第66話
「尻男。聞け。俺は戦いに来たわけではない」
「え」
陸前は――ここで明確に絶望する。
戦いに来たわけではない。すると、残されている用件は極めて少ない。
ドクンドクンと心臓が撥ねる――まさか。
まさかとは思うが――
「とりあえず、見ろ。ここで吸収した残留思念」
グルスは己の腕を伸ばし、その中から『一体』の残留思念を放出した。陸前は目眩に襲われる感覚を味わう。
見つからなかったわけだ。それはそうだ。当然のことだったのだ。何故なら。
「尻男。『過去の貴様』自身の、残留思念だ」
既に魔念人達は、この兼代 鉄矢の残留思念を捕らえていたのだから。
トイレには、子供の悲鳴のようなうめき声だけが聞こえていた。
兼代は、グルスから生成された自分自身の残留思念とグルスを交互に見ている。
「お前……これが……俺だって?」
「……」
黒いヒトガタ。影そのもののようだ。明らかに体高が小さく、小学2、3年生程度の体格であることが分かる。
「……昨日捕らえたものだ。そして俺達は、ここに必ず貴様が来るだろうと踏んでいた。だから捕らえ、ここで待ち伏せていた」
「!」
百目鬼 月日星――彼女の叡智も一日遅かったというわけだ。
確かに魔念人の計画は全て言い当て、兼代の残留思念がここに存在しているということは、その驚嘆すべき慧眼で見据えていた。しかし。
相手の行動の時期――それだけは読めはしない。彼女を責めるべきではないことは重々承知だが、
「月日星さん……もうちょっと早く……」
奥歯の軋りを感じずにはいられない。
かつて自分が遅れまくっていたから、引き伸ばしていたから、それに重なり、余計に腹立たしく思える――だが、今はそれどころではない。
状況が最悪である以上、今は撤退――せめて兼代だけでもこの場から離れさせなければいけない。
「兼代く」
「……」
だが。
向こうは『逆』。陸前も。そして、あの子供も、話し合いには邪魔だ。だから二人を排除したい。
グルスは見かけ以上のスピードを発揮して、陸前の顔面に左手を触れていた。
「え」
「……無知無明の暗夜行路」
認知した時にはもう遅い。グルスは更に加速した。
顔を支点に掴まれたまま押し出され、廊下をめちゃくちゃに駆け巡られ、そしてゴミ袋を扱うように階段近くまで捨てられた。
首が軋み、掌を叩きつけられた顔が痛く、あまり肉付きのよくない尻もダメージを受けている。しかし致命打というほどではない。グルスは既にトイレまで戻ったのだろう、既にあの姿はない。
さあ、すぐにトイレに戻らなくては。兼代 鉄矢を、あの魔念人の篭絡から救わなくては。
「コキュウトス」
立ちあがり、手には神器を。心には、勇気を。
さあ、今すぐにあの人の元へ――まずは――
「あれ?」
異常に気が付く。
この階のトイレへの『場所』。『経路』。
それが、一切思い出せない。
「……?」
ごしごしと、自分の頭をマッサージするようにこすった。たかが小学校の構造。どの階層でも一緒だ。構造もしっかりこの間に記憶できたはず――なのに。一切思い出せない。
ふとコキュウトスに目をやった。金色に輝くこの神器は鏡のように陸前の顔を映し出す。
そして、自分の『左目』が『赤黒』に染まってることに気が付くのだった。
「能力……ですか」
苦々しく、当てずっぽうな方角に目をやった。
さっきあの子供は言っていた。『トイレが見えない』と。目の前にトイレがあるのに混乱していた。
魔念人の能力はそれぞれ、自分史に記したくない出来事ナンバーワンを発生させるために振るわれる。インフェルノマーダーなら物理的な衝撃。ワルプルギストリッカーなら地形操作で追い詰めるなどといったものだ。
そしてこのグルスの能力は恐らく――『トイレを認知できなくする』というものだ。無知無明とし、犠牲者は暗夜行路を往くが如く彷徨い続ける。
即効性こそ無いだろう。しかしグルスに。それこそトイレにでも隠れられてしまってはどうにもならない。ある意味、今まで出会った中では最も厄介な能力者だ。
そして、
「うう……!」
「!」
陸前はそこでようやく気が付いた。
自分の隣に、あの子供がいる。
グルスは陸前と共に、この子供も一緒に外に放りだしたのだ。
「ト、トイレ、分からない……! 何で!? トイレ、行きたいのに……!」
苦しそうだ。脂汗をかき、お腹を押さえ、小さく丸まっている。陸前には助けを求める様な縋る目をしていて、とても目を逸らせるようなものではない。
能力を喰らった赤黒い左目で、時計を見る。授業終了までは残り20分。他の子が助けてくれるとか、そういう楽観的なことは言っていられない。
だがどうする? この子を放っておいて、自分だけ兼代を探しに行く?
今こうしている間にも、兼代は過去を抉られている――あの残留思念がいた時点で、もう兼代が過去に何かしらあったことは確定しているんだ。一刻も早く行ってあげなければ。
しかし目の前で苦しむ子供を放っていけるほど、陸前の心は凍り付いてはいない。
「そうだ。百目鬼さんに連絡を。待ってるんですよ、ショタ。今応援を呼んであげますからね」
陸前は携帯から、即座に連絡先を入力する。百目鬼さえ呼べば、能力の干渉が無い彼女に兼代の待つトイレも探してもらえるだろう。一石二鳥のジョーカー。それこそが彼女だ。
しかしグルスは用意周到だったらしい。インフェルノマーダーも使用していたあの電波遮断の結界を張っていて、圏外だ。苦々しく歯噛みする。
自ら、呼びに行くしかないのだ。
ここは最上階・4階。応接室は1階。遠く離れた応接室まで。
一人ならすぐに走って呼びに行けただろう。しかしこの子がいる以上、そう簡単にはいかない。いきなり異常が起こって、半分パニックになって、そのうえトイレの問題まで。子供の精神には、この状況で一人など、とても耐えがたい。
一緒に行き、この子のトイレには百目鬼と一緒に居る赤間に任せる。
それがベストの形だ。
でも、時間ロスが大きくなる。そうなれば兼代も――
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