第67話

「……いや。でもっ」


 思い返す。

 そう。兼代は、誰よりも、誰もが安息のトイレタイムを迎えることが出来ることを望んでいる。

 そんな彼を思うのならば。彼の意志に殉じようとするのなら。


「ショタ。安心するといいですよ」


 師である赤間は言っていた。包容力は大事だと。

 なればこそ、今この時こそ、修行の成果を見せる時。


「一人じゃないですからね。私がいます。私がトイレまで連れて行ってあげます」


 それこそこの子にママのような安心感を与えよう。

 一度は、兼代にそうするように決意をしたのだから。






 陸前 春冬。体育の成績はずっと『3』。50メートル走のタイムは10秒台。身体能力は全般的に並以下、団体競技が大の苦手である。

 そんな彼女が小学二年生の子供、しかもその容姿に似合わぬ凶悪な爆弾持ちを背負って階段を降り続ける痛苦は推して知るべき。おっかなびっくりに階段を降りるその足取りは生まれたての小鹿よりも頼りなく震えていた。


「お、お姉ちゃん、大丈夫?」

「だ、だだだ、大丈夫ですよショタ。私がちゃんと連れてってあげます。絶対に間に合わないなんてことにはさせませんからね」


 現在、3階から2階に降りるところだ。相変わらず脳みそと視覚への拘束は続いていて、能力の効力はあのトイレだけではないのが分かる。子供の反応を見るに、トイレはそもそもその中をも認識できない様子――即ち、誰かが座らせてあげないといけない。

 赤間 龍一は、本人の気まぐれが無い限りは悪魔である。

 だが子供相手にはさすがに悪魔っぷりも鳴りを潜めてくれるだろう。それを信じて歩を進める。


「うう……! も、漏れちゃう……!」

「大丈夫ですか、ショタ。よしよし、ですよ。よしよし。私が一緒ですから大丈夫です。私は立派な上流階級です」

「それ関係ないじゃん」

「そういうどこからでも出てくる地味に傷つくツッコミは誰かさんに似てますね貴方」


 階段の踊り場。つまりは中間地点までやってきた。

 子供の様子はまだ大丈夫そうだ。それでも油断せず、抜き足差し足忍び足の要領を律儀に守り続け、階段を下る。


「漏れちゃう……漏れちゃう……!」

「漏らすならせめて私の背中以外で頼みますよ。花も恥じらうはずのJKが鼻も曲がるJKになるのはマジ勘弁ですからね」

「分からないよそんなの……! で、でも、もう本当に、漏らすのは、やなの……! また、また、あいつらに……!」

「あいつら?」


 寒気と共に、陸前の足が止まった。


「うん……あ、あいつらに、馬鹿にされる……」

「……」

「あいつら、僕がお腹弱いからって、いっつも汚い汚いって馬鹿にするんだ……! きゅ、給食の時も、あんなことするし、体育の、ときだって……! も、もしも、また漏らしたりなんかしたら、もう……! こないだ漏らした時なんて、もう、あんなこと、やだ……!」


 細かいことは何も分からないし。何もわかりたくもないようなことだった。

 自分が今背負っているこの小さな命は、きっと、そういう体質を背負ってしまった――兼代と似たような状況に居るのだ。

 背中が1段階重くなった心地だった。

 この声はきっと、兼代が言わず、自分も聞けなかった。

 小学生当時の、彼の声なのだ。

 部外者だから好きなだけ言える。まだパニックが残っていて感情が昂って、感情を抑える術もまだ知らないからこそ、こうも堰を切ったようにとめどなく溢れ出てくるのだ。

 一切の遠慮もなく。好きなだけ自分の痛苦を叩きつける。それで陸前が何を思っても、お構いなしに。子供は残酷だ、という言葉が頭をよぎった。


「先生だって、何もしてくれないし……ぼ、僕だって、こんな体で生まれたくなかった。何一ついいことなんてないよっ。やだよ、もう、こんな、体……! 嫌だよ……! あいつらも、お母さんも、先生も、全部……!」

「ショタ。お姉ちゃんがちょっといいこと教えてあげますよ」


 ぽんぽん、と。優しく、子供の尻を指先で叩く。

 それは残酷な事実の暴力を振るう子供への対抗にも近い、大人げない発想だった。


「さっき通り過ぎたお兄ちゃん、いるじゃないですか。私と一緒に居た人です」

「それが何……?」

「あの人も、すっごいお腹弱いんですよ。貴方と同じように」

「……?」


 2階へ到着した。そこから1階への階段へと移る。


「ほんと、信じられないくらいすぐにお腹下すんですよね。イベントはすぐにキャンセルしてきますし、マジで最低なタイミングで腹壊しまくるんです。うわ、言ってたらなんか大分ヤバい感じしてきましたよあの人」

「大丈夫お姉ちゃん!?」

「ショタに気遣われてしまうとは私もマダマダですね」


 1階への階段の1段目を降りる。


「でもですね。私、昔、彼に助けられたことがあるんですよ。ちょうど、小学3年生の時でしたね」

「え」

「アンタの、たった一個上ですよ。まあつまり、まだまだ乳臭いショタ時代。私もロリの時でした。まあ、恥ずかしい話なんですけど、私はお腹が弱いあの人にトイレを譲ってもらったんです。自分もピンチなのにも関わらず。譲ってくれたんです」


 ふと、陸前は首を上げて四階を仰いだ。きっとかつての彼もこの場所から同じ景色を見ていただろう。

 差し込む光が、根拠の無い勇気を陸前にくれる。

 そう。彼は『彼』。他の誰でもない、思い出の少年。

 今の兼代の顔と記憶の中の顔が重なると、不思議な安心感が満ちた。

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