系の雰囲気を感じさせる。


 コツ、コツっと小さな音が響くのと同時に、艶のあるミディアムな髪がふわふわと舞っていた。風は吹いていないのに、ほのかに甘い香りが漂ってくる。


 女性特有の匂いにはフェロモンが関係しているという話を聞いたことがあるけれど、この場合は香水の匂いだろうか。


 こんなちっぽけな雑学をどや顔で話してしまえば『え? お前、匂いフェチなの?』とか言われかねないから気を付けよう。


 心に刻んだ俺の意思を茶化ちゃかすかのように左斜ひだりななまえのほうから怒声どせいが聞こえてきた。


「だ、大事なポスターなんだ。折れるわけないだろ!」


 メガネ姿の小太りな若者が目くじらをたてている。心なしか震えているその声は力強さなど無いに等しく、頼りなさげな印象を受けた。


 メガネと対面するように大学生風の青年が立っている。少しつりあがった目から侮蔑ぶべつの念をかもし出し、彼は怒鳴りはじめた。


「そのバカでかい荷物、邪魔だっつってんだろうが! さっきから足に当たって鬱陶うっとうしいんだよ」


 なるほど。どうやらクソほどくだらないことで言い合っているようだ。周りのサラリーマンや主婦らしき人は完全に目をそらしている。


 面倒ごとには関わらない――これは世渡りの基本事項だと思う。


 隣の席で陰口が始まればすかさずイヤホンを装着し、俺は関係ないですよーっと素知そしらぬ顔で主張する。放課後に先生が『暇なやつはちょっと手伝ってくれ』と言えば、死角ポイントを瞬時に見極めて物音立てずに消える。


 つまり、逃げこそ最大の防御。たいていのRPGには逃げるというコマンドがあるだろう。逃げ腰の勇者も悪くないと思う。


 そんなことを考えている間にも、アナウンスは淡々と流れていた。


「――一番線に電車が参ります。到着遅れましたこと、お詫び申し上げます」


 俺は左側を見向きもせずに彼らの横を通り過ぎようとする。俺の視界に入ることが許されるのはふわふわと揺れる真っ白なニットだけだ。


 しかし次の瞬間、どんっという生々しい音とともにそのニットは右側へと位置を変えた。


「きゃっ」


 彼女の左手と左足が無重力空間に放り投げられたかのように無秩序な動きをする。さらさらの髪が慣性の法則に従ってその場に居残ろうとするが、すぐに右側へ流れていってしまった。


 脳を経由しない動きとはこういうことか。


 俺は無意識のうちに彼女の左手首を掴んでいた。

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