第9話「黒い外套」
リンダリア共和国西端の大都市、ウェスタンゼルスは暑い街だ。
夏ともなれば焼け付くような日差しと驟雨が立て続けに押し寄せ、人心を闇雲に熱狂させる。
ましてや今は幻影とはいえ、太陽がもうひとつ輝いているのだ。
日没の少し前、暴力的なまでに激しい夕立が去ると、一切涼しさという慈悲を与えてくれない熱帯夜が来る。
労働者はぬるいビールをひたすら飲んでそれを忘れようとする。
もうひとつ、ウェスタンゼルスの街の特徴は、看板が多いということだ。摩天楼や通りの両側を彩るそれらの中には既にない企業や商店のものも多く含まれる。あるいは、最初からどこにも存在しない架空の店舗や会社、商品を宣伝する、幽霊じみたものが、目抜き通りから細く曲がりくねった裏路地、駅構内、飲食店や民家の内部にまで無数に掲げられている。
五月末ですでにひどく蒸し暑かった。片側四車線の騎士団通り、道のずっと先にミストラル・ビールの看板が見える。天使がジョッキを掲げるデザインのそれは、陽炎で歪んでいた。
アリアは大きいサイズの外套を羽織ったまま、遠くに見える逃げ水に飛び込んでやりたい気分だった。それが本当に水だとしたら、とても冷たいだろうと夢想しながら。
さっきまでシェリルもいたが、「暑すぎ」と言い残して缶ビールを啜りながら帰ってしまった。あんな怠惰な先輩とは違うという意地でアリアもうろうろしていたが、特に敵対するファントムもいないしもう帰ろうと思っていたところでそれは出現した。
いきなりアリアの影の中から、なんの前触れもなく真っ黒い人型のなにかが浮かび上がった。
それは黒い外套を纏い、アリアとそっくりな顔をした少女だった。しかし目つきはいくぶんアリアより柔和だ。
【暑さ対策できていますか、アリアさん。こういう日は醤油を七リットル飲みましょう】
「死ぬわよ」
相手の表情は愉悦、そして手には潮の刃を握り締めている。
これはまずい、と思った瞬間、黒い外套の少女はナイフを振りかざす。
アリアは跳躍し、ビルの側面にへばり付いて様子を見ようとする。
しかし相手も一瞬で、その五階ほどの高さまで飛来し切りかかってきた。
窓ガラスが砕け、アリアと少女はオフィス内に闖入する。
「ここは冷房が効いているわね。あなたが誰か知らないけれどそっくりさん、この猛暑にも負けない熱烈なトルメンタ波動をお見せするわ」
【余裕ね、アリアさん。だけれど私はあなたの宿敵、〈
ビル内のオフィスにいた会社員たちは慌てて口々に叫ぶ。「な、なんだ、いきなり観測兵が乱入してきたぞ」「どうやらあの黒い外套のほうが悪者だ」「ちょっと待て、あれはブラッククロークと呼称される自律型ファントムじゃないか」「ああ、確か夏のひどく暑い日に出現するやつで、観測兵を模倣するという怪物ではないか」「トルメンタ波動値が高いほど出現しやすいという話だ」「果たしてあの女の子は勝てるのだろうか」
隊長に幻信で聞こうと思っていたことを社員たちが答えてくれたので手間が省けた。
アリアは作戦を開始する。すなわち、観測兵の領分である〈観測〉を行うのだ――勝ちに導いてくれる、面倒な案件を無理やりに終わらせる何かの観測を。
「テンペスト、あなたは私をここへ追い込んだつもりだったようだけど、私がここに誘い込んだということにまだ気づいていないのかしら」
【何ですって?】黒い外套の少女に初めて動揺が走った。
「あなたはすでに負けているのよ。足元を見れば、その理由が分かるはずよ」もちろんアリア自身は適当に言っているので分からない。
テンペストは足元を見て、驚愕の表情を浮かべる。
【こ、ここはごにゃごにゃの真上! そ、そうか、このビルは鉄星証券のオフィス! あなたは最初から、このビルがごにゃごにゃの真上に建設されていることを知って!】
ごにゃごにゃ、の部分がよく聞き取れなかったがアリアはあまり気にしなかった。
「そうよ、テンペスト。ここの地下六百メートルに眠るそれが一日に一度の
するとテンペストの体が膨大な光を放ち、苦悶の叫びを上げる。
好機とばかりにアリアは潮の刃を握り締め、大量のトルメンタを纏わせて自らの映し身を切り伏せる。
黒い外套の少女の肉体は霧散し、再びアリアの影の中に吸い込まれていく。
「ここの地下にあるもののことを考えれば、あなたがその名前を名乗ったのは皮肉なものね――〈
こうしてアリアは無事に観測兵を襲うファントム〈黒外套〉を退けたが、今後心が欲望に負ければたぶん再びテンペストは目を覚ますだろう。そうならないように色々頑張っていきたい。となんとなく決意してアリアは帰宅した。
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