第6話

 大事な場面ほどトイレに行きたくなる。俺の体質はそういうものなのだ。

 教室からトイレまでの距離は30メートルほど。今の進度で、名誉棄損のプリズン・ブレイクが発生するとは考えにくいが、時間帯がヤバい。

 今は登校時間。誰もがトイレを利用出来る時間。

 パンク状態の可能性もあるのだ。


「……」


 道行く生徒達にはなるべく悟られないように。いくら俺の体質が市民権を得ているとは言っても、なるべくならあまり知られたくないものだ。「あ、こいつこれからリリース&リリースするんだぜ」なんて思われるのは、いくつになっても恥ずかしい。

 まだ寒気が下方から持ち上がるような進度ではない。最悪、空きに空いている職員室隣のトイレに入るほどの余裕はある。

 焦らず、着実に歩を進めろ。

 風林火山を心に刻め。

 気が付けば残りは5メートルほど。ここの男子トイレにおける個室は二個。

 しかし俺のシックスセンスは告げる。そのうちの片方は今、埋まっているようだ。通学している途中に我慢していて、到着したら放出しようという寸法だったのだろう。

 残るパイは一切れ。

 この一切れを、出来れば取っておきたいものだ――


「あ」

「あ」


 悪魔が出現した。

 赤間と遭遇した。

 赤間は俺の顔を数秒見て、情報を把握したのだろう。みるみるその顔は邪悪さを増していき、


「うっし」


 赤間はトイレにダッシュした。


「待てゴラアオカマ!」


 そうはさせぬ! 赤間の背中を踏ん掴んで、床に叩きつけた。


「んだよオイ、トイレに行きてえだけだぞ俺は? クックク、そんなムキになんじゃねーよ」

「うっしって言ったろ。絶対にお前、俺の状況悟って入ろうとしたろ? 個室埋めてえだけだろ。オカマはオカマらしく女子トイレ入ってろ」

「あー、そいつァ聞けねえな。一回やって補導されたことあっから」


 やったのかこの変態野郎。


「とにかく俺の邪魔をすんじゃねえ。窮鼠は猫を噛むが、窮した俺はお前を殺すぞ」

「言うねェ。下っ腹ぶん殴るぞ。穢れたポロロッカさせてやろーか」

「お前の血と臓物でか?」

「お前、我慢してる時は過激になるよなあ。クックク。朝から物騒なこと言うんじゃねえよ。そんなことより、俺に構ってていいのかよ?」

「な……?」


 戦慄は、俺の中に潜む獣の唸りのせいではなかった。


「う~~、間に合った!」

「……!」


 しまった。悪魔とは狡猾に他人を動かし、目的を果たすものだった。

 この時を待っていたのだ。俺と争って時間稼ぎをして、誰かがトイレを塞いでくれるこの瞬間を。


「クックク、これでもうお前はこっちを使えねえな。ま、せいぜい別のトイレを探すんだな。その様子は後ろからスマホで撮っててやるから安心しな」

「ありがとう、死ね!」


 悪魔の顔面を壁に叩きつけて、職員室方面への道へ舵を切った。悪魔はべちゃりと床に倒れたが、帰りに回収すれば問題ないだろう。

 余計な動きをしたせいで、俺の体内のゲートにはまばらに敵軍が押し寄せている。それを屈強なゲートキーパー達が今は鎮圧しているが、その奥に見ゆる巨大な敵軍の影は、徐々にその鮮明さを増している。

 この門を突破されれば、後は本丸――どころではない。刃は直に将軍の心臓に届き、兼代軍の壊滅は確定する。

 急がなければ。


「職員室……職員室!」

 職員室に行くには渡り廊下を渡り、隣の第二校舎に行く必要がある。今はこの渡り廊下は俺一人。窓がずらっと並んで、交通安全のマナーや読書の大切さを呼びかけるポスターに飾られたこの道を、俺はなるだけ無様にならないように小走りで進む。

 このまま行けばもう大丈夫だ。敵軍もまだ本隊が到着してはいないし、赤間も沈黙している。俺は間に合い、晴れてあのエデンへ到着できる。

 そう考えるのが当たり前だし。

 それが揺らぐことなんて、ありえないと思っていた。




「キャーーーーーーーーーーーーーー!」




 サスペンスドラマでしか聞かないような悲鳴が、第一校舎の方から響き渡った。

 何か起こったのか? そんな疑問を抱くが、俺は足は止めなかった。こんな状態で行ってもすぐに俺はトイレに駆け込むわけだし、まずはすっきりしてからだ。第一校舎には頼もしい若者達が大勢いるのだから、何とか助けてくれ。

 そんな他力本願を――果たして、神様は咎めたのか。

 だとしたら神様とは随分と残酷なものだ。

 「ガラスを通り抜けて」。

 「肌すら黒い、ヒトガタ」が、何十人とこの渡り廊下に侵入してきた。

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