第46話「泥水」
それまで対六型ファントム特務部隊は支部を持っていなかったのだが、アリアが上級観測兵となったのをきっかけにアンブローズ隊長が申請したことで、レストラン〈ロジャーズダイナー〉が拠点として指定された。
この店は密集地区と商業区の境目にあり、暗く、じめじめしていて、肉が恐ろしく薄いハンバーガーや、同じく薄っぺらい上にシロップがほんの少ししかかかっていないパンケーキを出す閑古鳥が鳴いてる店だった。
経営しているロジャー親父はもと観測兵で、拠点とされることにひどく難色を示した。アンブローズ隊長がどうせ客来ないんだし俺たちがカネを落とすと考えてくれと説得し、しぶしぶ合意した。ロジャーはかつて隊長の上司だったそうで、あまり彼のことが好きではないようだった。
アリアは観測兵となってから毎日朝食を取らず、昼過ぎにファーストフードで済ませるようにしていたが、ダイナーが拠点になってからはここで食事するのを日課にするようになった。その日も明らかに水で薄めてあるクランベリージュースを飲みながらハンバーガーを食べていると、隊長が来てこう言った、「アリア、髪切ったか?」
「いや切っていないわ」
「絶対に切っただろう」
「本人が違うと言っているでしょ、寝てる間にファントムが勝手に切ったのなら別だけどそういう気配はないし」
「とくればあれか、世界が重なっているに違いない」
アンブローズ隊長によればリンダリア共和国は局地的にものすごく多数の世界が存在しているらしく、国外は同じでも王政が続いている、熱帯気候になっている、隕石の落下でデレキアが滅びニューノールが首都になっている、など色々な違いがある共和国が重なり合っていて、一秒ごとに七穣くらいずつ増えているのだという。その中にはごく細かい差異の世界もあり、アリアが今朝二十秒早く起きた世界とか、あくびをした回数が一回少ない世界などもあり、そういう差異が少ない世界がよく重なって、人によって違う視点でものを見せる場合があるのだそうだ。
「だからこの店の食い物がうまい世界、コニーが女の世界、プリンス班長が出世して大隊長になっている世界、クラウスがチョコレートバーではなくハムカツを食ってる世界、太陽が西から昇る世界、六型ファントムが駆逐されてて俺たちが無職になってる世界などが、なんの前触れもなく明日入れ替わっていても不思議はない」
「隊長が私の髪型なんかを気にしていないというだけじゃないのかしら」
「俺はそういう細かいところに気がつく男だ。世界が重なっているに違いない。それに、お前は本当に髪を切っていないと言い切れるのか? 絶対の確信があるというのか?」
「あるわよ」
「なら俺は切った方に五兆フレイムを賭ける」
「隊長、前から思っていたのだけれど、我が国がハイパーインフレによって飴玉一個買うのに山みたいな札束が必要な状況だからといって、そんなにぽんぽんお金を賭けるのはやめたほうがいいわよ」
「やめないほうがいいってのに八兆フレイム」
「話にならないので仕事を開始するわ。今日はどんな任務があるかしら?」
「〈でかくて邪悪な怪物〉がその辺に二体うろついていて住民は多大な恐怖を覚えている。こんなところで無駄口をたたいている暇があったら早く行って退治してきたらどうなんだ?」
アリアは顔をしかめて無言で店を出て行った。
「親父、スープをくれ、な、あれが部下のうちで一番まともなやつなんだ。あのうるさいやつが一番だぞ。他がどれだけひどいか分かるだろう?」
「エミール、おめぇは相変わらず馬鹿なことばっかり言ってんな」ロジャー親父はため息混じりに言う。「まだシェリルのやつが隊長のほうがいいんじゃねえのか?」
「寝言はいいからスープをくれ。俺は脳が疲れてる」
そして親父が出したのは泥水だった。アンブローズは目を疑った。いくらこの店がひどい料理ばかり出すといってもこんなことがあり得るだろうか?
「なんだこりゃ、泥水じゃないか。親父、なんのつもりだ?」
「泥水だと? 馬鹿言ってねえでとっとと飲め」
アンブローズは、またしても世界が重なって見えているのか、あるいは親父流のいやがらせか、と悩んで、結局飲まずに店を出た。背後でロジャー親父が怒鳴っているがおかまいなしで。
ふと見ると、川をコンソメスープが流れていた。朝食は抜くことに決めた。
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