第34話「本質」

 残骸小道の錆びたシャッターの前で、アリアは倒したデルム幼体を前に休んでいた。強敵だった。毒液もさることながら現実改変が厄介すぎた。そこらへんの野生動物とは違い、欠損部分を非観測状態へ意向できぬよう固定するという狡猾さを持ち合わせている。観測銃を何十発も撃ち込み、錆びた刃で貫くまで数百回の改変が行われた。通常観測兵は強制的に平行世界へ置換されてもさしたる影響はないが、今回はさすがにひどい乗り物酔いに似た世界酔いを体験し、持病のパーヘリオン幻覚を併発、疲労困憊で座り込んでいる。


 目の前に一人の観測兵が横切った。のんきそうに、そこらの肉屋で買ったものらしいハムカツを齧っている。狼のような鋭い印象の男だ。

 アリアの同僚であるクラウス・シェンカーだった。ここしばらく現実世界からは消えていたはずだが、また現れたらしい。


「クラウス。また顕在化したのかしら? ペース早いわね」アリアはもっと早く援軍として彼が来てくれればよかったものを、と内心呟く。


「ああ……アリアか。確かに結構なペースだな。オレも驚きだ。むろん一時的なものだろうが」クラウスは今気づいたようにアリアの方を見て、言った。「ところであれ以来、幻覚はどんな感じだ?」


「体調が悪いとき頻繁に見るわ。さっきも見た。やっぱりあなたが私の脳を弄くったのが原因じゃなくて?」


「違う、パーヘリオンのせいだ」クラウスは上天の、二つ目の太陽を指差して言う。「あれの活動も活発になりつつある。大跳躍がいつ起こってもおかしくはないな」


「大跳躍?」


「大規模な世界の改変、移動だ。観測兵やファントムどもが普段使う技術とは異なる距離の跳躍だ。銃弾が心臓にめり込む。あと数センチずれていたら? セーフ。そんなもんじゃない。世界規模ですべてが変わる。既にいない神が復活したり、数千万単位で死者が出たり、あるいは歴史的に極めて大きな出来事がいくつも起こらなかった世界になってしまうかもしれん。もしくは、人類が既に絶滅している世界になってしまうかもな」


「それに対してできることは?」


「生憎、ない。いや、幸いにもない、と言うべきか」クラウスはハムカツを食べ終え、口の周りの衣を拭いながら言った。「できることがあると、努力しなければいけないし、失敗したときにショックを味わうからな。できることがなければ潔いし、無力があらわになる心配もない。それに破滅が待っているとしてもコトは一瞬だ。だから気にする必要はない。跳躍は一瞬で終わる。起こったことにもきっと気づかないし、気づいた人間がいたとしても、気のせいだと思うだろう」


「それは気楽でいいわね」


「だからなすべきことをなせ、アリア。オレもそうする。ここであろうと、ここでない場所であろうと」


 アリアは頷き、気になっていたことを尋ねる。「クラウス、あなたはこの世界に顕在していないとき、何をしているの?」


 クラウスはじっとアリアの顔を見てから答えた。「ここではない場所で何かをしている。車の整備とか、倉庫内作業とか、南極点探査とか、依頼された殺人とか、観測兵の隊長職とかもっと上の指揮官の仕事、パンを売ったり靴を磨いたり、文章を書いたり映画を撮ったりしている」


「つまり、あなたはそこでは別人なのね?」


「仕事は違う。しかし、オレはいつだろうとオレだ。クラウス・シェンカーだ。バルニブルグからやって来た、動きが早く誰にも見ることはできず、評判の肉屋のハムカツを食い、ソーダ水をさらに水で薄めて飲むクラウスだ。お前もそうじゃないのか、アリア? 昨日のお前と今日のお前は、違う日を生きている。違う世界を生きている。だけどお前は、アリア・デイだろう? Rがひとつ多くて、身長が低くて目つきが悪い、白金色の髪のアリア・デイだ」


「なんですって? どうやったら私の髪が白金色に見えるの?」


「なるほど。白金色の髪であることはお前の同一性から外れているのか。まあ何色であろうと、髪があろうとなかろうと、お前はアリア・デイだ。それはきっと変わらない、どの世界でも」


 クラウスが立ち去った後、アリアは近くの宝石店のひび割れたショーウィンドウで己の姿を見た。


 髪の毛の色は、自分で思い描くそれとは違っていた。

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